来ない、いない、分からない
翌日から、フィリアは現れなくなった。
最初に気づいたのは、シフォンだった。
朝。
いつものようにターケシたちが部屋で朝食を取っていると、シフォンが何度目か分からないほど扉の方を見た。
廊下を誰かが通るたび、灰色の耳がぴくりと動く。
だが。
扉は開かない。
「……遅いですね。」
パンをちぎりながら、シフォンが呟いた。
「フィリアのことか?」
「フィリアさんです。」
「今日は来ないんじゃないか。」
ターケシはスープを飲む。
「昨日、一日中付き合ってくれただろ。」
「でも……。」
シフォンは扉を見る。
昨日のフィリアは、夕方まで一緒だった。
いつもよりよく喋り、よく笑い、食べ物を買ってはシフォンに食べさせ、ロザリアには小物を押しつけ、ターケシには妙なちょっかいをかけ続けていた。
だから。
今日は自分の用事がある。
それだけなら、何もおかしくない。
「昨日言ってたじゃないか。何か新しい任務でも入ったのかもしれん。」
「……そうでしょうか。」
「エルフ王国の事情なんて、俺たちには分からんからな。」
シフォンは、それ以上言わなかった。
だが。
灰色の耳は、しばらく扉の方を向いていた。
◇
昼になっても。
フィリアは来なかった。
午後になっても。
姿を見せなかった。
結局、その日は一度も会わなかった。
翌朝。
「……今日も来ませんね。」
シフォンが言った。
「そうだな。」
今度は、ターケシも扉を見た。
昨日までは、それほど気にしていなかった。
新しい任務。
長老会への報告。
七年間も他国へ潜伏していた女だ。
帰国した以上、報告することも、やるべきことも山ほどあるのだろう。
だが。
ターケシは昨日のことを思い出した。
――今日は、好きにさせてやってくれ。
リュシアンの言葉。
あの顔。
そして。
その翌日から、フィリアは姿を消した。
「……リュシアンに聞いてみるか。」
シフォンの耳が立った。
「はい。」
◇
リュシアンは、近衛隊の詰所にいた。
勤務中らしく、軽装ながら鎧を身につけ、腰には剣を差している。
ターケシたちを見ると、わずかに眉を上げた。
「どうした。」
「ちょっと聞きたいことがある。」
「……何だ。」
ターケシが答えるより早く、シフォンが一歩前へ出た。
「フィリアさん、どこにいるんですか?」
リュシアンの動きが止まった。
ほんの一瞬だが、ターケシは見逃さなかった。
「……分からない。」
シフォンが瞬きをする。
「出張、ですか?」
「分からない。」
「いつ帰ってくるんですか?」
「それも分からない。」
シフォンの耳が、少しずつ下がっていく。
「でも、リュシアンさん、フィリアさんの幼馴染なんですよね。」
「そうだ。」
「近衛隊の人ですよね。」
「そうだ。」
「じゃあ……。」
シフォンは困った顔をした。
「どうして分からないんですか?」
リュシアンは答えなかった。
代わりに、ターケシが尋ねる。
「本当に知らないのか。」
「ああ。」
「昨日の朝、お前はフィリアと一緒に長老会のところまで行った。」
「行った。」
「その後も一日中、一緒にいただろ。」
「ああ。」
「その翌日からいなくなった。」
「……ああ。」
「何も聞いてない?」
「聞いていない。」
リュシアンの声には、落胆というより、どこか諦めに近いものが混じっている。
そう見えた。
ロザリアも尋ねる。
「フィリアがどこへ行ったのか、何の任務を与えられたのか。何も知らされていないのですか?」
「……ああ。」
「近衛隊の小隊長である、あなたにも?」
少し間があった。
「そうだ。」
それは。
少し、おかしいのではないだろうか。
◇
念のため、別の者にも聞いてみることにした。
女王との懇談の際に何度か顔を合わせた、女王付きの侍女だった。
「フィリア様、でございますか?」
「はい。」
シフォンが尋ねる。
「昨日から見てないんです。どこにいるか知りませんか?」
侍女は少し考えた。
「申し訳ございません。存じ上げません。」
「女王様のところにも来てないんですか?」
侍女の顔に、困惑が浮かぶ。
「少なくとも、私はお見かけしておりません。」
「そうですか……。」
「何かございましたか?」
ターケシが答えた。
「急に会いに来なくなったから、少し心配になりまして。」
「左様でございますか……。お見かけしましたら、お知らせいたします。」
侍女は丁寧に頭を下げた。
◇
帰り道。
四人はしばらく黙って歩いた。
世界樹の内外には、相変わらず穏やかな時間が流れている。
行き交うエルフたち。
店先に並ぶ果物や菓子。
枝葉の隙間から差し込む光。
昨日と何も変わらない。
シフォンだけが、何度も周囲を見回していた。
灰色の耳が、人々の声を拾うようにあちこちへ向く。
「……やっぱり、おかしいです。」
やがて、シフォンが言った。
ターケシが横を見る。
「昨日、ご主人様は、新しい任務かもしれないって言いましたよね。」
「言ったな。」
「でも。」
シフォンは少し考えてから続ける。
「任務なら、リュシアンさんが知らないの、おかしくないですか?」
ターケシは答えなかった。
シフォンなりに考えている。
だから、そのまま聞く。
「どうしてそう思う。」
「だって、フィリアさんとリュシアンさん、ずっと一緒だったじゃないですか。」
「幼馴染だからな。」
「それだけじゃなくて。」
シフォンは首を振る。
「北の灯火の時も、一緒に戦ってました。昨日も長老会まで一緒に行ってました。フィリアさんが何か危ない任務に行くなら、何か知ってると思います。」
ロザリアが静かに頷いた。
「私も、そう思いますわ。」
ターケシは二人を見る。
「それに。」
ロザリアが続ける。
「女王付きの侍女までご存知ない。」
「フィリアが女王のところへ行っていないだけかもしれん。」
「ええ。」
ロザリアは一度言葉を切った。
「ですが、昨日のフィリアの様子と合わせると、少々気になりますわ。」
昨日。
いつもよりよく喋った。
いつもよりよく笑った。
シフォンに食べ物を買い与え。
ロザリアに小物を押しつけ。
ターケシに何度もちょっかいをかけた。
そして。
夕方まで、一緒にいた。
まるで。
「……行っちゃう人みたいでした。」
昨夜と同じ言葉を、シフォンが口にした。
今度は。
誰も否定しなかった。
◇
部屋へ戻る。
卓を囲む。
ターケシは椅子に深く座り、腕を組んだ。
「整理しよう。」
シフォンとロザリアが顔を上げる。
「まず、フィリアは長老会へ報告に行った。」
「その後、様子がおかしくなった。」
「次の日から姿を見せていない。」
「リュシアンも居場所を知らない。」
「女王付きの侍女も、ですわ。」
「そうだ。」
ターケシは指で卓を軽く叩く。
「新しい任務を命じられた。」
一度。
「可能性はある。」
二度。
「ただ、それなら……。」
言葉を止める。
ロザリアが引き取った。
「リュシアンにまで伏せる必要があるのか、ということですわね。」
「そういうことだ。」
もちろん。
機密任務なら、近衛隊の小隊長にすら伏せられることはあるだろう。
ターケシは、この国の仕組みを知らない。
知らない以上。
自分たちの常識だけで判断するべきではない。
それでも。
引っかかる。
昨日のフィリア。
そしてリュシアンの、
――今日は、好きにさせてやってくれ。
あの言葉。
そして今日。
本人もフィリアの所在を知らないと言った時の、あの顔。
「リュシアンも、おかしかった。」
ターケシが言った。
ロザリアが頷く。
「ええ。」
「知らないふりをしてる感じじゃなかった。」
「私もそう思います。」
「本当に知らない。どこに行ったかは、な。」
「と言うと?」
「なぜいなくなったかは、知ってるんじゃないか?」
シフォンが不安そうに二人を見る。
「でも……。」
声が小さくなる。
「フィリアさん、結局どこにいるんですか?」
誰も答えられなかった。
◇
その日の夕方。
シフォンは一人で窓の外を見ていた。
世界樹の葉が風に揺れている。
昨日まで。
このどこかを、フィリアと一緒に歩いていた。
菓子を食べた。
露店を見た。
笑った。
いっぱい食べるぞー。
そう言って。
フィリアは笑っていた。
シフォンは、窓枠に手を置いた。
「……フィリアさん。」
返事はない。
それでも。
耳を澄ませる。
人々の声。
風の音。
遠くから聞こえる楽器の音。
フィリアの声は聞こえない。
「……ご主人様。」
後ろにいるターケシを振り返る。
「何だ。」
「探しませんか。」
ターケシは、すぐには答えなかった。
「フィリアさん。」
シフォンは、もう一度言った。
「私、何かあった気がします。」
灰色の耳が、ぺたりと伏せられている。
ターケシは窓の外へ目を向けた。
巨大な世界樹。
その幹。
枝。
根。
街。
王宮。
自分たちが見た場所など、そのほんの一部に過ぎない。
どこにいるのか。
何があったのか。
まだ。
何一つ分からない。
「……そうだな。」
ターケシは言った。
「もう少し、調べてみるか。」
シフォンの耳が、わずかに上がった。
まだ。
失踪と決まったわけではない。
危険な目に遭っていると決まったわけでもない。
だが。
ただの新しい任務だと考えるには。
違和感があった。




