故郷への道
数日後。
ターケシたちは、再び北へ向かっていた。
赤牙との戦いを終えた一行は、一度ヴィンターベルグ辺境伯領へ戻った。
馬を借り、食料を買い足し、旅装を整える。
刃を研ぎ、革鎧の傷んだ箇所を直し、薬や水袋も補充した。
失った馬車の代わりには、荷物を運ぶための馬も用意された。
そして何より、眠った。
屋根のある場所で。
交代で見張りをする必要もなく、追っ手の足音に耳を澄ませる必要もなく。
温かい食事を腹に入れて、朝まで眠った。
それだけで、随分と身体が軽くなった気がした。
北の灯火の者たちも、しばらくは辺境伯の保護下に置かれることになった。
赤牙に隠れ里を知られた以上、すぐに戻ることはできない。
今後のことはローズと辺境伯が話し合うという。
マリナのこともある。
赤牙との戦いが終わったわけではない。
それでも。
今のターケシたちには、果たさなければならない旅があった。
「生きて帰れ。」
出発の朝。
ローズは、それだけ言った。
「ああ。」
ターケシも、それだけ答えた。
ローズは次にロザリアを見る。
「ロザリア。」
「はい、お姉様。」
「無茶をするな。」
「お姉様にだけは言われたくありませんわ。」
「何だと?」
ロザリアが笑った。
ローズも少し遅れて笑う。
そして、妹を抱きしめた。
「寂しくなったら帰って来い。」
「もう…もう私は、子供ではありませんわ。」
笑いながらロザリアも姉の背中へ腕を回す。
「行ってまいります。」
シフォンは、北の灯火の子供たちに囲まれていた。
「シフォンお姉ちゃん、また来る?」
「来ますよ!」
「絶対?」
「絶対です!」
「いつ?」
「えっ。」
シフォンが詰まる。
子供たちがじっと見上げている。
「ええっと…そのうち?」
「そのうちっていつ?」
「そのうちは、そのうち…。」
「適当だな。」
「ご主人様は黙っててください!」
笑い声が上がった。
フィリアは少し離れたところから、その様子を眺めていた。
「フィリア。」
声を掛けたのはリュシアンだった。
「そろそろ出るぞ。」
「ええ。」
フィリアは答えた。
振り返る。
北へ続く道を見る。
「七年ぶりの故郷なんだな?」
ターケシが隣に立った。
「そうね。」
「緊張するか?」
「少し。」
フィリアは笑った。
「前にも言ったでしょう?」
「ああ。」
それ以上は聞かなかった。
◇
旅は、驚くほど静かだった。
一行を護衛するのは、リュシアン率いる女王近衛隊だった。
先頭にも、左右にも、最後尾にもエルフの兵がいる。
その中央を、ターケシたちは馬で進んだ。
エルフ王国を訪れる使者であり、女王の客人。
一度は予定どおりに到着せず、捜索隊まで出された一行である。
今度こそ無事に送り届ける。
近衛隊の配置からも、そんな意図が感じられた。
これまでとは違って、道を探す必要がない。
野営地を探す必要もない。
周囲に敵がいないか、神経を尖らせる必要もない。
女王近衛隊は、この森を知り尽くしていた。
「止まってください。」
先頭から声が飛ぶ。
一行が止まる。
しばらくすると、何事もなかったように進み始める。
ターケシには理由が分からない。
後になって、前方を魔獣の群れが横切っていたと聞かされた。
別の日には、何の道標もない場所で進路を変えた。
そのまま進めば、雨で増水した川にぶつかるという。
実際、その日の夕方には遠くから激しい水音が聞こえた。
「すごいですねぇ。」
馬上でシフォンが感心する。
「何がだ?」
「エルフの人たちです。森の中なのに、全然迷わない。」
「お前も大概だろ。」
「私には鼻がありますから。」
「似たようなもんじゃないか。」
「全然違いますよ。」
前を進んでいたフィリアが振り返る。
「私たちだって、迷うわよ。」
「えっ。」
シフォンの耳が立った。
「迷うんですか?」
「知らない森ならね。」
「なんだ…。」
「何よ、そのがっかりした顔。」
「エルフなら、精霊さんのご加護とかで、森の中では絶対迷わないと思ってました。」
「あなた、エルフを何だと思ってるの?」
「森に住んでる人?」
「…間違ってはないわね。」
フィリアがまた笑った。
◇
一日。
また一日。
北へ進んだ。
森は少しずつ姿を変えていった。
木々は太くなり、背も高くなる。
人の手が入った痕跡が減っていく。
街道と呼べるものも、いつしか消えていた。
それでも馬は進む。
エルフたちだけが知る道が、森の中にあるらしい。
夜になれば火を囲んだ。
温かいものを食べた。
眠った。
朝になれば、また馬に乗った。
誰にも襲われなかった。
追われもしなかった。
矢も飛んでこない。
剣を抜くこともない。
そんな旅が、ターケシには妙に久しぶりに思えた。
◇
五日目。
休憩中、シフォンが木の根元に寝転がっていた。
「平和ですねぇ…。」
「そうだな。」
「平和なんですけど、こう平和だと…。」
「どうした?」
シフォンが空を見ながら呟く。
「何か起きそうな気がしません?」
「やめろ。」
「ええ?」
「そういうことを言うな。言うと本当に何か起きそうだ。」
「そんなわけないじゃないですか。」
「お前が言うと悪い霊が寄って来そうだ。」
「ひどいです!」
少し離れた場所で、ロザリアが笑っていた。
フィリアも笑っている。
リュシアンは、不思議そうな顔をしていた。
◇
六日目。
時折エルフとすれ違うようになった。
森の中から現れた狩人。
籠を背負った男女。
荷物を運ぶ者。
小さな集落らしきものも、木々の向こうに見えるようになった。
人間の街道とは違う。
道らしい道があるわけでもない。
それでも確かに、ここには人の暮らしがある。
ターケシは馬上から、その光景を眺めた。
エルフ王国。
まだ都には着いていない。
それでも、いつの間にか自分たちは、その世界へ足を踏み入れつつあるのだと感じた。
◇
七日目。
朝から緩やかな登りが続いていた。
馬の歩みも、自然と遅くなる。
「もう少しよ。」
フィリアが言った。
シフォンの耳が立つ。
「もう少しって?」
「もう少し。」
「だから、何がですか?」
「行けば分かるわ。」
「教えてくださいよぉ。」
「嫌。」
「フィリアさん!」
いつものやり取り。
だが。
フィリアは、どこか落ち着かなかった。
何度も前を見る。
そして、ときどき空を見上げる。
何かを探すように。見落とさないように。
リュシアンはそんな彼女を見ていたが、何も言わない。
やがて、森の向こうになだらかな山の稜線が見えてきた。
道は、その間を抜けるように続いている。
峠だった。
「今日は、あそこまで行くのか?」
ターケシが尋ねる。
「ええ。」
フィリアが答えた。
いつもより少しだけ、その声が柔らかかった。
「あそこまで行けば――」
言いかけて、やめる。
「何だ?」
「何でもない。」
フィリアは馬を進めた。
ターケシも、その後を追う。
長かった旅が終わろうとしている。
王都を発ってから、いくつもの町を越えた。
刺客に襲われた。
北の灯火と出会った。
赤牙と戦った。
森を抜けてきた。
そして今。
一行は、最後の峠へ差しかかる。
フィリアが、馬を止めた。
ターケシたちを振り返る。
「 ようこそーー」
そして、微笑んだ。
「ーー私の故郷へ。」
◇
フィリアが示す光景は、一言で言い表せなかった。
視界の先には、巨大な盆地が広がっていた。
その中央。
距離感がおかしくなるほどの一本の大樹が、空を支えるようにそびえ立っている。
「あれが……。」
「ヴァエルシア。」
フィリアが、懐かしそうに呟く。
「人間は、世界樹と呼ぶわ。」
「私たちにとっては――生命の揺り籠。」
それは、奇妙な光景だった。
天を突く大樹の梢は、鬱蒼と茂り、遠くからではその広がりさえ見定められない。
幹は、山ひとつはあろうかという太さ。
そして、その麓。
巨大な洞の中には、町がひとつ、そのまま抱えられていた。
ターケシは言葉を失った。
どうして、こんなものが世界に存在する。
その問いに答える者は、まだ誰もいなかった。




