大樹の地下
はじめに、天と地があった。
けれど、そこに命はなかった。
天より神が降り立った。
神はその身を一粒の種とし、大地へと身を沈めた。
種は根を張った。
地上へ伸びた半身は、天を支える大樹となった。
地下へ伸びた半身は、大地を抱く根となった。
地の底より水を汲み上げ、幹を通して地上へ運び、枝葉から天へ返した。
天へ昇った水は雨となり、再び大地へ降り注いだ。
その巡りの中から、草木が芽吹いた。
獣が生まれた。
そして、エルフが生まれた。
やがて命ある者が死ぬと、その魂は大地へ還った。
世界樹の根は魂を受け入れ、地の底から幹へ、幹から枝葉へと導いた。
魂は世界樹を巡り、やがて新たな命となって、再び地上へ還る。
水を巡らせるもの。
命を巡らせるもの。
魂を巡らせるもの。
その樹の名を――ヴァエルシアという。
世界樹は、唯一である。
世界樹は、始まりより存在し、終わりまで存在する。
世界樹なくして、命の巡りはない。
少なくとも。
エルフ王国では、そう教えられている。
◇
ターケシたちに世界樹と王都を案内した翌日の朝。
フィリアは、リュシアンとともに階段を下りていた。
昨日、ターケシたちを連れて上った階段とは、反対だった。
昨日は、上へ。
今日は、下へ。
王宮のある階層を過ぎる。
侍女や文官の姿が消える。
近衛兵の数も減っていく。
石造りの壁が増え、その間から、世界樹の太い根が姿を現し始めた。
根は、建物を突き破っているようにも見える。
逆に、人々が根を避け、その隙間へ石を積み、通路を作ったようにも見える。
どちらが先なのか、フィリアには分からない。
知らない。
知らされていないから。
さらに下る。
地上の光は、もう届かない。
壁に据えられた魔法具が、青白い光を放っている。
リュシアンは何も言わない。
フィリアも何も言わない。
昨日。
ターケシたちと街を歩いていた時には、よく笑った。
シフォンの食べ歩きをからかった。
ロザリアを装飾品の店で困らせた。
ターケシの女性への対応を揶揄した。
今。
その顔には、何の表情もなかった。
やがて、階段の先に、大きな扉が現れた。
黒い木。
金属の飾りは少ない。
古い。
見るからに重々しい。
それだけで、長い年月を感じさせる扉だった。
リュシアンが足を止める。
「ここまでだ。」
「ええ。」
フィリアも止まった。
「フィリア。」
「何?」
リュシアンは少しだけ迷った。
だが。
「……いや。」
それ以上は何も言わない。
フィリアは小さく息を吐いた。
「行ってくるわ。」
扉に手をかけようとしたフィリアを、リュシアンが制する。
「この扉は重い。」
「今さらね。よく知っているわ。」
「……無理をしてほしくない。これくらいはさせてくれ。」
フィリアは少し驚いた顔をした後、微笑んだ。
「ありがとう。死刑宣告を受けに行くわけじゃないんだから、大丈夫よ。」
結局、扉は二人で押し開けた。
◇
部屋は、十分に広かった。
だが。
女王と懇談した部屋とは、まるで違う。
窓はない。
壁を這う世界樹の根。
必要最低限の灯り。
机。
椅子。
それだけ。
暗い。
重い。
空気そのものが、地上とは違うように感じられる。
奥に人影があった。
三人。
四人。
五人。
六人。
それ以上か。
よく分からない。
灯りは暗く、長老たちは部屋の奥へ半ば溶け込んでいる。
全員が揃っているのか。
そもそも長老会が何人で構成されているのか。
フィリアには分かっているのかもしれない。
だが、少なくとも、何も知らずにこの部屋へ入った者に、それを分からせようという意思は感じられなかった。
「来い。」
声がした。
誰のものかは分からない。
フィリアは奥へ進む。
そして、深く頭を下げた。
「フィリア。ただいま帰還いたしました。」
名前だけ。
肩書はない。
ここでは、それで十分だった。
しばしの沈黙。
「七年か。」
「はい。」
「長かったか?」
「任務としては。」
「そうか。」
別の声。
「報告を。」
フィリアは顔を上げた。
「承知いたしました。」
◇
最初に報告したのは、主任務についてだった。
赤牙、黒蛇、その他、国境を越えて活動する犯罪組織。
フィリアは、淡々と報告していく。
「赤牙は、単独の盗賊団ではありません。」
暗い部屋に、彼女の声だけが響く。
「奴隷商人、地下闘技場、密輸業者、一部の商人、貴族家の使用人、地方の協力者。それらを通じて、エルドラシア王国各地へ情報網と取引網を広げています。」
「王都にもか。」
「はい。」
「北部だけではないのだな。」
「違います。」
フィリアは続ける。
「王都では、合法の奴隷市場と非合法の人身売買が接続しています。奴隷商人が正規の商人として活動する一方、裏では誘拐された者や身元不明者の流通にも関与しています。」
「貴族との関係は。」
「直接証明できる事例は限られます。ただし、間接的な協力者は複数確認しました。」
「軍事力は。」
「私が北部で直接確認しただけでも、二百に及ぶ武装要員を一時的に集中させています。」
わずかな沈黙。
「なるほど。ただの犯罪組織ではないな。」
「私も、そう判断しております。」
フィリアは淡々と続ける。
赤牙がどこで人を攫うのか。どこで売るのか。どこへ流すのか。どのように情報を集めるのか。どのように裏切り者を脅すのか。
そして、北部で放棄された前線拠点について。
「気になることがありました。」
暗闇の向こうから声が返る。
「何だ。」
「赤牙の前線拠点に、貴エルフ語による血文字が残されておりました。」
空気が変わった。
ほんのわずかだが。
フィリアには分かった。
「内容は。」
「『裏切り者は連れて行く。我らを追うな。お前たちが一歩進むたび、この者が代わりに血を流す。』追跡に対する警告を示すものと考えられます。」
「見間違いではないな。」
「ございません。」
「読めたのは、お前だけか。」
その質問に、フィリアは一瞬だけ間を置いた。
「リュシアンも確認しております。」
「他には。」
「その場にいた人間たちは、私から内容を聞いております。」
「何人だ。」
「数名。」
「名は。」
一拍おいて、フィリアは答えた。
答えざるを得なかった。
ターケシ、シフォン、ロザリア、ローズ、クラウス。
ただし、余計な説明はしない。
「そうか。」
反応は、それだけだった。
◇
次に、フィリアは少し間を置いた。
「鎮魂の書について報告いたします。」
暗闇が、より深くなったように感じた。
誰も動いていない。
それでも、その名だけで空気が変わった。
「エルドラシア王国において、鎮魂の書の技術が、本来とは異なる目的で使用されている可能性を確認しました。」
「可能性だと?」
「はい。断定できる段階ではありません。」
「具体的には。」
「死者を循環へ還すためではなく、現世へ留めおき、スケルトンの使役などに転用されているのではないかと。」
沈黙。
世界樹ヴァエルシア。
その根は、死者の魂を受け入れる。
魂は世界樹を巡り、新たな命となって地上へ還る。
それが、正しい世界の在り方。
鎮魂の書は、その循環を助けるために記されたもの。
少なくとも、エルフの正統な教えでは、そうされている。
死者を現世へ縛りつけることは、ただの禁呪ではない。
世界樹の巡りを妨げる行為だった。
「何のためか。」
「目的は不明です。白聖王家の霊廟において、大量のスケルトンが発生しました。」
「白聖王家か。」
「古王国時代の王家です。」
「知っている。巨人の末裔だの、帝国だのと嘯き、我らと世界樹に害をなした忌々しい名よ。」
フィリアは続ける。
「スケルトンは、通常の人型のみではありませんでした。巨人種と思われる、極めて巨大な個体も確認しました。」
「動いていたのか。」
「はい。」
「討伐は。」
「されました。」
「誰に?」
フィリアは答えようとして、一瞬止まる。
「……先ほど申し上げた、ターケシたちです。」
暗闇から、反応はない。
「鎮魂の書との直接的な関連は。」
「確認できておりません。」
「では、推測か。」
「はい。」
フィリアは素直に認める。
「ただし、死者を大量に動かす現象と、鎮魂の書の悪用が同時期に確認されています。無関係と判断する根拠もございません。」
「よい。」
別の声。
「続けよ。」
◇
「次に、オーガの特異体について。」
フィリアは報告を続けた。
通常個体を遥かに超える巨体、異常な生命力、常識的な個体差では説明しにくい特徴。
「死霊術との関係は。」
「確認できておりません。」
「鎮魂の書との関係も。」
「不明です。」
「では、なぜ報告する。」
「紫色の光――鎮魂の書の使用時に発生する特徴的な徴が、活動前に確認されたためです。」
暗闇の向こうから、嘲笑うような声。
「慎重だな。」
「我らに害をなす可能性のある事項は、お耳に入れておくべきかと。」
「よい。」
フィリアは続けた。
フウのことは。
生き残った子オーガのことは。
言わなかった。
◇
「ドワーフについて。」
また、空気が変わる。
今度は、先ほどとは種類が違った。
「王都近郊の地下に、大規模なドワーフの街が存在していました。」
「地下に。」
「はい。」
「規模は。」
フィリアは確認した範囲を報告した。
坑道、鍛冶場、居住区、交易、人間との接点。王都の地下近くでありながら、独自の生活圏を維持していること。
「地を荒らす害獣どもが。」
低い声。
誰のものか分からない。
「帝国にかなり数を減らされたと聞いていたが、いまだにそこまで。」
フィリアは何も言わない。
正統派のエルフにとって、地下はただの空間ではない。
世界樹の根が広がる場所であり、魂が大地へ還る場所であり、神聖な領域だ。
そこを掘り、削り、石と鉱物を取り出し、炉を焚き、街を作る者たち。
ドワーフ。
長老たちが彼らを好まない理由を、フィリアはよく知っていた。
「人間との関係は。」
「敵対してはいませんが、わずかな者が時折行き来する以上の繋がりはありません。」
「そうか。」
それ以上は問われなかった。
◇
最後に、フィリアはエルドラシア王国の政治状況を報告した。
第二王子アルフォンス、奴隷制度改革を進めようとする者たち、それに反対する既存勢力、ハリントン家の復興。王国内で進みつつある、小さな変化。
「人間の国内事情だ。」
暗闇から声がした。
「現時点では。」
フィリアが答える。
「赤牙への対応、奴隷制度、我が国との外交。そのいずれも、王国の政情と無関係ではございません。」
沈黙。
「第二王子とやらが、改革派の中心人物か。」
「どんな男だ。」
「頭が切れ、比較的まともな人物ですが、王宮内での影響力はまだ限定的です。」
「お前の判断か。」
「はい。」
「七年で、人間を見る目に自信がついたか。」
皮肉か。
ただの質問か。
暗くて表情は見えない。
フィリアは答える。
「多少は。」




