エルフの森
旅に出て十一日目。
街道は再び北へ向かっていた。
空は高く、夏の日差しは穏やかだ。
「最近、馬の匂いが減ってきました。」
シフォンが鼻をふんふんと鳴らす。
「馬?」
「うん。」
「人も少ないです。」
確かに。
王都から離れれば離れるほど、旅人の数は減っていた。
代わりに増えているものがある。
「森だな。」
ターケシの言葉に、フィリアが頷く。
「エルフ王国との国境が近いもの。」
左右を見れば、背の高い木々が街道を覆っている。
どこか静かだった。
まるで、森そのものが旅人を見ているような気さえする。
「フィリア。」
「何?」
「帰ってきた気分か?」
「まだよ。」
フィリアは小さく笑った。
「故郷っていうのはね。」
「近づくほど、遠く感じるものなの。」
「そういうものか。」
「そういうもの。」
その横顔は、どこか寂しそうだった。
◇
十二日目。
昼食のため、街道脇で馬を休ませていた時だった。
「ご主人様。」
「何だ。」
「木が大きいです。」
「木だしな。」
「違います。」
シフォンは真剣な顔で森を指差した。
「すごく、大きいです。」
ターケシは改めて森を見る。
確かに。
北部の森とも違う。
一本一本が、まるで何百年もそこに立ち続けているようだった。
フィリアが木の幹へ手を触れる。
「エルフは長命なので。家を建てる時も、千年先を考えろと言われます。」
「千年か。」
「実際には考えても百年程度よ。」
「……お前、本当はいくつだ?」
「百年も生きてる。」
「やっぱり五十年くらい引いてないか?」
「秘密です。」
フィリアは悪戯っぽく笑った。
「ご主人様。」
「何だ。」
「フィリアって、おばあちゃんなんですか?」
「シフォン。」
「はい。」
「それは言ってはいけない。」
「もう言ってるじゃない。」
フィリアの笑顔が少しだけ怖かった。
◇
十三日目。
夕暮れ。
野営の準備を終えた頃だった。
「……ご主人様。」
「何だ。」
「静かです。」
シフォンが耳を伏せる。
鳥の声が少ない。
風の音だけが、木々を揺らしている。
「エルフの森が近いからよ。」
フィリアが焚き火へ薪をくべる。
「昔から、この辺りの森は特別だった。」
「魔物が少ないのか?」
「ええ。」
「でも、その代わり。」
「代わり?」
「森が人を見ている。」
「……。」
ターケシは思わず森へ視線を向けた。
フィリアは、本気か冗談がわからないことをよく言う。
「怖いことを言うな。しかも逢魔が時だぞ。」
「おうまがとき、って何ですか?」
「おばけがたくさん出る、今見たいな夕暮れのことだ。」
「ひぃぃ…なんてこと言うんですかぁ…。」
森を見てシフォンが怖がる。お前、闘技大会優勝者だろ。
「ふふふ。」
「お前の故郷、怖くないか?」
「怖いわ。」
フィリアは即答した。
「七年ぶりだもの。」
「エルフにとっては短いのだけれど。」
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
「知り合い、多いんだろ?」
「ええ。」
「嫌になるくらい。」
「会うのが嫌な奴でもいるのか?」
「たくさん。」
「そうか。」
「それに。」
フィリアは少しだけ言葉を探した。
「帰るのが怖い。」
「……。」
フィリアが不安を口にしたことが、今まであったろうか。
「エルフの七年はつい最近。でも七年あれば何でも変わりうるのも事実。」
「みんな、変わっているかもしれない。」
「私だけ、変わっていないかもしれない。」
「あるいは、その逆かも。」
ターケシは何も言わなかった。
ロザリアは故郷を見つめた。
シフォンは故郷を探している。
そして、フィリアは故郷へ帰ることを恐れている。
帰る場所があるというのは、案外難しいものなのかもしれない。
「まあ。」
ターケシは焚き火へ薪を放り込む。
「帰ってみないと分からんだろ。」
「……それもそうね。」
フィリアが小さく笑った。
「ご主人様。」
「何だ。」
「みんな、故郷があるんですね。」
「お前にもあるだろ。」
「あります。」
シフォンは頷いた。
「だから、見つけます。」
灰狼族の村、グラエヴァル。
その名を知った日から、少女は一度も忘れたことがない。
「そうか。」
「はい。」
「…今夜、一人で起きてられそうか?」
「あああ…むりですぅ…」
森の中に笑い声が響いた。
北の空には、夏の星が瞬いていた。
そして、その先。
木々の向こうには、まだ見知らぬエルフ王国が待っていた。




