第二十三話 頭領と勇者
朝の訓練場には、剣を打ち合わせる音が響いていた。
訓練場の片隅で、魔法の訓練をひと段落させたセレナは一息ついた。
「さて、今日は魔法の訓練だけじゃないわよね?」
彼女が弓を手に取りながら声をかけた。
「討伐任務ですね」
「ええ。先日の街道とは別の場所らしいわ。今回は少し遠くまで行くみたい」
二人は装備を整え、討伐軍の仲間たちと合流した。
*
今回の目的地は、街道から外れた岩場だった。
近隣の村から、夜になると獣のような声が聞こえるという報告があったらしい。
「最近は、森の中だけじゃなく、こんな場所にも魔物が出るんだな」
先を歩く兵士がぼやいた。
「だから俺たちが調べるんだろ。何もいなけりゃ、それでいい」
別の兵士が笑いながら返す。
セレナは周囲を警戒しながら、彼らの後ろを歩いていた。
やがて岩場の奥で、地面を引っかいたような跡が見つかった。
彼女がしゃがみ込み、指先で土の状態を確かめる。
「新しいわね。けれど、これだけでは何の跡かまでは分からない」
「魔物が通った可能性はありますか?」
「あるわ。注意したほうがいいわね」
そのとき、岩陰から低い唸り声が聞こえた。
兵士たちが一斉に武器を構える。
姿を現したのは、灰色の毛に覆われた狼型の魔物二匹だった。
「来るぞ!」
先頭の兵士が叫ぶ。
一匹が飛びかかってきた。
セレナは剣で爪を受け止め、勢いを逃がすように横へ踏み込む。
もう一匹が側面へ回ろうとしたところへ、彼女の矢が飛んだ。
矢に仕込まれた魔法陣が光り、魔物の足元で小さな火花が弾ける。
動きが鈍った隙を逃さず、兵士たちが取り囲んだ。
短い戦闘の末、二匹の魔物は倒された。
「よし、周囲を確認しろ! ほかにも潜んでいるかもしれん!」
指揮役の声に従い、兵士たちは岩場を調べ始めた。
セレナは剣についた土を払い、彼女のそばへ戻る。
「師匠、今の魔法は……」
「説明は帰ってから。今は周囲の警戒が先よ」
「はい」
彼はすぐに表情を引き締めた。
今は魔法を覚えることが目的ではない。
戦場では、目の前の状況を判断することも大切なのだ。
幸い、それ以上魔物が現れることはなかった。
討伐軍は周辺に危険がないことを確かめると、帰路についた。
*
夕刻、討伐軍の拠点に戻ったセレナたちは、報告を済ませるため指揮官のもとへ向かった。
ヒイラギは机の前に座り、報告書に目を通していた。
灰色の髪。片目を失い、左腕は肘から先がない。身体には無数の傷が刻まれている。
大柄なその姿には、長い戦いを生き抜いてきた者だけが持つ重みがあった。
「岩場に狼型の魔物が二匹か。周辺の村にも警戒を呼びかけておこう」
ヒイラギは報告書を閉じた。
「それと、頭領。昔の仲間から連絡が届いています」
傍らにいた年配の兵士が告げる。
その呼び方を聞いたヒイラギは、ほんのわずかに目を細めた。
「……そうか。あいつらも元気にやっているらしいな」
「相変わらず、頭領のことを気にかけているようです」
「余計なお世話だと言っておけ」
ぶっきらぼうな返事だったが、声にはどこか懐かしさが混じっていた。
セレナたちは、そのやり取りを黙って聞いていた。
「頭領と呼ばれていましたね」
拠点を出たあと、彼は彼女に小さな声で尋ねた。
「昔、反乱軍を率いていた頃の呼び名らしいわ」
彼女はそう答えた。
「ヒイラギさんは、昔からこの国にいるんですか?」
「私も周りの方から聞いただけだから……」
彼女は少し考えてから続けた。
「ただ、ヒイラギさんは昔、魔王に家族を奪われたそうよ。それが反乱軍を率いるきっかけになったと聞いたわ」
セレナは足を止めた。
魔王という存在が、どれほど多くの人生を狂わせてきたのか。
「……そうだったんですね」
それ以上、彼は尋ねなかった。
*
夜。
拠点の食堂では、兵士たちが夕食を囲んでいた。
セレナも師匠と共に食事を終えかけた頃、少し離れた席からヒイラギの声が聞こえてきた。
「そういえば、昔の話を聞きたいと言っていた者がいたな」
ヒイラギは向かいに座る兵士に目を向けた。
「勇者のことですか?」
「そうだ」
その名を聞き、セレナは自然と耳を傾けた。
ヒイラギはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「俺があの男と出会ったのはチャイムの王城じゃない。西の大山脈だ」
*
西の大山脈。
チャイムよりさらに西へ進んだ先にそびえる、険しい山々。
その中腹には魔王に抗う反乱軍が潜伏する砦があった。
当時、ヒイラギはその反乱軍を率いていた。
魔王に家族を虐殺され、故郷の仲間たちも失った。
残された者たちを守り、魔族領を解放する。
それが、彼の戦う理由だった。
そんな砦に、ひとりの奇妙な旅人が現れた。
鉄の仮面をつけ、黒い外套をまとった男。
人間なのか魔族なのか、それとも別の何かなのか。
初めて目にした時には分からなかった。
しかし、その男は反乱軍の兵士たちに敵意を向けることなく、魔王に抗う者たちの話に耳を傾けた。
やがて、男はヒイラギたちと行動を共にするようになった。
勇者。
のちにそう呼ばれることになる男だった。
「……あの男は、妙な男だった」
現在のヒイラギは、遠い昔を思い返すように語った。
「仮面のせいで最初は警戒したが、戦いになれば誰よりも先に飛び出していく。自分の身が危ないことなど、まるで気にしていなかった」
「強かったんですか?」
兵士の問いに、ヒイラギは即座に答えた。
「強いなんて言葉では足りん」
それから、少しだけ口元を緩めた。
「だが、あの男は強さを誇るために戦っていたわけじゃない。目の前で誰かが危険にさらされれば、考えるより先に体が動く。そういう男だった」
ヒイラギは杯を手に取ったが、飲まずに卓上へ戻した。
「チャイム奪還戦でも、そうだった」
反乱軍がチャイムを取り戻すために進軍したとき、あいつは先陣を切った。
王城へ至る道を塞ぐ魔物を次々と倒し、俺たちが進める道を切り開いた。
反乱軍が王城へ入ったあとも、あいつは城外に残った。
そこへ魔王に操られた大型魔獣が現れたんだ。
あの男はその大型魔獣を倒し、城外の仲間たちを守った。
しかし、王城で魔王と対峙した俺たちは敗北した。
反乱軍は撤退を余儀なくされ、戦場は混乱に包まれた。
そのとき、あの男が逃げ遅れた仲間たちを助けながら、たくさんの馬たちを連れて現れ、撤退を手伝ってくれたんだ。
「あいつは仲間が逃げ切れたか、馬は無事か。そんなことばかり気にしていた」
ヒイラギは、昔を懐かしむように目を伏せた。
食堂には、しばらく静かな空気が流れた。
「……その後、どうなったんですか?」
若い兵士が尋ねた。
ヒイラギは目を閉じ、ほんの一瞬だけ黙った。
「戦場は中央大陸の王都に移り、激戦のあと、あの男が魔王を討伐した。だが、意識は戻らなかった」
誰も口を挟まなかった。
「それでも、あいつが魔王を倒したことは変わらん。俺たちは、眠ったままのあの男を胴上げして喜んだ。あのときばかりは、誰もが子供みたいにはしゃいでいたな」
ヒイラギは、わずかに笑った。
「それから俺たちは、仲間たちと共にこの国へ帰ってきた」
その表情には、誇らしさと、言葉にしきれない思いが浮かんでいた。
「俺にとって、あの男は勇者なんかじゃない。苦しい時代を共に戦った仲間だ」
*
食堂を出たセレナは、夜空を見上げた。
勇者。
その名は、あちこちで噂になっている。
魔物を倒した英雄。人々を救った謎の人物。
噂によって語られる姿は少しずつ違う。
けれど、ヒイラギの話から伝わってきたのは、もっと単純なことだった。
共に戦った仲間。
自分の身を顧みず、目の前の人を守ろうとする男。
「……すごい人ですよね」
隣に立った彼女が、静かに答えた。
「ええ。だからこそ、探している人もいるのでしょうね」
セレナは彼女の横顔を見た。
彼女が探している人物。
その人は勇者なのだろうか。
「師匠」
「なに?」
「いつか、俺もそんなふうに誰かを助けられるようになりたいです」
彼女は少し驚いたように彼を見つめ、それから穏やかにうなずいた。
「なれるわよ。あなたが諦めなければね」
セレナは仮面の奥で笑った。
魔法の練習は、まだまだ先が長そうだ。
勇者の正体も、遠い過去の出来事も、真実が見つかるとは限らない。
それでも、少しずつ前へ進んでいく。
その先に何が待っているのか、今はまだ誰にも分からなかった。




