第三十五話 静まり返った村
北へ向かう街道を進み、さらに一日が過ぎた。
道は次第に細くなり、周囲の木々も背丈を増している。
人の往来はほとんどなく、時折、野鳥の鳴き声が聞こえるだけだった。
「永遠の森までは、あとどれくらいですか?」
セレナが尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「順調に進めば、あと数日といったところね。ただ、この先は街道から外れる場所もあるから、もう少しかかるかもしれないわ」
「そうですか。思ったより遠いですね」
「ふふ。急ぐ旅でもないでしょう?」
「それはそうですが、師匠の故郷にも早く行ってみたいです」
「そんなに楽しみ?」
「はい。師匠が育った場所ですから」
彼女は小さく笑った。
「期待しすぎないでね。特別なものがあるわけじゃないわよ」
彼女は少し呆れたように言いながらも、どこか嬉しそうだった。
セレナはその後ろを歩きながら、彼女の故郷について思いを巡らせた。
仮面の部族が暮らす村。そこには、彼女が慕う師匠もいるという。
自分もいつか、彼女のように誰かに魔法を教えられるほどになれるだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
「……あら?」
先を歩いていた彼女が足を止めた。
「どうしました?」
「道の先に、建物が見えるわ」
彼女が指さした先には、木々の間から屋根のようなものが見えていた。
近づいてみると、そこには小さな村があった。
街道から少し外れた場所にある、木造の家々。
畑らしき土地も見えるが、どこにも人影はない。
「村ですね。こんなところにも人が住んでいたんだ」
「そうね。でも……少し様子がおかしいわ」
彼女の言葉に、セレナは周囲を見渡した。
村の入口には柵があったようだが、今はあちこちが壊れている。
家の壁には大きな傷が刻まれ、屋根の一部も崩れていた。
それだけではない。
地面には、何かを引きずったような跡がいくつも残っている。
「魔物に襲われたんでしょうか」
「その可能性が高そうね。気をつけて」
二人は武器に手をかけ、慎重に村へ入った。
村の中は、異様なほど静まり返っていた。
扉が開いたままの家。倒れた荷車。地面に散らばった食器や農具。
最近まで人が暮らしていた痕跡はあるのに、住民の姿が見当たらない。
「誰もいませんね……」
セレナは一軒の家に近づき、入口から中を覗いた。
家具は倒れ、床には割れた食器が散らばっている。
壁には何か鋭いもので引っかいたような跡が残っていた。
そして、部屋の隅には白い糸のようなものが絡みついていた。
「師匠、これを見てください」
彼女も近づき、糸に触れないよう注意しながら観察した。
「……蜘蛛の糸ね」
「蜘蛛ですか?」
「ええ。でも、普通の蜘蛛が作るものとは思えないわ」
彼女は壁に残った糸を見上げた。
それは人の腕ほどもある太さで、何本も束になって壁に張りついている。
「かなり大きな魔物がいたのかもしれないわね」
セレナは村の奥へ視線を向けた。
その時、胸の奥に嫌な感覚が走った。
「……師匠」
「ええ。私も感じたわ」
彼女の声が低くなる。
村の奥から、濁った気配が漂っていた。
昨日の魔物から感じたものと似ている。けれど、今度のものはもっと強く、重たい。
「何かいるのでしょうか?」
「分からないわ。けれど、ここで長居するのは危険ね」
二人が村の奥へ進もうとした時、セレナの足元に何かが転がってきた。
小さな木製の人形だった。
泥に汚れ、片腕が折れている。
セレナはそれを拾い上げた。
「子供の玩具ですね……」
その人形を見つめていると、胸の奥が少しだけ重くなった。
ここで暮らしていた人々は、どこへ行ってしまったのだろう。
逃げられたのか。それとも……。
「セレナ、それは置いておきましょう」
彼女の声に、セレナは我に返った。
「はい」
人形を元の場所にそっと置き、彼女の後を追う。
村の中心に近づくにつれ、蜘蛛の糸は増えていった。
家と家の間に糸が張り巡らされ、道を塞ぐように垂れ下がっている。中には、家の屋根から地面まで覆い尽くされているものもあった。
「これは……」
セレナは思わず足を止めた。
村の広場に、巨大な糸の塊がいくつも転がっていた。
その一つは、人間ほどの大きさがある。
「まさか……」
彼女が慎重に近づき、糸の表面を確かめた。
「中に何かが包まれているわ」
「生き物でしょうか?」
「分からない。触らない方がいいわね」
彼女がそう告げた直後だった。
広場の奥から、かすかな物音が聞こえた。
カサカサ。
何かが地面を這うような音。
二人は同時に振り返った。
建物の陰に、黒い影が動いたように見えた。
「師匠、何かいます!」
セレナが剣を抜く。
彼女も弓を構え、建物の陰へ狙いを定めた。
しかし、影はすぐに姿を消してしまった。
「……追わないで」
彼女が静かに言った。
「今は、相手の姿が分からないわ。無理に追いかけるのは危険よ」
「分かりました」
セレナは剣を構えたまま、周囲を警戒した。
先ほどの気配は消えていない。
むしろ、村全体に広がっているようだった。
「ここは、いったん離れましょう。村の人が逃げたのなら、近くに避難している場所があるかもしれないわ」
「はい」
二人は来た道を戻り始めた。
その時、セレナの視界の端に、家の壁に刻まれた大きな傷が映った。
鋭い爪で引き裂いたような跡が、何本も並んでいる。
その大きさから考えても、相手はかなり巨大な魔物だろう。
「師匠。さっきの糸を見ても、かなり大きな蜘蛛がいると考えてよさそうですね」
「ええ。おそらく、この村を襲ったのもその魔物でしょう」
「村の人たちは……」
彼女はすぐには答えなかった。
「まだ分からないわ。生きている人がいる可能性もある。だから、まずは周辺を調べましょう」
セレナはうなずいた。
村を出る直前、もう一度振り返った。
人の暮らしがあった場所は、今や蜘蛛の糸に覆われ、静まり返っている。
何が起きたのか。
そして、あの濁った気配は何なのか。
答えはまだまだ分からなかった。
*
村から少し離れた林の中で、二人は一度足を止めた。
「師匠、あの村はいつ頃襲われたのでしょう?」
「はっきりとは分からないけれど、それほど昔ではなさそうね。家の傷も、糸も、まだ新しいものがあったわ」
「それなら、まだ近くに魔物が潜んでいるかもしれませんね」
「そうね。今夜は少し離れた場所で休みましょう。明るいうちに周辺を調べて村の人を探しましょう」
「分かりました」
セレナは周囲を見回した。
森の中は静かだった。
鳥の声も、獣の足音も聞こえない。
まるで、この一帯から生き物が逃げ出してしまったかのようだった。
その静けさの中に、かすかな音が混じった。
カサカサ。
セレナはすぐに振り返った。
だが、そこには木々が並んでいるだけだった。
「どうしたの?」
「今、何か聞こえた気がして……」
彼女も耳を澄ませた。
しばらく待ってみたが、再び音がすることはなかった。
「気のせいかもしれないわね。でも、警戒は続けましょう」
「はい」
二人は林の奥へ進み、夜を過ごせる場所を探すことにした。
その頃、彼らが離れた村の中では、誰もいないはずの家の屋根で、何かがゆっくりと動いていた。
幾本もの脚が、木の板を踏む。
その巨体は、蜘蛛の糸に覆われた村を静かに見下ろしていた。
やがて、黒い影は屋根の向こうへと姿を消した。
村には再び、何の音も聞こえなくなった。




