信じるために
ターケシとユヅカは、書架に沿って少しだけ場所を移した。
完全に離れたわけではない。
本棚をいくつか挟み、少し身を乗り出せば師の姿が見える場所で、ユヅカは足を止めた。
「……ここでいいですか?」
「ああ。」
抱えていた本を胸元に寄せたまま、ユヅカはターケシを見る。
警戒は、まだ消えていない。
当然だ。
異世界の大図書館で、突然、見知らぬ男から日本語で話しかけられたのだ。
「まず、あなたのことを教えてください。」
「ああ。」
ターケシにも異論はなかった。
「俺は、十年前に日本からこっちへ来た。」
「十年前……。」
「ああ。日本には、妻と三人の娘を残してきた。」
ユヅカは黙って聞いている。
「上がフミカ。真ん中がユヅカ。下がモモカだ。」
ユヅカの腕の中で、本がわずかに動いた。
「俺が知ってるユヅカは、十年前は五歳だった。今なら十五歳くらいだ。」
ユヅカは何も言わない。
「あなたの名前は?」
「ターケシ……。」
その瞬間、ユヅカの表情が変わった。
「……。」
「心当たりがあるか?」
「あります。」
小さな声だった。
「でも、確認させてください。」
「ああ。」
それからユヅカは、家族の名前や年齢、生年月日を一つずつ確認していった。
一つ。
また一つ。
答えが一致していく。
ターケシが知っている家族と、ユヅカが知っている家族。
そこに食い違いはなかった。
「身分証明書はありますか?」
「ある。」
ターケシは荷物を探った。
十年間、ほとんど使うことのなかったもの。
元の世界で、自分の職業上の身分を証明するために持っていたものだった。
ユヅカが受け取る。
古びた身分証明書。
そこには名前と生年月日。
そして、十年前の顔写真が残っていた。
ユヅカは写真を見る。
ターケシを見る。
もう一度、写真を見る。
「……若い。」
「十年前だからな。」
ユヅカはしばらく見比べていた。
それから、自分の学生証も取り出した。
ターケシが受け取る。
学校名。
名前。
生年月日。
写真。
十年間、ほとんど目にすることのなかった日本語が、そこに並んでいる。
ターケシは、そこに記された名前を見つめた。
ユヅカ。
自分の次女と同じ名前。
同じ生年月日。
同じ家族。
何より、幼い頃の面影。
偶然で説明できるような一致ではなかった。
一方で、ユヅカにとって、この男が日本人であることは、もうほとんど疑う余地がない。
だが、問題はそこではない。
目の前の男が、本当に父親なのか。
それとも、父親について知っている別人なのか。
身分証明書は本物に見える。
写真も、目の前の男によく似ている。
だが、本物の身分証明書を持っているからといって、本人であると断定はできない。
まして、ここは魔法の存在する世界だ。
自分自身が世界を越えてここにいる以上、元の世界なら荒唐無稽と切り捨てた可能性まで、完全に捨てる気にはなれなかった。
「……今は、信じることにします。」
「今は?」
「あなたが、私の父親だということです。」
ユヅカは念を押すように言った。
「でも、本当に信じるのは、元の世界に帰って、姉さんに会ってもらってからです。」
「フミカに?」
「はい。姉さんは、私よりずっとお父さんのことを覚えていますから。」
「まだ疑うのか。」
「疑います。」
ユヅカは身分証明書を返した。
「それが本物でも、それを持っているあなたが本人だとは限りません。」
「……慎重だな。」
「知らない男の人に突然『父親だ』と言われてるんですよ。」
「それもそうか。」
ターケシは身分証明書をしまった。
「母さんでもいいだろ。」
ユヅカの表情が変わった。
ほんの少しだった。
だが、ターケシには分かった。
「……どうした。」
「……母さんは。」
ユヅカが視線を落とす。
「母さんは、もういません。」
ターケシの手が止まった。
「……何?」
「私がこっちに来る、少し前に。」
ユヅカは顔を上げた。
「亡くなりました。」
「……ユカリが?」
「うん。」
それ以上、ユヅカは何も言わなかった。
ターケシも聞かなかった。
手には、十年前の自分の顔が写った身分証明書がある。
「……そうか。」
それだけだった。
しばらくして、ターケシが尋ねた。
「フミカは、元気なのか。」
「うん。」
「モモカは。」
「元気だよ。少なくとも、私がこっちに来るまでは。」
「……そうか。」
二年前。
ユヅカもまた、二人と生き別れている。
今、日本でどうしているのか。
それはユヅカにも分からない。
しばらく、二人とも何も話さなかった。
やがてユヅカが口を開く。
「……元の世界に戻りたい、ですか?」
ターケシは顔を上げた。
「もちろんだ。」
迷いはなかった。
「フミカに会わないと、父親だと認めてくれないんだろう?」
「それは……そうですけど。」
「なら、帰らないとな。」
ターケシは少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「ユカリの墓参りぐらい、させてほしいしな。」
ユヅカは小さく頷いた。
「手がかりなら、あります。」
「何?」
「この大図書館と、世界樹です。」
ターケシの表情が変わった。
「ヴァエルシアに?」
「はい。」




