書架の向こう
「……迷いました。」
シフォンは書架の間で立ち尽くしていた。
泣きながら歩いたせいで、どこをどう曲がったのか全く覚えていない。
紙と革、それに本を守るための薬草の匂いが入り混じる大図書館では、自慢の鼻もあまり役に立たなかった。
しかも。
「……トイレ行きたい。」
さっきは逃げるための口実だった。
だが、泣きながら歩き回っているうちに、本当に行きたくなってしまった。
戻る道も分からない。
トイレの場所は、もっと分からない。
「どうしよう……。」
灰色の耳が、情けなく垂れた。
その時、書架の向こうから足音が聞こえた。
シフォンの耳がぴくりと動く。
「あの!」
思わず声を上げると、足音が止まった。
やがて、何冊もの本を抱えた少女が書架の向こうから姿を現した。
シフォンは目を丸くした。
「人間がいる!」
少女も立ち止まった。
「……獣人?」
二人はしばらく顔を見合わせた。
黒い長髪を後ろで一つに束ねた、人間の少女だった。
年の頃は、シフォンと同じくらい。
灰白色の修道服を身につけているが、シフォンが知っている修道女のものとは少し違う。
丈は膝下ほどまでで、その下には細身の紺色のズボンと革の編み上げ靴。腰には太い革帯が巻かれ、一本の剣が吊られていた。
両腕には、何冊もの本を抱えている。
本を抱えていれば、学僧に見える。
腰の剣を見れば、騎士にも見えた。
そして少女の方も、シフォンを珍しそうに見ていた。
視線が、頭の上へ向かう。
灰色の獣耳へ。
ぴくり。
「……動いた。」
「動きますよ? 耳ですから。」
少女の視線が、今度は尻尾へ向かう。
「……本物?」
「本物ですよ? ちゃんと動きます。」
シフォンは、ふさふさの尻尾を振ってみせる。
「あ、すみません。」
少女は慌てて視線を戻した。
シフォンも我に返った。
今はそれどころではない。
「あの!」
「はい?」
「トイレ、どこですか!?」
少女が目を瞬いた。
「トイレ?」
「はい!」
「……急いでます?」
「かなり!」
少女はシフォンの顔を見た。
涙の跡が残っている。
それはともかく。
必死そうだ。
「こっちです。」
「ありがとうございます!」
少女は本を近くの机に置くと、早歩きで歩き出した。
シフォンも慌てて後を追う。
「そこを右です。」
「はい!」
「次を左。」
「はい!」
「その先です。」
「ありがとうございます!」
シフォンは少女を追い越して走っていった。
◇
しばらくして。
「助かりました……。」
シフォンは心の底からそう言った。
先ほどまで情けなく垂れていた耳も、今はすっかり元に戻っている。
待っていた少女は、本を抱え直して小さく笑った。
「間に合ってよかったですね。」
「はい! 本当にありがとうございます!」
シフォンは深々と頭を下げた。
これで一安心。
そう思って、顔を上げる。
右を見る。
高い書架が並んでいる。
左を見る。
やはり高い書架が並んでいる。
後ろを見る。
知らない通路が続いている。
灰色の耳が、また少しずつ垂れていった。
「あのぅ……。」
「はい?」
「ここは、どこでしょう……。」
少女が目を瞬いた。
「……迷子なんですか?」
「はい。」
「トイレを探してたんじゃなくて?」
「トイレに行こうとして、迷子になったんです。」
「なるほど。」
「それで、迷ってるうちに本当にトイレに行きたくなって……。」
「……戻りたい場所は分かります?」
「ご主人様たちがいるところです。」
「……ご主人様?」
少女の表情がわずかに変わった。
シフォンは気づかずに頷く。
「はい!」
少女は改めてシフォンを見た。
灰色の獣耳と尻尾を持つ、自分と同じくらいの年頃の少女。
ご主人様。
この世界で、その呼び方が何を意味するのかは知っている。
――この子、奴隷なの?
だが、目の前の少女はあまりにも屈託がない。
それに、出会ったばかりの相手に尋ねることでもない気がした。
「その……ご主人様たちがいる場所は、どこですか?」
「分かりません。」
「何か目印は?」
シフォンは真剣に考えた。
「本がいっぱいあります。」
少女は周囲を見渡した。
どこまでも本が並んでいる。
「ここ、図書館なので。」
「ですよね……。」
耳が完全に垂れた。
少女はしばらくそんなシフォンを見ていたが、小さく息を吐いた。
「一緒に探しましょうか。」
シフォンの耳が跳ね上がった。
「いいんですか!?」
「はい。その方が早そうです。」
「ありがとうございます!」
今日二度目の救援だった。
◇
二人は並んで書架の間を歩き始めた。
「そういえば、まだ名前を聞いてませんでしたね。」
シフォンが元気よく頷く。
「私、シフォンです!」
「私はユヅカ。」
「ユヅカさん。」
シフォンは名前を確かめるように繰り返した。
「さっきは本当にありがとうございました。」
「どういたしまして。」
「危ないところでした。」
「そんなに?」
「かなりです。」
ユヅカは何とも言えない顔をした。
変わった獣人の少女だ。
少なくとも、それがシフォンに対する最初の印象だった。
「ユヅカさんは、ここで何をしてるんですか?」
「勉強です。」
ユヅカが抱えている本を少し持ち上げる。
「これ、全部読むんですか?」
「読めればいいんですけど。」
「読めないんですか?」
「うーん……読めるけど難しい……理解するのはもっと難しい……。」
「それでもすごいです!」
「そうですか?」
「私、難しい本を読むと眠くなります。」
「それは……。」
ユヅカが少し考える。
「私もなります。」
「同じですね!」
「同じなのかな。」
ユヅカが笑った。
それからしばらく、二人は書架の間を歩いた。
「シフォンさんは、さっきまで何を読んでたんですか?」
「故郷のことが書いてある本です。」
答えたシフォンの声が、少しだけ小さくなった。
ユヅカは頬に残る涙の跡を見た。
だが、それ以上は聞かなかった。
「そうなんですね。」
「はい。」
少しだけ沈黙が続く。
やがてシフォンが口を開いた。
「でも、お菓子の本もありました。」
「お菓子?」
「はい!」
耳が立った。
ユヅカは、その変化を見逃さなかった。
「甘いもの、好きなんですか?」
「大好きです!」
即答だった。
「ユヅカさんも好きですか?」
「好きですよ。」
「何が好きです?」
今度はユヅカが考える。
「いっぱいありますけど……そうだな……ケーキ、かな。」
「けーき?」
「柔らかい生地に、白いクリームが塗ってあって、苺が乗ってるんです。」
シフォンの耳がさらに立った。
「美味しそう……。」
「誕生日には、大きな丸いのを一つ買ってきて、家族みんなで切り分けて食べました。」
ユヅカは懐かしそうに笑った。
「ろうそくを立てて火をつけて、みんなに歌ってもらってから吹き消すんです。」
「お菓子に火をつけるんですか?」
「そこですか?」
「燃えません?」
「燃やしませんよ。」
「不思議な食べ方ですね……。」
「そう言われると、不思議ですね。」
ユヅカも笑った。
「姉さんと妹がいるんです。三人とも誕生日にはそうしてました。」
「三姉妹なんですね!」
「はい。私が真ん中。」
「他には?」
シフォンはすっかり話に食いついていた。
「羊羹とか。」
「ようかん?」
「小豆っていう豆を甘く煮て、固めたお菓子です。」
「豆がお菓子になるんですか?」
「なります。学校で茶道を体験した時に食べました。」
「さどう?」
「お茶を点てて、お客さんに出す作法……かな。お茶碗の扱い方とか、お辞儀の仕方とか、いろいろ決まりがあって。」
「へえ……。」
「先に羊羹を食べるんです。その後にお茶を飲むんですけど……甘い羊羹を食べた後に飲むお茶は、苦いのにおいしいんです。」
「苦いお茶と、甘いお菓子……。」
シフォンは、まだ見ぬ羊羹を想像しながら首を傾げた。
「後は、おばあちゃんのきな粉餅も好きです。」
「きなこもち。」
「お米をついて作った柔らかいお餅に、きな粉と砂糖がまぶしてあるんです。」
「へぇー。」
ユヅカの表情が柔らかくなった。
「お正月におばあちゃんの家に行くと、よく食べました。」
「おばあちゃんが作ってくれたんですか?」
「はい。たくさん作ってくれたんです。」
少し思い出すように笑う。
「でも、欲張って食べると、きな粉でむせるし、やわらかいお餅で喉を詰めるから危ないです。」
「むせるんですか?」
「一口でたくさん食べると。」
シフォンは真剣な顔で頷いた。
「それは気をつけないといけませんね。」
「シフォンさんは、特に気をつけた方がいいかも。」
「どうしてですか?」
「食いしん坊でしょ?」
「まだ会ったばかりなのにどうして分かるんですか!?」
ユヅカが笑った。
シフォンも笑った。
静かな大図書館の書架の間に、二人の笑い声が小さく響いた。
◇
「こっちだったと思うんですけど……。」
しばらくして、シフォンが鼻を動かした。
紙と革と薬草の匂いの向こうに、ようやく覚えのある匂いが混じり始めている。
「近いです!」
「分かるんですか?」
「はい。さっきより匂いが分かります。」
ユヅカが感心したようにシフォンを見る。
「便利ですね、その鼻。」
「自慢です!」
「耳も?」
「自慢です。」
「尻尾も?」
「もちろんです!」
二人が角を曲がろうとした時だった。
後ろから声が飛んできた。
「ユヅカ!」
ユヅカが足を止めた。
「あ。」
振り返る。
「先生。」
少し離れたところに、一人のエルフの男性が立っていた。
どうやらユヅカを探していたらしい。
「こんなところにいたのか。」
「すみません。この子が迷っていたので。」
ユヅカがシフォンを示した。
その声は、少し先の書架にも届いた。
◇
ターケシの手が止まった。
ユヅカ。
今。
確かに、そう聞こえた。
ゆっくりと顔を上げる。
書架の向こうに、人間の少女がいる。
黒い髪を後ろで一つに束ね、灰白色の修道服を着ている。
腰には剣。
年の頃は、十五歳くらいだろうか。
見覚えはない。
あるはずがない。
だが。
「……ユヅカ?」
ターケシが呟いた。
ロザリアが顔を上げる。
「どうしました?」
ターケシは答えなかった。
少女を見つめている。
「ユヅカ……だと?」
「ご主人様ー!」
シフォンが手を振る。
だが、ターケシの視線はシフォンに向かない。
黒髪の少女を、ただ呆然と見ている。
シフォンはターケシを見る。
ユヅカを見る。
もう一度、ターケシを見る。
灰色の耳がぴくりと動いた。
「え? もしかしてご主人様……。」
「……。」
「一目惚れ、ですか?」
「えええええ!?」
ロザリアが椅子を蹴るように立ち上がった。




