第三十四話 北への旅路
サイレンを出発してから、二日が過ぎた。
王都を離れた二人は、北へと続く街道を進んでいた。
永遠の森までは、まだ距離がある。
街道沿いには小さな集落や農地が点在しているものの、北へ進むにつれて人の往来は少なくなっていった。
「この先は、しばらく大きな町はないわ。必要なものは早めに揃えておきましょう」
先を歩く彼女が振り返る。
「分かりました。食料も水も、まだ余裕はありますけど」
「そうね。でも、森に入ったら思うように補給できないかもしれないわ。油断は禁物よ」
「はい、師匠」
セレナは素直に頷いた。
こうして彼女と旅をするようになってから、もうずいぶん経つ。
最初は魔法を教わるためについていくだけだった。だが、今では戦闘でも移動でも、彼女の判断を頼りにすることが多い。
もっと役に立ちたい。
そう思う一方で、まだまだ教わることばかりだった。
「それにしても、師匠の故郷ですか。どんなところなんでしょう?」
「そうね……静かなところよ。外の人が訪れることはあまりないけれど、暮らしている人たちはみんな良い人ばかりだし」
「師匠も、そこで育ったんですよね」
「ええ。数年振りにはなるけどね」
彼女の声には、懐かしむような響きがあった。
セレナは、その横顔を見つめた。
いつも仮面をつけ、名前さえ明かさない彼女は、どんな暮らしをしていたのだろう。
少し気になったが、尋ねることではできなかった。
「ふふ。そんなに気になる?」
「えっ?」
「私の故郷のこと。さっきから、ずいぶん考えているみたいだから」
「いえ、どんなところなのか楽しみだなと思って」
「そう。なら、着いてからのお楽しみね」
彼女はそう言って、再び前を向いた。
その時だった。
セレナの足が止まる。
「……師匠」
「どうしたの?」
「何かいます」
街道の先。木々の向こうから、何かが動く気配がした。
獣の足音にしては重い。しかも、こちらへ近づいてくる。
彼女も弓に手をかけた。
「魔物かしら」
「たぶん……それだけじゃありません」
セレナは仮面の奥で目を細めた。
胸の奥に、嫌な感覚が広がっていた。
ただ魔物が近くにいるというだけではない。
何か、濁ったものがまとわりついているような感覚だった。
やがて木々の間から姿を現したのは、大きな獣の魔物だった。
四本の脚で地面を踏みしめ、鋭い爪を持つ前脚を低く構えている。身体にはいくつもの傷があり、荒い息を吐きながら二人を睨みつけていた。
「ずいぶん興奮しているわね」
「普通の魔物とは、少し違う気がします」
「気をつけて。無理に近づかないでね」
彼女が弓を構える。
魔物は二人を見据えたまま、地面を蹴った。
「来ます!」
セレナは剣を抜き、正面から迫る魔物の突進を受け流す。
重い衝撃が腕に伝わり、足元の土が大きくえぐれた。
魔物はすぐに身体を返し、鋭い爪を振り下ろす。
セレナは後ろへ跳び、攻撃をかわした。
その隙に、彼女の矢が放たれる。
炎をまとった矢が魔物の脇腹に突き刺さり、火花を散らした。
しかし、魔物は怯むどころか、さらに激しく暴れ始めた。
「効いていないわけではないみたいだけど……」
「動きが止まりません!」
魔物は炎を振り払うように身体を揺らし、再びセレナへ向かってくる。
その瞬間、セレナの胸に嫌な感覚が走った。
魔物の身体から、何かが滲み出しているようだった。
怒りとも、憎しみともつかないもの。
それが魔物自身のものなのか、それとも別の何かの影響なのかは分からない。
だが、触れてはいけないものだと本能が告げていた。
「セレナ!」
彼女の声で、セレナは我に返った。
魔物の前脚が迫っている。
身をひねってかわすと同時に、セレナは地面を蹴った。魔物の懐へ入り込み、剣を振り抜く。
刃が硬い皮膚を裂き、魔物の身体が大きく傾いた。
そこへ、彼女の二本目の矢が飛ぶ。
今度は魔物の首元に炎の矢が突き刺さった。
魔物は苦しげな声を上げ、数歩よろめいた後、地面に倒れ込んだ。
しばらくして、その身体から力が抜けていく。
「……終わりましたね」
「ええ。怪我はない?」
「大丈夫です」
セレナは剣を収め、魔物の死骸を見下ろした。
先ほどまで感じていた嫌な気配は、少しずつ薄れている。
「師匠。この魔物、何かおかしくありませんでしたか?」
「そうね。普通なら、あれほど傷を負えば逃げるか、動きが鈍くなるはず。でも、まるで何かに追い立てられているようだったわ」
「僕も、そんな感じがしました」
彼女は魔物の身体を観察した。
「魔物が凶暴になる理由はいろいろあるわ。縄張りを荒らされたり、餌を求めていたり。でも、今のは少し違う気がする」
「何かに操られていたんでしょうか?」
「そこまでは分からないわ。今は、そう決めつけない方がいいわね」
彼女は立ち上がり、周囲を見回した。
「この辺りに、ほかの魔物がいるかもしれない。先を急ぎましょう」
「はい」
二人は再び街道を進み始めた。
セレナは歩きながら、先ほどの感覚を思い返していた。
あの魔物から感じたものは、これまで出会った魔物とは違っていた。
ただ凶暴なだけではない。もっと暗く、重たい何か。
その感覚を、セレナは知っているような気がした。
しかし、思い出そうとすると、頭の奥に薄い霧がかかったように何も浮かんでこない。
「少し休憩しましょうか」
彼女の声に、セレナは顔を上げた。
街道脇に、ちょうど腰を下ろせる岩場があった。
「はい。ありがとうございます」
荷物を下ろし、水袋を取り出す。
彼女は木陰に腰を下ろし、周囲の様子を確かめていた。
「師匠は、先ほどの魔物を見たことがありますか?」
「似たような魔物なら何度も見てきたわ。でも、今日のような様子は初めてね」
彼女は少し考え込んだ後、セレナに視線を向けた。
「魔物の件も、故郷に戻ったら師匠に相談してみましょう。あの人なら何か知っているかもしれない」
彼女の師。
その人物がどれほどの知識を持っているのか、セレナにはまだ分からない。
けれど、彼女がそこまで信頼している相手なら、きっとすごい人物なのだろう。
「お会いするのが楽しみです」
「ふふ。話が長い人だから、覚悟しておいた方がいいわよ」
「師匠がそう言うほどなんですか?」
「ええ。気がついたら日が暮れていた、なんてこともあるから」
彼女は少し呆れたように笑った。
セレナもつられて笑う。
そんな穏やかな時間を過ごしながら、二人は再び北へ向かった。
街道の先には、まだ見ぬ永遠の森が広がっている。
そして、その森へ近づくほどに、二人の知らない異変もまた、少しずつ姿を現そうとしていた。




