思わぬ再会
灰の中を、剣の鞘がゆっくりとさらった。
黒く焼けた紙片が崩れ、その下から半分だけ文字の残った紙が現れる。騎士は手袋をした指で慎重につまみ上げたが、数行を残してほとんどが炭になっていた。
「駄目です。これも読めません。」
「そっちは?」
「帳簿らしきものがありましたが、念入りに焼かれています。名前も数字も残っていません。」
「使えそうなものだけ集めろ。灰も捨てるな。」
「はっ。」
クラウスは立ち上がり、周囲を見渡した。
赤牙の前線基地。
昨日まで二百近い兵が出入りしていたはずの場所には、もう誰もいなかった。
天幕は撤去され、持ち運べない木箱や樽は壊されている。食料や矢などの物資もほとんど残されていない。中央では書類がまとめて焼かれたらしく、灰の下にはまだ僅かに熱が残っていた。
戦いは、なかった。
夜明け前。
ヴィンターベルグ騎士団と北の灯火は、赤牙の前線基地を攻撃するため森を進んだ。
しかし、到着した時にはすべてが終わっていた。
赤牙は、あっさりと前線基地を捨てていた。
「逃げ足の速い連中だな。」
ローズが吐き捨てる。
「昨日のうちに撤収を決めていたのでしょう。」
クラウスはそう答えながらも、剣を鞘には戻さなかった。
周囲の騎士たちも同じだった。
何人かが基地の捜索を進める一方、残る者たちは武器を手に森を警戒している。弓兵はすぐに矢を番えられるよう準備し、北の灯火の戦士たちも木々の間へ視線を走らせていた。
敵がいないことと、安全であることは違う。
伏兵。
罠。
撤退そのものが偽装である可能性。
どれも捨てる理由はない。
「足跡は?」
クラウスが尋ねる。
「北東へ向かっています。かなりの人数です。荷車の跡もあります。」
「追えるか?」
「今なら。ただ、途中から痕跡を消し始めています。森が深くなれば難しくなるかと。」
「そうか。」
クラウスは少し考えた。
「今は追うな。まず拠点を調べる。」
「はっ。」
ターケシも基地の外縁を歩いていた。
大盾を背負い、骨の大刀を手にしたままだ。
隣ではシフォンが鼻をひくつかせている。
「どうだ?」
「人の匂いがいっぱいです。」
「そりゃそうだろうな。」
「馬と、犬と、煙と…血も。」
灰色の耳が動いた。
「いろんな匂いが混ざってます。これじゃ、誰がどっちへ行ったのかまでは分かりません。」
「十分だ。」
ターケシは森を見る。
静かだった。
鳥の声が聞こえる。
朝日が木々の間から差し込み、放棄された天幕の跡を照らしている。
昨日まで、ここに百人を超える武装集団がいたとは思えないほどだった。
「ご主人様。」
シフォンが足を止めた。
「あれ…。」
基地の奥。
大きな天幕が撤去されたらしい場所だった。
そこだけ、不自然なほど広く地面が空いている。
そして。
何かが書かれていた。
「…何だ、これ。」
ターケシが近づく。
一文字一文字が、人の腕ほどもある。
インクではない。
土の上に乾き始めた赤黒いもの。
血だった。
「ローズ。」
ターケシが呼ぶ。
ローズとクラウスがやってくる。
ロザリアもその後ろから地面を覗き込んだ。
「これは…。」
ローズが眉をひそめる。
「読めん。」
「王国の文字ではありませんね。」
クラウスも首を振った。
ロザリアが文字を目で追う。
「私も読めませんわ。」
「…。」
いつの間にか、フィリアが傍らに立っていた。
何も言わず、地面に書かれた文字を見つめている。
ターケシが横目で見る。
「読めるのか?」
フィリアはすぐには答えなかった。
やがて、血文字を目で追いながら、静かに口を開く。
「…ヴァエレン・ナ・セラ。」
聞き慣れない響きだった。
続けて、二つ目。
「ナイ・セーラ・ヴァ。」
そして最後。
「…サエル・エン・ティラ、セラ・アラン・ヴィラ。」
フィリアは口を閉じた。
「何て書いてある?」
ターケシが尋ねる。
「…貴エルフ語よ。」
「貴エルフ語?」
ローズが聞き返す。
「普通のエルフ語とは違うのか?」
「違うわ。王家や古い家の者、高位の神官、それに王宮で特別な教育を受けた者くらいしか使わない。」
フィリアは血文字から目を離さない。
「最初は、『裏切り者は連れて行く』。」
シフォンの灰色の耳が伏せられた。
「次が、『我らを追うな』。」
そして最後。
「『お前たちが一歩進むたび、この者が代わりに血を流す』。」
「それだけか?」
ターケシが尋ねた。
「ええ。…ただ。」
フィリアは血文字を見つめたまま続ける。
「貴エルフ語は、定められた様式に従って記し、魔力を込めることで、祝福にも、呪いにも――」
「悪趣味だ。消してしまえ。」
ザザッ!
「え?」
ザッ! ザザッ!
ターケシが無造作に靴底で地面を擦った。
乾いた土と血が混ざり、整然と並んでいた文字が崩れていく。
「ちょっと! 聞いてるの!?」
フィリアが慌てて止める。
「下手に触れたら、あなたにも呪いが――」
「知らん。」
「ご、ご主人様! 呪われちゃいますって!」
「知らんと言ってるだろう。」
ザッ!
なおも靴底で文字を削る。
書かれていた文字列の三分の一ほどを消したところで、ターケシはようやく足を止めた。
「だいたいな。呪いの一つや二つ、今さらどうってことないだろ。」
「どうってことあります!」
フィリアの抗議を無視して、ターケシは血文字を見下ろした。
「昨日、俺たちは何をした?」
誰も答えない。
「人を斬った。骨を砕いた。顔を潰した。命を絶った。」
シフォンの耳が少し下がる。
ターケシの声に、自慢も後悔もなかった。
ただ、事実を数えているだけだった。
「呪いで人が死ぬなら、俺なんてもう数え切れないくらい死んでるぞ。」
「で、でも、魔力がってフィリアさんが…。」
シフォンがおそるおそる言う。
「今も昔も、恐ろしいのは剣、槍、弓。それから火、水、風。そういう実際に身体を焼いたり、切ったり、潰したりする魔法だ。」
ターケシは少し考える。
「他には毒。伝染病。飢えや寒さなんてのもあるな。」
そして、まだ残っている血文字を見る。
「いずれにせよ、なまものより恐ろしいものはない。」
「なまもの?」
シフォンが首を傾げる。
「生きてる奴だよ。」
ターケシは答えた。
「人間も、獣人も、エルフもな。」
フィリアが呆れたように息を吐く。
「…あなたね。」
「呪いがそんなに力を持つなら、とっくに戦争は呪いだけで終わってる。」
「そういう問題じゃないでしょう。」
「そういう問題だ。」
ターケシは即答した。
フィリアは何か言い返そうとして、やめた。
ローズが横から血文字を見る。
「で、実際どうなんだ?」
「何が?」
「こいつは呪われたのか?」
フィリアはターケシをじっと見る。
「…分からないわよ。」
「そうか。」
「そうか、じゃない!」
「ご主人様、本当に大丈夫なんですかぁ…。」
シフォンの尻尾が落ち着かなく左右に揺れる。
「大丈夫だろ。」
「何でそんなに自信満々なんですか!」
ターケシは答えず、靴底についた土を二、三度地面へ擦りつけた。
少なくとも、血文字はもう文章として読むことができなかった。
「…それより。」
フィリアの声から、先ほどまでの呆れが消えた。
「問題は、この言葉よ。」
「貴エルフ語か。」
クラウスが言う。
「ええ。」
フィリアは頷いた。
「これは、人間がエルフの商人から二、三言教わって書けるような言葉じゃない。単語を知っているだけでも駄目。文法も、書式も、決められた形がある。」
クラウスの表情が険しくなる。
「つまり、赤牙の中に使える者がいる。」
「あるいは――」
フィリアは森を見る。
「使える者が、教えた。」
誰も言葉を挟まなかった。
赤牙は、ただの盗賊団ではない。
人攫い。
奴隷商人。
商人。
貴族。
役人。
王国の中へ、いくつもの根を伸ばしている。
そして。
その根は、国境の向こう側にも伸びているのかもしれない。
「…マリナ。」
ローズが呟いた。
残った血文字を見下ろす。
「生きていると思うか?」
「分からないわ。」
フィリアが答える。
「これは脅迫よ。内容をそのまま信じるべきじゃない。」
「ああ。」
「でも…。」
シフォンが顔を上げる。
「連れて行ったって書いてあるんですよね。」
ローズは少し黙った。
「ああ。」
そして血文字から視線を上げる。
「なら、生きている可能性はある。」
それだけだった。
諦める、とは言わなかった。
◇
拠点の捜索は続いた。
燃やされた書類。
捨てられた道具。
馬の蹄跡。
荷車の轍。
食事の跡。
赤牙は急いで撤退したように見えて、残すものと持っていくものを選別していた。
敗走ではない。
計画的な撤収だった。
だからこそ、クラウスは追撃を急がなかった。
赤牙がどこへ向かったのか。
どれだけの兵が残っているのか。
そして、この先に何を用意しているのか。
何一つ分からない。
「クラウス様。」
森を警戒していた騎士の一人が声を落とした。
クラウスが振り返る。
騎士は何も言わず、北側の森を指した。
ガサッ。
枝が鳴った。
クラウスの手が上がる。
「警戒。」
それだけで全員が動いた。
基地を調べていた騎士たちが作業を止める。
前列が盾を構え、弓兵が矢を番える。
北の灯火の戦士たちも剣や弓を手に木々の間へ散った。
ローズが長剣を構える。
ロザリアもレイピアを前へ出した。
シフォンが腰を落とし、二本の短剣を握る。
ターケシは大盾を左腕へ回した。
武器を抜く必要はなかった。
誰も、最初から納めていない。
「何人だ?」
ターケシが小さく尋ねる。
フィリアが森を見る。
「…一人じゃない。」
右。
枝が僅かに動く。
左。
今度は葉が揺れた。
正面だけではない。
「散開してるな。」
「ええ。」
フィリアの声が低くなる。
「訓練されてる。」
クラウスが剣を構えたまま命じる。
「前列、そのまま。弓は射るな。」
騎士たちが息を殺す。
森の向こうも静かだった。
こちらから見えるのは、木々の間に時折動く影だけ。
人数も。
装備も。
所属も分からない。
その時。
ヒュッ。
一本の矢が飛んだ。
ガッ!
ターケシたちの数歩前。
地面へ深々と突き刺さる。
「弓、構えろ!」
クラウスの声が飛ぶ。
一斉に弓が上がった。
同時に、森の奥でも弦の軋む音がした。
一つ。
二つ。
三つ。
茂みの向こうに、弓らしき影が浮かぶ。
数は分からない。
だが、少なくない。
ターケシが大盾を前へ出す。
「所属を名乗れ!」
クラウスが叫んだ。
返事はない。
代わりに、森の奥から短い声が飛んだ。
意味は分からない。
その直後、木々の間の影が僅かに動く。
包囲を狭めているのか。
射線を作っているのか。
誰にも判断できなかった。
「フィリア。」
ターケシが小さく呼ぶ。
返事がない。
「フィリア?」
彼女は森の一点を見つめていた。
他の誰よりも遠くを見通せる目が、茂みの奥にいる何者かを捉えている。
フィリアの表情が変わった。
「…え?」
僅かに身を乗り出す。
その時。
森の奥から、驚いた声が飛んだ。
「フィリア!?」
フィリアの目が見開かれる。
「リュシアン!?」
ターケシは、二人を見比べた。




