囚われの身
部屋は、広かった。
天井も高い。
十分すぎるほどに。
柔らかな寝台があり、机と椅子、本棚がある。奥には浴室まで備えられていた。食事は一日三度、温かいものが運ばれてくる。衣服も用意され、必要なものがあれば侍女に頼むこともできた。
部屋の一隅には草花が植えられ、一本の木も育っている。その枝からは、木製のブランコまで吊るされていた。
牢獄には見えない。
少なくとも、人間が想像する牢獄とはまるで違った。鉄格子もなければ、鎖もない。粗末な寝床もない。
ただ、窓がなかった。
◇
フィリアは扉の前に立っていた。
分厚い木製の扉に手をかける。
当然、開かない。
外から施錠されている。
「開けてもらえる?」
扉の向こうへ声をかける。
少しして、若い女の声が返ってきた。
「どちらへお出かけになりますか。」
「散歩。」
「確認いたします。」
「誰に?」
返事はなかった。
フィリアは少し待った。
「……リュシアンに会いたい。」
「面会の希望をお伝えいたします。」
「女王陛下には?」
「そちらも、お伝えいたします。」
「ターケシたちには?」
わずかな間があった。
「お伝えいたします。」
何を言っても、返ってくる答えはほとんど同じだった。
確認する。
伝える。
許可があれば知らせる。
誰に確認するのか。誰が許可を出すのか。それは答えない。
フィリアは小さく息を吐いた。
「……分かったわ。」
返事はなかった。
◇
翌日。
あるいは、翌日だと思う時間。
フィリアは部屋を調べ始めた。
壁は厚い。
石を積み重ねて造られている。叩いてみても、鈍い音が返ってくるだけだった。
地上なのか、地下なのか。
正確には分からない。
ただ、自然光は一切入らず、外の音も聞こえない。空気はどこからか絶えず流れ込んでいるが、通気口は人が通れるような大きさではない。
おそらく、地下だ。
問題は、扉だった。
出入口は二重になっている。
居室側の扉の向こうに小さな前室があり、さらにその先にもう一枚の扉があるらしい。
だが、その外側を見ることはできなかった。
二枚の扉は、決して同時には開かない。
食事が運ばれてくる時も同じだった。
まず、向こうで微かな音がする。
しばらくして、居室側の扉が開く。
そこには、食事の載った台が置かれている。
フィリアが台を受け取り、扉を閉める。
施錠される音。
その後しばらくして、さらに向こう側で別の錠が動くような音がする。
外側の扉が開いたのだろう。
つまり、こちらの扉が開いている間、外側の扉は閉じている。
外側が開いている間は、こちらが閉じている。
フィリアから廊下を見ることはできない。
人が入ってくる時も同じだった。
内側の扉が開いた時には、その者はすでに前室にいる。背後の扉は閉じ、施錠されている。
そして退出する時には、その逆を繰り返す。
外に何人いるのか。
衛兵がどこに立っているのか。
廊下が右へ続いているのか、左へ続いているのか。
階段までどれほどあるのか。
何一つ分からない。
フィリアは扉の前にしゃがみ込み、しばらく考えた。
無理だ。
扉が開いた瞬間に侍女を制圧したところで、前室から先へ進めない。外扉を開ける手段もない。魔法で扉を破壊すれば、その時点で脱走は発覚する。
仮に突破できたとしても、その先の構造を知らない。
通路、階段、警備、出口。
何も見えない。
何も知らされない。
脱出する者に、観察する機会そのものを与えないように作られている。
「……よくできてるわね。」
フィリアは、誰に言うでもなく呟いた。
◇
手紙も書いた。
女王へ。
リュシアンへ。
そして、ターケシたちへ。
部屋へ入ってきた侍女に渡した。
「必ず届けて。」
「承知いたしました。」
だが、返事は来なかった。
届いていないのかもしれない。
届いたうえで、返事を止められているのかもしれない。
そもそも、読まれる前に処分されている可能性もある。
分からない。
もう一度書いた。
やはり、返事は来なかった。
伝言も頼んだ。
それにも返事はなかった。
そのうち、フィリアは書くのをやめた。
◇
時間が分からなくなっていった。
窓がない。
朝日も、夕暮れもない。
食事だけが、おおよその時間を教えてくれる。
眠って起きる。食べる。湯に入る。また眠る。
それを繰り返しているうちに、一日がどこから始まり、どこで終わるのかさえ、少しずつ曖昧になっていった。
今がいつなのか分からない。
外で何が起きているのかも分からない。
フィリアは室内の木から下がるブランコに腰掛け、ゆっくりと身体を揺らした。
前へ。
後ろへ。
ぎい、と小さな音がする。
ここには何でもある。
食べ物も、水も、清潔な衣服も、本もある。身体を洗うこともできる。草花は手入れされ、寝台は七年間の潜伏生活で使ったどんな寝床よりも柔らかい。
それでも。
これは、罰なのだろう。
どこにも行けない。
身の回りを世話する者以外、誰とも会えない。
今がいつなのかも分からない。
外で何が起きているのかも分からない。
長老会の意に逆らったから?
女王と親しいから?
旅の仲間を庇ったから?
冷徹な密偵に徹しきれなかったから?
七年間、言われた通りに働いた。
人間の社会へ潜り、奴隷になり、売られ、主人に従いながら情報を集めた。必要なら嘘をつき、必要なら人を利用し、水面下で自分の任務を進めた。
それでも、奴隷は奴隷だった。
行きたい場所へ自由に行けるわけではない。主人に命じられれば従わなければならない。売られれば、次の主人のもとへ行く。
その中で、できることをしていた。
十分以上に、任務を果たした。
「……何が、間違ってたのかしら。」
ブランコが揺れる。
長老会への反発?
自由への憧れ?
女王の信頼?
祖国への裏切り?
「……何だろう。」
フィリアは遠くを見つめた。
見飽きた壁の向こう側にあるはずの大空を。
もはや、果てしなく遠いそれを。
◇
ブランコを揺らしながら、フィリアはこの数か月を思い出した。
焚き火。
シフォンの声。
ロザリアの困った顔。
ターケシの呆れたような言葉。
危険な旅だった。
何度も死にかけた。
朽ちた教会。
肉食大ミミズ。
巨大な毒蜘蛛。
巨人の骸骨。
凶悪なオーガ。
不法な武力集団。
とんでもない冒険だった。
それなのに。
思い出の中のあの数か月は、妙に明るかった。
七年間の潜伏生活では。
いや。
これまでの長い密偵生活の中でも、ほとんど感じたことがないほどに。
そして。
ようやく気づいた。
ターケシと出会ってからの数か月だけが、例外だったのだ。
奴隷でありながら、誰も自分に奴隷として振る舞うことを求めなかった。
行きたいところへ行った。
言いたいことを言った。
シフォンをからかった。
ロザリアを困らせた。
必要なら一人で出かけた。
帰ってくれば、誰かがいた。
そんな生活が。
いつの間にか。
当たり前になっていた。
そして、故郷へ帰った。
帰れば、もっと自由になると思っていた。
フィリアは、ゆっくりと目を開けた。
柔らかな寝台。
温かな食事。
風呂。
本。
草花。
ブランコ。
何でもある。
ただ。
外へ出られない。
フィリアは、しばらく何も言わなかった。
ブランコが前へ揺れる。
戻ってくる。
また、前へ。
やがて。
ぽつりと呟いた。
「……また、囚われたんだ。」
ぎい、と。
ブランコの軋む音だけが、部屋に響いた。




