故郷の言葉
「一目惚れ、ですか?」
「えええええ!?」
ロザリアが椅子を蹴るように立ち上がった。
「ちょっと、シフォンちゃん!」
ユヅカも思わず声を上げる。
「何言ってるのよ!」
「えっ……だって……ほら……。」
シフォンは困ったようにターケシを見る。
だが、ターケシはシフォンを見ていなかった。
なぜか立ち上がったまま固まっているロザリアにも、見向きもしない。
ただ、ユヅカを見ている。
その視線に気づき、ユヅカの表情から笑みが消えた。
少し戸惑ったように、目の前の男を見る。
「あなたが、シフォンちゃんの……ご主人、ですか?」
「……。」
「シフォンちゃんが迷子になったと言うので、お探ししました。」
「あ、ああ……。」
「では、これで……。」
ユヅカは軽く頭を下げた。
抱えていた本を持ち直し、その場を立ち去ろうとする。
「待ってくれ。」
背後から声が飛んだ。
ユヅカの足が止まる。
ゆっくりと振り返った。
「……何ですか?」
「ご、ご主人様。」
シフォンがおそるおそる声をかける。
「本当に……。」
「ちょっと黙っててくれ。」
「……はい。」
灰色の耳が、しゅんと垂れた。
いつものターケシなら、こんな言い方はしない。
シフォンにも、それくらいは分かる。
ロザリアも、ただならぬ様子に気づいていた。
「ターケシ様……?」
返事はない。
ターケシは、目の前の少女だけを見ていた。
黒い髪。
十五歳ほどの少女。
灰白色の修道服。
腰に佩いた剣。
ターケシは口を開いた。
「君は……。」
言葉が止まる。
「いや……。」
そして。
「ーーーー、ーーーーーーーー?」
「……?」
シフォンの耳がぴくりと動いた。
ロザリアも、ターケシを凝視する。
何を言ったのか、分からない。
聞いたことのない言葉だった。
だが、ユヅカだけは違った。
目を見開いている。
腕の中の本を抱えたまま、動かない。
唇が、わずかに開く。
けれど、声が出ない。
◇
聞き間違いだと思った。
いや。
そんなはずはない。
確かに聞こえた。
『あなたは、日本人ですか?』
日本語だった。
ユヅカは、目の前の男を見つめる。
この世界へ来てから、日本語を忘れたことはない。
頭の中で考える時も、昔のことを思い出す時も、日本語だった。
けれど、自分以外の誰かの口から聞いたのは、こちらへ来てから初めてだった。
「……あなた。」
ようやく声が出た。
「日本人……なんですか?」
「……そうだ。」
日本語で返ってきた。
今度は聞き間違えようがない。
ユヅカは息を呑む。
目の前にいるのは、見知らぬ男だった。
少なくとも、そう見える。
「少し、話をさせてくれないか。」
「……。」
ユヅカはすぐには答えられなかった。
あまりにも突然だった。
さっきまで、迷子になった獣人の少女を送り届けていただけなのだ。
「ユヅカ。」
後ろから声がした。
振り返る。
「あ……先生。」
一人のエルフの男が、書架の間から歩いてくる。
長身だった。
年齢は、よく分からない。
淡い灰色の長衣に濃紺の上衣を重ね、細い革帯を締めている。
袖口には、銀糸で蔓草のような文様が縫い取られていた。
武器はない。
代わりに腰には筆記具と、小さな革装の手帳が下がっている。
右目には、小さな片眼鏡。
いかにも学者らしい姿だった。
「こんなところにいたのか。」
「すみません。この子が迷っていたので。」
「そうか。」
ユヅカは、もう一度ターケシを見る。
「少し待っていてください。」
「ああ。」
「先生に話してきます。」
ユヅカは男のもとへ行き、何事かを小声で話し始めた。
ターケシは、その背中を見つめていた。
「……ご主人様。」
シフォンがおそるおそる声をかける。
「さっきは悪かった。」
「いえ……。」
垂れていた灰色の耳が、少しだけ戻る。
ロザリアもターケシを見る。
「ターケシ様。先ほどの言葉は……?」
「俺の故郷の言葉だ。」
ターケシは一度、ユヅカを見る。
「故郷に、妻と三人の娘がいる。十年前に生き別れた。」
シフォンとロザリアが黙る。
「次女の名前が、ユヅカだ。」
「……え?」
シフォンの耳が立った。
ロザリアも、思わずユヅカを見る。
「年の頃も合ってる。」
ターケシは二人を見る。
「人違いかもしれない。だが、確かめさせてくれ。」
「……はい。」
ロザリアが静かに頷いた。
シフォンも続いて頷く。
その時、ユヅカと話していた男が、片眼鏡の奥からターケシを見る。
少し驚いたようだったが、やがて頷いた。
ユヅカが戻ってくる。
「少しなら大丈夫です。」
「そうか。」
「ここで話しますか?」
ターケシはシフォンとロザリアを見る。
「少し離れて話そう。」
「はい。」
二人は書架の向こうへ歩いていった。
◇
シフォンとロザリアは、遠ざかる二人を見送った。
「……ご主人様の、娘さん。」
シフォンが小さく呟く。
「まだ、そうと決まったわけではありませんわ。」
「はい……。」
そう答えながらも、シフォンはユヅカの後ろ姿から目を離せない。
「どうやら、何か込み入った事情があるようだね。」
声に振り返る。
先ほどのエルフの男が立っていた。
「ええ、まあ……。」
ロザリアは曖昧に答えた。
男はそれ以上尋ねなかった。
片眼鏡の位置を指先で直す。
「そういえば、まだ名乗っていなかったね。私の名はセレディオン。」
穏やかに微笑む。
「君たちも調べ物かい?」
「はい! 世界樹の地下――」
ごすっ。
「いたっ。」
シフォンが脇腹を押さえた。
隣を見る。
ロザリアは何事もなかったような顔をしている。
「……じゃなくて、ええと……。」
「私達はエルドラシア王国の使者として参りましたの。」
ロザリアがすぐに引き取った。
「帰国前に、この国の神話や世界樹の成り立ちについて調べておきたかったのですわ。」
「なるほど。」
セレディオンは頷いた。
片眼鏡の奥から、シフォンを見る。
「世界樹の成り立ち、か。」
「はい。」
「……。」
「……。」
シフォンの灰色の耳が、少しずつ伏せられていく。
だが、セレディオンはそれ以上追及しなかった。
「それなら、この大図書館ほど適した場所はないだろうね。」
穏やかに笑う。
「地上の歴史も、地下の歴史も、ここにはたくさん眠っている。」
「……地下?」
今度はロザリアが反応した。
「世界樹の話だよ。」
「……そうですわね。」
セレディオンが小さく笑う。
その笑みが何を意味するのか。
シフォンにも、ロザリアにも分からなかった。
「ところで、ユヅカさんは何を勉強してるんですか?」
シフォンが尋ねた。
「宗教、神学、哲学。それに歴史もだな。最近は世界樹と魂についての文献をよく読んでいる。」
「……難しそうです。」
「難しいだろうね。特に彼女にとっては。」
シフォンが少し首を傾げる。
「彼女は、見てのとおり人間だ。何年か前に、人間の教会で保護されたらしい。」
「教会で?」
「ああ。私も詳しい事情までは聞いていない。今は人間の騎士修道会で学んでいる。」
セレディオンは、ユヅカたちのいる方を見る。
「言葉はもう十分に話せる。ただ、読み書きにはまだ確かでないところがある。特に古い文章には苦労しているな。」
少し笑う。
「だが、まじめで向上心のある良い学生だ。」
「今は、このヴァエルシアに留学を?」
ロザリアが尋ねる。
「ああ。短期間だがね。ここには、ご覧のとおり膨大な書籍があるから。」
シフォンは頷く。
そして、先ほどのことを思い出した。
「本当に勉強しに来てたんですね……。」
「本人はそう言わなかったのか?」
「言ってました。」
シフォンは少し笑った。
「でも、私にお菓子の話もしてくれました。」
「……そうか。」
セレディオンはシフォンを見る。
片眼鏡の奥の目が、わずかに細められた。
ロザリアも、静かに口元を緩めた。




