その顔
ユヅカは周囲の書架を見上げる。
「分かっていることは、まだ多くありません。でも、元の世界とこの世界は……マルチバース、というのかな。」
ユヅカは言葉を探した。
「いくつも存在する世界の中で、元の世界とこの世界は、比較的近い位置にあるんじゃないかと思っています。距離ではなくて、存在的な意味で。」
ターケシは少し考えた。
「別の世界ではあるが、完全に切り離されているわけじゃない、ということか。」
「そうです。少なくとも、私はそう考えています。」
ユヅカは頷いた。
「何らかの作用によって、世界と世界の間で魂の往還が発生している可能性があります。あなたの存在は、それを裏付けます。」
そこでユヅカはターケシを見る。
「あなたが私を言葉巧みに騙して、いいようにしようとしていたり、ものすごい虚言癖の持ち主だったりしなければ、ですが。」
「まだ疑ってるのか。」
「その可能性は捨ててません。」
ターケシは小さく息を吐いた。
「続けてくれ。」
「お父さんの遺体は、元の世界では見つからなかった……と思われます。」
「と思われる?」
「私は五歳でしたから。当時の捜索について全部知っているわけではありません。でも、少なくとも私は、見つかったとは聞いていません。」
「まあ、俺はこっちにいたからな。」
「はい。だから、お父さんの場合は魂だけではありません。」
ユヅカはターケシを見る。
「身体という物体ごと、世界の間を移動したことになります。」
「俺も、お前もだな。」
「はい。私は制服も、鞄も、竹刀も一緒でした。」
「なら、人間の肉体だけでもない。身につけていた物まで移動してるのか。」
「そういうことになります。」
ターケシは頷いた。
自分自身についても同じだった。
肉体だけが突然作り直されたわけではない。
身につけていたものと一緒に、この世界へ放り出された。
「少なくとも俺たちは、魂だけがこっちに来て、別の体に入った訳じゃない。」
「はい。」
「物質そのものが世界を越えてる。」
「そう考えています。」
「それなら、帰る方法もあるのか。」
「それは、まだ分かりません。」
ユヅカは首を振った。
「さっき『往還』と言いましたけど、それも正確ではないかもしれません。魂も身体も、流れが一方通行の可能性があります。」
ターケシは意味を理解した。
日本からこちらへ来られることと、こちらから日本へ帰れることは同義ではない。
川を下れるからといって、同じように上れるとは限らない。
「帰還できるかどうかは、まだ別問題か。」
「はい。」
ユヅカは周囲の書架を見る。
「だから調べています。この大図書館には、世界樹について書かれた古い文献が大量にあります。」
「世界樹と、異世界転移が関係しているのか?」
「まだ分かりません。でも、世界樹やエルフの神話には、世界間の往来を思わせる話がいくつもあるんです。」
ユヅカは指を折る。
「異なる世界から現れた者。世界を越えた人。世界樹の根を通って、遠い世界へ行った者。」
「なるほど。」
ターケシは書架を見上げた。
ユヅカが続ける。
「それ自体は神話です。でも、他の地域と比較しても、エルフと世界樹に関する神話には、こういう話が目立って多いんです。」
それなら調べる価値はある。
少なくともターケシには、そう思えた。
十年間。
帰る方法どころか、自分がどうやってこの世界へ来たのかすら分からなかった。
それが今、初めて手掛かりらしいものに触れている。
「先生に教えてもらっています。エルフのセレディオン先生です。」
ユヅカが書架の向こうを見る。
ターケシもそちらへ視線を向けた。
シフォンとロザリアが、片眼鏡をかけたエルフの男と話している。
「あの人か。」
「はい。古いエルフの言葉や、神話について教えてもらっています。」
「そうか。貴エルフ語……と言ったかな。難しそうだ。」
「普通の文章でも大変なんです。昔の宗教書や神話になると、読めても意味が取れないところが多くて。」
ターケシは頷いた。
「なるほどな。魂……か。」
ユヅカがターケシを見る。
「人間の意識とか経験とか、知識とか記憶とか。そういうものは、脳の中にあると、元の世界では常識だ……ったと思う。」
「そうですね。」
「この世界で言う魂は、それとは別に存在する何かなのか?」
ユヅカの表情が少し変わった。
先ほどまでとは違う。
興味のある話題を向けられた顔だった。
「いい質問ですね。唯物論とか、物理主義という言葉を聞いたことはありますか?」
「あるけど、お前まだ高校生……こっちに来た時は中学生だろ? 物知りだな。」
「興味があって、いくつか本を読んだだけです。」
ユヅカは少し嬉しそうに答える。
「人の意識と身体、精神と物質の関係は、哲学や宗教学で長い間考えられてきた問題です。それこそ古代ギリシア哲学や、それに相当する時代から。」
ユヅカは少し考え、言葉を選ぶ。
「魂と身体を別のものとして考える立場もあります。反対に、精神や意識も物質によって説明できると考える立場もあります。」
「唯物論や物理主義は、そっちだな。」
「大まかには。」
ターケシにも、その程度の知識はある。
専門的に哲学を学んだことはない。
だが、人間の精神活動が脳と密接に関係していることくらいは知っている。
記憶も。
感情も。
判断も。
脳が損傷すれば、それらが変化することもある。
ユヅカは続ける。
「ただ、私たちが生きていた時代でも、意識が脳と深く関係していることは分かっていても、『意識そのものが何なのか』という問題まで完全に解決したわけではありません。」
「脳の活動を全部調べれば、人間の意識まで説明できる、とはまだ言い切れない……ということか。」
「少なくとも、哲学上の問題としては残っています。」
「なるほど。」
「もちろん、それは魂が存在する証明ではありません。」
「まあな。」
ユヅカは頷く。
「それに、この世界の人たちが『魂』と呼んでいるものと、元の世界の宗教や哲学で『魂』と呼ばれてきたものが、同じものなのかも分かりません。」
ターケシは少し考えた。
「同じ言葉に訳してるから、同じものだと思い込んでる可能性もあるな。」
「そうです。」
ユヅカの顔が少し明るくなった。
「だから、現時点で『魂とは何か』を決めてしまう必要はないと思います。」
「分からないものを、分かったことにする必要はないか。」
「はい。」
「何はともあれ、俺とお前は肉体ごとこの世界に来た。」
「それは、かなり確かです。」
「なら、帰る方法を探すなら、まずそっちを調べる。」
「私もそう思います。」
ユヅカは少し笑った。
「人間の精神と肉体について、もっと知りたければ、この世界でも元の世界でも、いい本を紹介しますよ。」
「今は遠慮しとく。」
「そうですか。残念です。」
いたずら気な笑み。
ターケシはその顔を見る。
先ほどまでの警戒した表情とは違っていた。
五歳だった頃も、よくこんな顔をしていた。
「でも。」
ユヅカがターケシを見る。
「あなたは私の父にしては頭が悪そう……。」
「おい。」
「失礼。」
ユヅカは言い直す。
「あまり形而上学に興味がなさそうだと思っていましたが、少しは話せますね。」
「言い直しても失礼だぞ。」
「私の父という可能性が高まりました。」
「どういう判断基準だ。」
ユヅカは笑みを深くした。
「お前、賢いけど嫌味だとか言われたことないか?」
「どうだか……?」
その返事を聞いて、ターケシも笑った。
二人の間にあった緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
「その顔。」
ターケシが言った。
「ダメだと言われたいたずらを、あえてやって親の反応を見てる時の顔のままだな。」
「い……いたずらなんて……!」
「してたぞ。お転婆だった!」
ターケシは嬉しそうに笑った。




