2. 騎士の絵本と吸着の魔法
歌が、聴こえた。
それは、柔らかく温かなイメージを以って、ヴィヴィを包むように広がった。
そしてヴィヴィの起床で解けた。
「起きたかい?」
ナーマ・ククル=カン。魔女を統べる魔女の中の魔女。齢の軛など存在しない、概念に身を窶した化生。その一挙手一投足によって魔女の行く末を左右する存在が、魔術紋様が施されたベッドに臥すヴィヴィを覗き込む。
ギョロギョロと鋭い眼光、四十路を過ぎた老女に見える。ともすれば、恐怖を抱くような険しさを称えた顔面が、ヴィヴィの瞳の前、指三本ほどの間を開けて、迫っていた。
「……はい。お祖母さま。」
「行儀が良いのは、良いことだ。」
ヴィヴィには、正解がわからなかった。
ナーマの教えは、曖昧で要領を得ない。
魔女……とは、自らの到達点に至ろうとする享楽者、そのように教わった。産まれながらにして、宿命を背負った生命の落伍者。
それが魔女だと教わった。
故に、ヴィヴィにはわからなかった。
到達点無き己が身に与えられた使命の源泉が、不透明だった。
端的に、ヴィヴィには目指すべき深淵が存在しなかった。
故に。
ヴィヴィは、母親である美しきヴィオレッタの汚名を雪ぐことすら出来ずにいた。
顔も知らぬ母親の為に、一方的な謗りを受けることがヴィヴィの心を締め付けた。
母親、というものに対する憧れ。そして、その絶望。
肉体的にも精神的にも、稚児とは言い切れない童としても、しかし、隔絶した経験の差が、ヴィヴィの口を閉ざし、言葉を変える。
「お祖母さま。」
「なんだい?」
「どうして、辛いの。」
「それを知りたければ、やり返すことだね。」
「それだけなの……?」
ヴィヴィの疑問は、涙となって虚空に消えた。
その泣き顔でさえ、母の面影を色濃く映して美しかった。
*** ***
『不知時の森』。
運命に引き寄せられて、時代を超越して巡り会う神代との狭間の朧。
時の奔流に惑わされ、囚われた者は能面のような表情をもって、時の殻を破るまで、まるで生者のように振る舞い、やがて影に溶けて消えるのみである。
『妙齢の魔女』。女の隆盛を繰り返す、マダム・シルヴィア・ククル=カン東方女公爵も、繰り返す時に自ら飛び込み、囚われているという点だけは、『不知時の森』に住まう、魔女見習いの残骸と似通っていた。
この、魔女見習いの残骸たちだけが、時に囚われる前の良識でもって、ヴィヴィの味方のように振る舞っていた。それをヴィヴィもわかっていた。いや、それは、わからざるを得ないほどに、明確だった。
「簡単な魔女魔法じゃない。こんなのも出来ないの? 落ちこぼれ。」
薬草と何かの煮汁、ステップを踏むような足音と空を切る杖とが合わさったリズム。
> 今日は鴨さ 鴨料理
> 血、肉、肝が みぃんな美味しい
> まぁるくグルグル 最後はカンカン
「『美味しいスープを作りましょう』っ♪」
どこからか、テーブルセットが踊り出て、ヴィヴィを押し退けて転がし、高慢な魔女見習いの側で誇らしげに、使ってくれとティーセットを用意した。
『木漏れ日』の魔女魔法。欲しいものを取り寄せて、侍らせる。
ナーマの庵の隣に建てつけられたアトリエは、景色が歪み、魔女見習いのそれぞれが、それぞれの空間を確保して研鑽を積んでいた。
瞑想する者。
調合する者。
詠唱する者。
調べる者。
蠢く者。
そして、一服する者。
「……ふう。美味しいわ。」
「……。」
ヴィヴィは虐げられていた。
魔女見習いの残骸でないのだから、魔女の最低限の矜持として、自身の身を自身で守る。それすら出来ず、魔女の魔女たるナーマの威光で手出しされない境遇が、周りの魔女見習いには忌ま忌ましかった。魔術紋様の施されたベッドで寝るために、ナーマの庵に住むことを許されていることが、許せなかった。
汚らしく血をまき散らすならば、そのまま死ねばいいとさえ思われていた。
魔女見習いの残骸にしてやるのに。
それが残骸と呼ばれるのも、その見た目が大きく関わっている。そして、その見た目だからこそ、ヴィヴィを羨んでしまうのだろう。
その内蔵は、抉られていた。
肉が、削がれていた。
脳は、無かった。
それは、魔女見習いという、良質な素材を得るための蛮行。残骸が影に溶ける前に、その身体の一片まで利用してやろうという、魔女としての合理性が生み出したグロテスク。
逆に、その異様が魔女見習いたちに畏怖を与え、そして今一度、気を引き締める。
明日は我が身、という認識を。
故に、ヴィヴィへの過保護を、疎ましく思う気持ちを抑えることが出来なかった。
恐怖の裏返しだった。
その理不尽を、ヴィヴィは耐え忍ぶしかなかった。
(わたしは、できそこない。)
ヴィヴィの幼い身には、致命的とも言える弱点があった。『大渦=魔力の源泉』という、果てしない恩恵だった。
母、ヴィオレッタが妖精となったために、この世から言祝がれた証だった。
それは、留め度なく内側から溢れ続ける魔力の源泉である。
ヴィヴィが同じく妖精であったら、どれほど良かっただろうか。しかし、ヴィヴィは半妖精であった。
それ故に、人の身の部分が、溢れ出る魔力の毒に耐え兼ねて、血となって溢れ出ていた。
それは同時に、極上の素材であることを意味した。その心臓を抉り出せば、どれほどの薬を調合できるだろうか。溢れ出る血が、霞に消えさえしなければ良かったのに、とさえ思う。
(無視……されないと。)
ヴィヴィを疎ましく思うと同時に、最高の素材であると認識する一代目の老獪な魔女たちが、ヴィヴィを血走った目で見る。
そんな日々、だった。
さて、疑問に思うだろう。魔女としての修業とは、何ぞや、と。
世界との契約。それが、魔女としての独り立ちした証だった。
魔女、とは、自身の唯一つの欲求のために、命を捧げる愚者を指す。
従って、魔女見習いとは、己の信念を自覚することすら出来ない愚か者を指した。
魔女としての独り立ちは、唯一の魔法・魔女魔法・魔術との契約によって成される。
それを知られることは、致命的だった。
常に何れかの瞬間において、契約の光が立ち昇ることを意識しながら、それを隠して己の内に問う。
何を望み、何と契約し、そして何を捧げるか。
その切っ掛けを得るために、時を超越した『不知時の森』は、魔女見習いとしての覚悟と資質を問う場として最適であった。
魔女の魔女、ナーマ・ククル=カンは、アトリエに不意に立ち寄って、気まぐれな言葉を投げかける。
そうでなければ、何れかの本を寄越した。
庵からは想像も着かない膨大な蔵書が、壁に埋め込まれた箱の中から取り出せた。
その、秘密の図書室に収められた一冊のみが、ヴィヴィを慰めていた。どうしてその一冊を読むことで、心が晴れるのかわからなくとも、どうしても求めてしまっている。
夜。またしてもヴィヴィは、その絵本を開いていた。
『騎士と魔女』。
> 騎士は、魔女に恋をしました。
そのような一節から始まる絵本。
内容は、騎士と魔女が出会い、そしてお互いに恋に落ちて、そして、いつまでも仲良く暮らすという、他愛無いもの。
それでも、魔術紋様が施されたベッドの上以外では、白昼夢に囚われたような思考のヴィヴィにとって貴重な、想像の翼を伸ばせる時間だった。それが、いかに乏しい想像力の産物であっても、絵本の中の魔女が使ういくつもの魔法に、想いを馳せた。
いついかなる時も騎士とともにあろうとする、魔女の使う魔法の数々。
その中で、ヴィヴィが最も心惹かれたものが、『吸着の魔法』だった。絵本の中では、騎士を何度も救い、そして騎士の下へと駆け付ける際も役立った万能の魔法。
ヴィヴィにとって『吸着の魔法』こそが、救いの象徴だった。
そして、その魔女が恋した騎士に、ヴィヴィもまた、淡い幸せを投影していた。
*** ***
それは、突然やってくる。
魔女見習いが、魔女になる『契約の夜』は、前触れもなく訪れる。
またひとり、魔女としての資質を問われ、そして何れかの魔法・魔女魔法・魔術と契約を結ばんと挑む。己が欲望の極致が研ぎ澄まされていれば、恙無く終わる試練。失敗すれば、露と消える試練。
あの、ヴィヴィを虐げていた高慢な魔女見習いたちのひとりが、また、試練の時を迎え、そして乗り越えた。
「落ちこぼれ。」「恥さらし。」「無能。」「役立たず。」「生き肝すら使えない。」「見苦しい。」「母が母なら娘も娘ね。」「なんて賤しい。」
ヴィヴィへの誹謗は、不意に訪れる試練の夜を境に盛り上がる。
そうであってもナーマは、今までヴィヴィの生命を維持する以上の優遇をしなかった。それは、魔女としての生きていくしかない孫の行く末を思っての施しだった。
それが、いかに冷徹に見え、ナーマの独りよがりに見えても、それでも、死が救いになるほど、魔女の命は孤独を極めることを、教えなければならなかった。
「……。」
だからこそ。
耐え忍ぶこと以外、学べなかったヴィヴィが、それでも周囲に潰されずに過ごす姿を、見守っていた。
「ねえ、落ちこぼれ。」
「……。」
「お前は一体、何と契約するのかしらね?」
「……。」
「私は『貪食』。根源に至る奔流のひとつ。」
腐っても、ククル=カンの末席に名を連ねる魔女。実力に裏付けされた、不安の裏返しの高慢は、魔女の権威を笠に着て、ヴィヴィの不出来を憎しみ始めていた。
「……。」
「私がここを抜け出すまでに、なにかひとつでも使ってみなさいな……できないでしょうけど。」
「……。」
ヴィヴィには、わからなかった。
わからなかったから、貝のように黙っていた。
ヴィヴィには、優越感も、恐怖も不安も、なにより嫉妬がわからなかった。
その異様は、ナーマの目にも憐れに映ったのだろうか。その夜、ヴィヴィの寝所にナーマが訪れた。
「ヴィヴィ。アンタの母親は、みんなから落ちこぼれの魔女って言われてるね?」
「うん……。」
少し霞が晴れた頭で、昼日中に他人事のように受け止めた言葉の数々が、ヴィヴィの心臓に突き立った。だというのに、ヴィヴィには、それが痛みだと知る術がなかった。
複雑な心境を隠して、ヴィヴィは無表情だった。ナーマは、そんなヴィヴィの頭に手を乗せて、言葉を重ねる。
「それは、違うよ。違うんだ。少なくともアタシゃそんなふうに思っちゃいないんだ。」
初めて掛けられた言葉に、反射的にヴィヴィは問い掛ける。
「……どうして?」
「ヴィヴィの母さんは、この世で初めて『運命の呪縛』を、祝福に使うことに成功した魔女だ。……見てごらん。これは、『饗宴の鏡』という魔導書だ。」
「……?」
「ここには、すべての魔女魔法の名前と、それを最初に発動させた魔女の真名が、いつの間にか記されているのさ。すべての魔女は、この魔導書に自分の名前が記されることを目標にするものさ。この魔導書に名前が載るってことは、この世が自分の魔女魔法を認めたっていう証だからね。名前が記されているのは、一流の魔女の証明になる。……魔女が、一人前と認められたら、師匠から分冊される魔導書で、ヴィヴィもいつか貰えるように努力しな。」
「うん。……それで?」
初めて交わした、祖母と孫の生きた会話。だというのに、昔から言葉を交わしていたように、ヴィヴィは相槌を打っている。
「ここを見てごらん。ヴィヴィの母さんの名前があるだろう?」
「――え?」
単純な驚きだった。
期待し、絶望した母親の存在。
噂と嘲笑でしか知らない母親と、ナーマの言葉が結び付かなかった。
「ここ、『災禍の福音』。――ヴィヴィ。アンタの母親はね、決して落ちこぼれなんかじゃ無かったのさ。最期の最期で、一流の魔女として、アンタに魔女魔法をかけた。」
そのひと言が、ヴィヴィの心に沁みた。
ヴィヴィも、その母親ヴィオレッタも、否定されていただけではなかったと、知った。
ヴィヴィは、早熟だった。その心は、驚くほど繊細だった。だからこそ、日中は働かない思考に任せ、殻にこもるように過ごしていた。
「ヴィヴィ……そろそろ、自分の魔法・魔女魔法・魔術を探し出す年頃だ。」
「うん。」
「アトリエに押しかけた見習いと違ってね、ヴィヴィ、アンタはアタシの直弟子だ。」
「うん。」
「母親と同じ、契約の魔女魔法を、学ぶかい?」
ナーマには、ヴィヴィが首を振るだろうとわかっていた。だから、予定していた言葉を繋げた。
「『饗宴の鏡』を開いてみなさい。最初に目についた物が、ヴィヴィの運命に――、」
「いい。」
「……そうかい。好きにしな。」
そしてアッサリと、ナーマは身を返してヴィヴィの寝室から出ていった。
ヴィヴィは、師匠が弟子に対する教えの場面を装って、自身を励ましたのだと、理解した。そして同時に、そうでもしなければ優しい言葉を掛けることすら難しいのかと、悟った。『魔女の魔女』たる存在は、魔女に対して魔女を説く。それ故の厳しさだった。
それでも。
その日の夢見が良かったことは、間違いなかった。
~to be continued~
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