持久戦
朝日は、すでに森の梢を越えていた。
木々の間から差し込む光が、朝霧を白く照らしている。
「……増えたな。」
ターケシは太い木の幹に身を寄せ、森の向こうを見つめた。
先ほどまでとは違う。
五人一組の追跡班ではない。
木々の隙間を、次々と武装した人影が横切っていく。
十。
二十。
三十。
途中から、数える意味がなくなった。
ざっ。
小さな音とともに、フィリアが枝から降り立つ。
「敵が増えた。明らかに本隊ね。」
「どれくらいだ。」
「百以上。」
「……。」
先行していた三十。
それに、新たな増援。
「百五十くらいかな。」
「そうね。」
フィリアが頷く。
シフォンの灰色の尻尾が、不安そうに揺れた。
「ご主人様。」
「何だ。」
「作戦成功……ですよね?」
「そうだな。」
ターケシは大盾を背負い直した。
百五十。
三人で倒せる数ではない。
倒す必要はないのだが。
ターケシは森の向こうを見る。
「百五十人がここにいる。」
「ということは。」
フィリアが続けた。
「南に逃がしたローズと子供たちのところには、大勢はいない。」
シフォンの尻尾の揺れが止まる。
「それに。」
フィリアが僅かに笑った。
「敵の拠点も手薄ね。」
「ああ。」
大したものだ。
三人で、敵の主力をここまで引っ張り出した。
マリナの偽情報。
西へ残された痕跡。
そして自分たちが繰り返した襲撃。
そのすべてを赤牙は追ってきた。
「上出来じゃないか。」
シフォンの表情が明るくなる。
「はい!」
「ここからは、ゆっくり退く。」
ターケシは二人を見る。
「決して無理をするな。」
百五十人と正面から戦う仕事ではない。
敵をここへ連れてくる。
それで自分たちの役目はほとんど終わっている。
あとは。
デイジーが辺境伯軍と合流していることを信じるしかない。
「捕まらないことを最優先にする。」
「了解。」
「はい!」
三人は再び西へ動き始めた。
◇
森の中。
赤牙の追撃隊は、長く伸びていた。
百五十人。
それだけの人数が、鬱蒼とした森の中で目標を追跡しつつ行軍しているのだ。
木がある。
岩がある。
沢がある。
道は定かではない。
先頭と最後尾の間には、自然と距離が生まれる。
「足跡だ!」
先頭を進む男が叫んだ。
「西だ!」
「追え!」
赤牙の兵たちが森を進む。
その前方。
ターケシたちは、姿を見せては消していた。
わざと折った枝。
泥へ残した足跡。
踏み倒した草。
時には。
姿そのものを見せる。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
追手が速度を上げる。
それを確認すると、また消える。
逃げる。
隠れる。
待つ。
敵の一部が突出すれば――。
ヒュンッ!
一本の矢が森を走った。
「ぐあっ!」
先頭の男が肩を押さえて倒れる。
「樹上だ!」
兵たちが一斉に木々を見上げた。
その時。
茂みが弾けた。
大盾と大刀を持った男が飛び出してくる。
「うおっ!?」
ゴォン!!
大盾が兵の一人を弾き飛ばした。
隣の兵が剣を振り上げる。
だが。
振り下ろすより早い。
ガッ!!
大刀の腹が胴を打ち抜いた。
男が地面を転がる。
ターケシは追わない。
そのまま茂みへ飛び込む。
「逃がすな!」
追撃を命じようとした男のすぐ脇を、灰色の影が走り抜けた。
「……っ!?」
後ろから短剣が片脚を薙ぐ。
「ぐあっ!」
男が膝をつく。
シフォンは倒れた男を一瞥しただけで、そのまま緑の中へ消えた。
「追えー!!」
怒声が響く。
◇
同じことを、何度か繰り返した。
だが。
いつまでも同じようにはいかなかった。
「……隙がなくなったわ。」
樹上からフィリアが呟く。
ターケシが顔を上げた。
「どうなってる。」
「一定の間隔で固まって進んでる。前だけじゃない。周囲を警戒しながら進んでるわ。」
シフォンも鼻を鳴らす。
「さっきみたいに、間を抜けるのは難しいです。」
「学習したか。」
「当然でしょうね。」
フィリアが視線を右へ向けた。
「それと。」
「何だ。」
「別の塊が右へ抜けようとしてる。」
ターケシの表情が変わる。
「迂回か。」
あるいは。
「俺たちを囲うつもりか。」
三対百五十。
相手がばらばらに追ってくるうちは、ヒット&アウェイでどうにかできた。
だが、百五十人が固まって動き始めれば、手も足も出せない。
「潮時だ。」
ターケシは言った。
「今からは、逃げる。」
「逃げる?」
「ああ。」
敵は十分に西へ来た。
これ以上、危険を冒して引きつける必要はない。
「捕まらない。それだけ考えろ。」
◇
ヒュッ!
矢がターケシの前方を横切り、木の幹へ突き刺さった。
「奴らの足を止めろ!」
後方から女の声。
「弓兵! 撃て!」
ターケシが振り返る。
「走れ!」
三人が一気に距離を取る。
だが。
ザザザザッ!!
逃げる三人のさらに前方に矢が降った。
山なりに放たれた矢が枝葉を抜け、地面へ次々と突き刺さる。
「くっ!」
急制動の間に、左右から人影が動いた。
「左にもいます!」
シフォンが叫ぶ。
左だけではない。
前方にもいる。
先回りされていた。
「止まるな!」
ターケシは大盾を前へ構えた。
「当たって抜けるぞ!」
敵の一人が槍を突き出す。
ガンッ!
盾で弾く。
二人目。
斜めに振り下ろされる剣。
大刀で受ける。
ガッ!
刃と刃がぶつかった。
その横から三人目。
だが。
ヒュンッ!
フィリアの矢が男の腿を射抜く。
「ぐあっ!」
崩れた。
「今!」
シフォンが飛び込む。
小さな身体が開いた隙間を抜ける。
「こっちです!」
ターケシ。
フィリア。
続く。
包囲が閉じる直前。
三人は赤牙の間を強引に走り抜けた。
「いたぞ!!」
背後から怒声。
「右へ向かった!」
「回り込め!」
「前へ伝えろ!」
声が伝わる。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに遠くから返事が聞こえた。
赤牙の兵たちが、互いに位置を知らせている。
単なる盗賊ではない。
追跡にも森林戦にも慣れている。
「まずいわね。」
走りながらフィリアが言った。
「どうします?」
シフォンが尋ねる。
「とにかく切り抜ける。」
ターケシは息を吐く。
「捕まらない。それだけだ。」
「また前!」
フィリアが叫んだ。
木々の向こうから人影。
五人。
いや。
その後ろにもいる。
ターケシは速度を落とさない。
「突っ切るぞ!」
「止まれば矢の的だ!」
大盾を前へ。
「行くぞ!」
◇
どれほど走っただろう。
朝の涼しさは、もう消えていた。
汗が顎から滴る。
呼吸が熱い。
シフォンの息も荒くなっている。
フィリアの髪には葉が絡みついていた。
それでも。
敵は追ってくる。
ざっ――。
嫌な音。
ターケシが顔を上げる。
「来るぞ!」
矢。
また矢。
木々の上から、弧を描いて矢が降ってくる。
枝に遮られるものも多い。
幹に当たるものもある。
だが、徐々に距離は縮まり、狙いは精密になっている。
「シフォン!」
ターケシは走りながら盾を頭上に掲げて少女を引き寄せた。
カン!
カンッ!
ガンッ!
矢が盾へ当たる。
腕へ衝撃が伝わった。
フィリアは木々を縫うように走りながら、時折後方へ矢を返している。
「もう近いな……。」
ターケシが呟く。
まだ西の偽装拠点までは距離がある。
もう一度。
弦の鳴る音。
ターケシがまた盾を持ち上げる。
だが。
その時だった。
「風よ。払え。」
聞き覚えのある声。
ゴォッ!!
西から風が吹き抜けた。
突然の突風。
木々が大きく揺れる。
葉が舞う。
草切れが宙へ巻き上がる。
そして。
降り注いでいた矢が流された。
「なっ……。」
赤牙の兵たちから声が上がる。
ターケシも足を止めかけた。
「今の、は?」
「私じゃないわ。」
フィリアも西を見ている。
その口元が。
僅かに上がった。
「まぁ。」
女の声がした。
「私も少しくらい、良いところを見せないとね。」
木々の向こう。
一人の女が立っていた。
長剣を手に。
こちらを見ている。
「……ローズ?」
ターケシが目を瞬く。
ローズ・フォン・ハリントン。
北の灯火を率いる女が。
そこにいた。
「お前、南へ行ったんじゃなかったのか。」
「行ったぞ。」
「じゃあ何でここに。」
「戻ってきたのさ。」
ローズがふっと口元を歪めて笑う。
「お前にも赤牙にも、負けっ放しじゃかっこ悪いからな。」
「それに、私だけじゃない。」
北部の森で戦い続けてきた女傑が手を掲げる。
「総員構え!」
森の中、木の陰、岩の間、茂みの中……いくつもの場所で一斉に弦が引かれた。
ギリギリギリ――。
森の中に、弓を引き絞る音が響く。
赤牙の兵が木々の向こうに現れる。
「いたぞ! 盾のやつだ!」
「追いついた!」
彼らは知らない。
追い詰めたと思っていた三人の向こう。
五十人近い戦闘員が待っていることを。
ローズが手を振り下ろした。
「放て!!」
弦が鳴った。
ヒュンッ!!
森の中から放たれた数十本の矢。
至近距離から狙い澄まして放たれたそれは、凄まじい威力を発揮した。
「なっ――」
先頭の兵が声を上げるより早く。
バタバタと兵が倒れる。
「伏兵だ!!」
「盾を――」
男たちが事態を把握するより早く。
「第二射! 放て!」
ローズの声。
再び。
弦が引かれる。
ターケシは大盾を地面へ下ろした。
息を吐く。
シフォンも膝へ手をついて、大きく呼吸していた。
フィリアもその横へ立つ。
「どう?」
ローズがターケシを見る。
「良いところ、見せたでしょう?」
ターケシは森を見る。
「ああ。」
最初の一撃は入った。
だが。
これで終わる相手ではない。
赤牙の怒号が聞こえる。
すでに後方では指揮官たちが兵をまとめ始めていた。
「まあまあだな。」
「……素直に感謝しろ。」
ローズの表情が真剣なものになる。
「総員抜刀!」
剣が。
槍が。
斧が。
朝日を受けて森の中に並ぶ。
「敵を押し返す!」
ローズが長剣を構えた。
「深追いするな! ここは我々の森だ!」
「応!!」
ターケシは大盾を持ち上げる。
シフォンが二本の短剣を抜く。
フィリアも新しい矢を番える。
「かかれ!!」
ローズの号令とともに。
北の灯火が森を駆けた。
森の中の激戦が始まった。




