王都にて
王都。
第二王子アルフォンスの執務室には、午後の穏やかな日差しが差し込んでいた。
机の上には書類が積まれ、その向こうでアルフォンスが報告書に目を通している。
少し離れた絨毯の上では、フウが積み木をカチャカチャと鳴らして遊んでいた。
さまざまな形を眺め、手触りを確かめ、ぶつけて音を立てる。それだけでも楽しいらしい。
まだ幼児――妖獣というべきか――なので複雑な遊びはできないが、目に見え、手に触れるものすべてに興味津々だった。
書類を破られては大ごとなので、少し離れた場所で積み木を与えているのだ。
その様子を横目に見ながら、リディアは報告書を手に主へ告げた。
「北部から報告が入りました。」
「ターケシたちか?」
「はい。消息が判明しました。」
アルフォンスが顔を上げる。
「全員無事か?」
「ええ。少なくとも、大きな負傷など、行動に支障が出るような問題は確認されていません。」
アルフォンスの肩から力が抜けた。
「そうか。」
「赤牙と、北部で活動するレジスタンスとの抗争に巻き込まれていたようです。一時は消息を絶っていましたが、その後、ヴィンターベルグ辺境伯の騎士団に保護されています。」
「今は?」
「すでに旅程を再開しています。予定どおり、エルフ王国へ向かっているとのことです。」
アルフォンスは椅子の背へ身体を預けた。
「よかったな。」
そう言って小さく息を吐き、机の上の茶を口元へ運ぶ。
しかし、リディアは次の紙をめくった。
「なお、ここからは非公式情報となります。」
アルフォンスが再び顔を上げる。
「まだ何か?」
「はい。」
リディアは淡々と続けた。
「ヴィンターベルグ辺境伯の騎士団は、その過程で国境付近において、エルフ王国の武装部隊と接触しています。」
「…何?」
アルフォンスの眉が動いた。
「エルフ王国軍か?」
「正確には、女王直属の近衛隊です。王国軍というよりは、女王の私兵と表現した方が適切かと。」
「待て。」
アルフォンスが手を上げた。
「辺境伯の騎士団と、エルフ女王の近衛隊が接触したのか?」
「はい。」
「国境で?」
「国境付近、です。」
リディアが訂正する。
「現場は人里から離れた森林地帯です。地形も複雑で、正確な国境線については双方の認識に差があります。」
「…どちらかが越境していたとも言えるが、それは言うまい。それで、何が起きた?」
「双方とも、相手を赤牙の部隊と誤認したようです。一時は互いに武器を構え、交戦寸前まで至っています。」
アルフォンスの顔から、先ほどまでの安堵が消えた。
「交戦寸前…?」
「はい。エルフ側から矢が一本放たれたものの、誰にも当たらず。幸い誤解は解け、交戦には至っていません。そのため、本件については、接触そのものがなかったものとして処理されています。」
「…それは、不幸中の幸いというべきなんだろうな…。」
短い沈黙が落ちた。
絨毯の上では、フウが積み木同士をぶつけて楽しそうにしている。
アルフォンスは額に指を当てた。
「不測の事態がなくて何よりだったな…。国境『付近』で、『非』正規軍同士が、『あわや』交戦とはな…。」
「こちらは辺境伯家の騎士団。向こうは女王直属の近衛隊です。」
「どちらも私兵だった。どちらが越境したかも分からない。」
「はい。」
「だから、何もなかった。」
「そのとおりです。公式には。」
アルフォンスはしばらく黙っていた。
リディアは次の報告へ移る。
「続いて、赤牙についてです。」
「まだあるのか?」
「残念ながら…。」
アルフォンスが少し嫌そうな顔をした。
リディアも申し訳なさそうに表情を曇らせるが、そのまま続ける。
「ヴィンターベルグ辺境伯の騎士団は、先ほど申し上げたレジスタンスと共同し、赤牙の集団と交戦しています。」
「うむ。」
「正確な数は不明ですが、百を上回る規模だったと推定されています。」
「…百?」
「はい。」
アルフォンスは黙った。
今度は少し長かった。
「赤牙が、国境付近の曖昧な地域とはいえ、それほどの人間を堂々と動かすとは…。そろそろ、何とかせねばならんな。それで、辺境伯軍はどの程度の規模で?」
「騎士がおよそ五十。もっとも、全員が同時に戦闘へ参加したわけではありません。現地のレジスタンスと、ターケシ殿たちも戦闘に加わっています。」
「なるほど。」
アルフォンスは頷いた。
百を超える赤牙の武装集団が北部で動いていた。
それ自体が、決して軽い話ではない。
「赤牙は?」
「撤退しました。その後、前線拠点を放棄して逃走しています。」
「それほどの規模の集団の拠点を一つ捨てても、痛くも痒くもないのかもしれんな。」
「同感です。」
リディアが、さらに一枚めくった。
「それから、レジスタンスについてですが。」
「もう何も驚くまい。指導者が亡国のお姫様、とかでもな。」
アルフォンスは目を閉じ、茶を口に含んだ。
だが、リディアは、いよいよ困った顔をした。
「それが、その…北部で活動していたレジスタンスの名称は、『北の灯火』。」
アルフォンスが頷く。
「聞いたことはある。」
「その指導者の身元が判明しました。」
「何者だ?」
リディアは一度、報告書へ視線を落とした。
「ローズ・フォン・ハリントン。」
アルフォンスの動きが止まった。
「…ゴホッ!」
「四年前のハリントン家没落事件以降、消息不明。死亡したものと推定されていた、ハリントン子爵家長女です。」
アルフォンスが慌ててハンカチーフで口元を拭う。
「生きていたのか? ロザリアの姉が?」
「はい。そのようです。」
アルフォンスは椅子へ深くもたれた。
天井を見上げる。
しばらく、そのまま動かなかった。
「…そのローズ殿は、今はどうしている?」
「レジスタンスは赤牙との抗争で消耗し、現在は活動を停止。構成員ごとヴィンターベルグ辺境伯の保護下に入ったものと思われます。」
「…ふむ。」
アルフォンスは少し考えた。
半ば意図したこととはいえ、北部の世論を刺激する要素がまた一つ増えた。
政治的には、しばらく北部は平穏ではないだろう。
とはいえ。
「ターケシたちは無事なんだな?」
「はい。」
「今はエルフ王国へ向かっている。」
「そのようです。」
アルフォンスは息を吐いた。
「…なら、今はそれでいい。」
その時だった。
「…マンマ。」
小さな声がした。
アルフォンスとリディアが振り返る。
フウが積み木を一つ握ったまま、二人を見ていた。
「マンマ…?」
リディアは微笑んだ。
「はいはい。ママですねー。」
フウは首を傾げる。
「…マンマ…?」
「そうですよ。ママのシフォンさんも元気ですよー。」
アルフォンスがフウを見る。
「フウは喋れるようになったのか?」
「さあ。」
リディアは肩をすくめた。
「このくらいの子は、曖昧な発声から少しずつ言葉を覚えていくものではありませんか?」
「そうだな。」
フウはまた、積み木で遊び始めた。




