第36話『聖地(ニューオリンズ)に響く足音』
いつも『レストラン船ブルートーン号の航海日誌』を応援していただき、本当にありがとうございます!
前回は、陸の『ビストロ・ブルートーン』がグランドオープンを迎え、亮太シェフの極上メニューと、
海の向こうからのサプライズビデオレターで神戸港の桟橋がリスナーで埋め尽くされる
大盛況をお届けしました。
さて、今回の第36話からは、舞台をガラリと変えて「ニューオリンズ・武者修行編」が幕を開けます!
1ヶ月のドック期間を利用して、かつて自分たちを育ててくれたジャズの聖地へと凱旋した
カイト、ジョージ、ベンの3人。
懐かしいマネージャー・アンとの再会に和むのも束の間、彼女の口から出たのは、
ブルートーン号の「Instagram伝道師」であり、元イギリス大使館参事官でもある、
あのMr.オオサワの名前でした。
世界中に響き渡る大沢さんの発信力、そして本場ニューオリンズのステージを前に、
プロとしての自信と、かつて新人だった頃の記憶の狭間で揺れる3人。
思い出の公園の広場で、カイトがアルトサックスの音色と共に夜空に響かせた「誓い」とは――?
「お帰りなさい、ボーイズ! よく戻ってきたわね!」
懐かしい湿り気を含んだ風が吹き抜けるニューオリンズの街。
ジャズクラブの新人発掘担当であり、かつて名もなき3人を見出した
敏腕マネージャー・アンが、両手を広げてカイト、ジョージ、ベンを迎えた。
その弾けるような笑顔に、長旅の疲れが一気に吹き飛んでいく。
「アン! 会いたかったよ!」
ジョージが大きな身体を揺らしてハグを交わすと、アンは楽しげに3人を値踏みするように見つめ、
不敵にフッと笑った。
「あなたたちの噂は、ちゃんと『Mr.オオサワ』のInstagramでチェック済みよ。
元イギリス大使館参事官の彼が、今やブルートーン号の『伝道師』として
あなたたちの動画を世界中に発信しているんですもの、嫌でも目に入るわ。
トリオのコンビネーションも格段に良くなったようじゃない」
「へへ、そいつは光栄だね。大沢さんの審美眼に狂いがないってところを、
本場でも見せてやらないとな」
ジョージが誇らしげに鼻を鳴らす。
「早速、明日から1ヶ月間の凱旋ライブのステージを用意してあるわ。
初日から本場の目の肥えた客たちが押し寄せるかもしれないから、覚悟しておきなさい。
……でも、今日は長旅の初日。まずはゆっくり休むことね」
アンはウインクを残し、小気味よい足音を響かせてクラブの奥へと消えていった。
◇
ホテルに荷物を置いた3人が、引き寄せられるように向かった場所があった。
そこは、かつて彼らが毎日のように集まり、日が暮れるまで音を合わせ、
夢を語り合っていた思い出の公園の広場だった。
木々の間から漏れる街灯の光が、石畳の地面を優しく照らしている。
「……なぁ、ちょっとだけ、鳴らしてみないか?」
ベンの提案に、カイトとジョージが無言で頷いた。
カイトが愛用のアルトサックスをケースから取り出し、ジョージとベンもそれぞれの楽器を構える。
そっと息を吹き込み、指を走らせる。かつてと変わらない公園の響き。
しかし、カイトのアルトサックスから溢れ出る音の厚み、そして一瞬で呼吸が噛み合うトリオの
超一級のアイコンタクトは、日本での過酷な航海で培ってきた
「本物のプロ」のそれだった。
ふっと一曲を吹き終えた後、ベンが楽器を抱えたまま、ぽつりと夜空を見上げて呟いた。
「……なぁ。明日、もし本当にお客さんが誰もいなかったら、どうしよう」
「ベン?」
ジョージが眉をひそめる。ベンは少し照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
「いや、だってさ。日本ではブルートーン号っていう看板があって、大沢さんみたいに
俺たちを愛してくれるお客様がいたけど……ここでは、俺たちは明日デビューする『ただの新人』
なんだ。本場の連中が、日本の船帰りのトリオをすんなり受け入れてくれるかどうか……」
ベンのリアルな不安に、夜の広場に小さな沈黙が流れた。
カイトがアルトサックスを優しく抱え直し、ベンの目を見つめて静かに口を開く。
「確かに、明日の初日は席が埋まらないかもしれないね。本場の壁は厚い。
……でも、1ヶ月後、俺たちが日本へ帰る頃には、この街の全てのクラブを満席にしよう。
俺たちの音なら、それができるはずだ」
カイトのアルトサックスの音色のように、揺るぎない、芯の通った言葉。
その瞬間、ジョージが待ってましたとばかりにベンの背中を爆音で叩いた。
「そーだぜ、ベン! カイトの言う通りだ! 俺たちは最高で、最強のトリオさ!
それは日本でのステージでも、自分たちで証明してきたじゃないか。
客が一人だろうが百人だろうが関係ねえ。まずは明日、俺たちらしい、
最高にハッピーなステージを本場に見せつけてやろうぜ!」
ジョージの豪快な笑顔と熱い言葉に、ベンの瞳から不安が消え、いつもの悪戯っぽい光が戻ってきた。
「ハハ……そうだね。カイトのサックスが格好良すぎて、客席の女の子たちが全員カイトに
惚れちゃわないことだけを祈るよ」
「おいおい、何言ってるんだよ」
カイトの照れくさそうな笑い声が、二人の掛け合いに重なる。
思い出の公園の広場で、再び重なり合った3人の呼吸。
明日から始まる本場ニューオリンズでの過酷な凱旋ライブを前に、
3人のプロとしてのプライドと絆は、さらに強く、熱く燃え上がっていた。
ニューオリンズの夜が幕を開ける。
ジャズクラブの薄暗いステージでのリハーサルを終え、
カイト、ジョージ、ベンの3人は控え室にいた。
「……くそ、やっぱりな」
ベンはさっきからじっとしていられず、何度も何度も控え室のドアを開けては、
ステージ脇の隙間から客席の様子を確認していた。
カイトの予想通り、本場の壁は高かった。
開演まであとわずかだというのに、店内のテーブルに座っているのは、
まばらでパラパラとした数組の客だけ。グラスの氷が鳴る音だけが、
やけに広く冷たく響いているように思えた。
ベンが落ち着かなげにフルートのキーを無意味にパタパタと鳴らす。
カイトはアルトサックスのリードを静かに湿らせ、その様子を黙って見守っていた。
その時、控え室の重い扉が快活にノックされた。
「ハイ! 3人さん、今夜はよろしくお願いします!」
現れたのは、今夜のステージの司会進行を担当する、現地スタッフのアニーだった。
大きな瞳を輝かせ、クリップボードを抱えた彼女は、3人のピリついた空気を和らげるような
明るい笑顔で歩み寄ってくる。
「早速なんだけど、本番のMCであなたたちのことを紹介したくて。
オープニング用に、あなたたちのこれまでのエピソードを少し教えてもらえるかしら?」
アニーの言葉に、ベンが気まずそうに視線を落とした瞬間、ソファに深く腰掛けていたジョージが
「ガハハ!」と豪快に笑いながら立ち上がった。
「オーケー、ハニー! 俺たちの歴史を知りたいってなら、いくらでも話してやるぜ、任せてくれ!」
ジョージはアニーに向かって大袈裟にウインクしてみせると、
身振り手振りを交えて熱っぽく語り始めた。
かつてこのニューオリンズの路地裏で、名もなき3人がお互いの音に惹かれ合って
運命的な出会いを果たしたこと。
身一つで飛び込み、人生を賭けて掴み取った『レストラン船ブルートーン号』のあの熱い記憶、
日本の美しい港町や豪華な船の上で、毎夜のように何百人もの素晴らしいお客様を、
自分たちの極上のジャズで踊らせ、沸かせてきた、あの輝かしい日本遠征の大活躍の話――。
「……そうだよな。俺たち、日本の海の上で、毎晩ものすごい拍手を浴びてたんだよな」
ジョージのノンストップのマシンガントークを聴いているうちに、
ベンの指の震えがぴたりと止まっていた。
大沢さんが熱狂してくれたこと。亮太シェフの美味い料理と自分たちの音が完璧に共鳴していたこと。
船長や支配人、クルー全員が、自分たちの音楽を「世界一だ」と信じて送り出してくれたこと。
思い出すのは、客席の少なさへの恐怖ではない。
自分たちがブルートーン号のステージで刻んできた、圧倒的なプライドと絶対の自信だった。
「だろ? だからよ、ベン。客の数なんて関係ねえのさ。
今夜ここにいるパラパラの連中は、明日には『伝説の初日を目撃したラッキーな奴ら』
になるんだからよ」
ジョージがニヤリと笑って、ベンの肩をドンと叩く。
「……ふふ、そうだね。ジョージの無駄にデカい声のおかげで、すっかり緊張が解けちゃったよ」
ベンがいつもの悪戯っぽい笑顔を浮かべ、愛用のフルートを愛おしそうに磨き直した。
「エクセレント! 最高のストーリーね。本番のハードルをうんと上げて紹介しちゃうから、
期待してて!」
アニーは満足そうにウインクを返し、弾むような足取りでステージへと戻っていった。
控え室の空気が、完全に変わった。
静かに、だが信じられないほど濃密で熱いグルーヴが、3人の間に満ちていく。
カイトがアルトサックスをしっかりと構え、ジョージとベンに力強い視線を送った。
「さあ、いこう。ニューオリンズの夜を、ブルートーンの色に染める時間だ」
本番を告げるベルが、今、楽屋のスピーカーから鳴り響いた。
「皆様、長らくお待たせ致しました! 日本から凱旋した、今夜の主役たちの登場です!」
司会・ハニーの華やかな紹介が響き渡る。
ステージの重いカーテンの前でスタンバイしているカイト、ジョージ、ベンの3人は、
お互いの視線を交わして深く呼吸した。
(……静かすぎる)
ハニーがどんなに煽っても、客席からは拍手一つ聞こえてこない。
やっぱり少ないのか、それとも本場の連中には、俺たちの存在すら届いていないのか。
ベンが震える手でフルートを握り直す。
その時、ゆっくりとカーテンが上がった。
「――っ!?」
3人は言葉を失った。
目の前に広がっていたのは、当初の不安を吹き飛ばすような、
地を揺らす大声援と割れんばかりの手拍子だった。
薄暗いクラブの客席は、立錐の余地もないほど溢れかえったオーディエンスの熱気で
埋め尽くされている。彼らが静かだったのは、不入りだったからではない。
この「奇跡の瞬間」を見逃さないよう、全員が息を呑んで待っていたのだ。
「……いくぞ!!」
カイトが鋭い眼差しで合図を出す。
次の瞬間、アルトサックスの咆哮が、ピアノの跳ねるようなリズムと
フルートの艶やかな旋律と混ざり合い、ノンストップの演奏が爆発した。
3人の指先から放たれる音は、日本での過酷なステージを経て、以前よりも格段に鋭く、
そして優雅に洗練されていた。
演奏が中盤に差し掛かった頃。ふとカイトの目に、フロアの最奥に座る
マネージャー・アンの姿が映った。
彼女は、隣に座る一人の老人に、これ以上ないほど恭しくお辞儀をしていた。
そのシルエットを見た瞬間、3人の脳裏に、あの懐かしくも鮮烈な情熱の記憶が蘇った。
――「今夜、俺の店のステージに立ってみないか?」
それは数年前、路地裏で細々とセッションをしていた彼らの前に、
古い自転車にまたがって現れた一人の老人だった。
しゃがれた声。実直そうな、だが奥底に計り知れない音楽への愛を湛えた瞳。
海兵隊が集まる荒っぽいBARで、演奏のチャンスと「プロとしての洗礼」をくれたのが、
あの老人だった。
彼があの夜、自分たちを拾ってくれたから。
彼の店で揉まれたからこそ、あの厳しいアンのオーディションを突破することができたのだ。
「……親父さん、見ててくれ」
ジョージがテナーを吹きつけ、ベンが空を切るような高音を響かせる。
カイトのアルトサックスは、感謝と、自分たちの成長を証明するかのような
激情を孕んでヒートアップしていった。
アンさえも頭を下げる、この街のジャズの守護神。
恩師が見守るなか、ニューオリンズの夜は、かつてないほどの熱い熱い歓喜の渦に包まれていった。
「お疲れ様! 最高だったわ、ボーイズ!」
ニューオリンズの夜を揺らした凱旋ライブ初日のステージが終わり、
楽屋にはマネージャーのアンと司会のハニーの弾けるような声が響いた。
カイト、ジョージ、ベンの3人は、持てる全てのエネルギーを音に変えて放出した後の、
心地よい放心状態に浸っていた。ソファに沈み込み、荒い息を整える。
「……アン。一つ聞かせてくれ」
不意に、ジョージがしゃがれた声で尋ねた。
「あのフロアの奥にいた、あの爺さんは何者なんだい?
あんたがこれ以上なく恭しく頭を下げていた……あの古い自転車の親父さんだ」
アンは一瞬、慈しむような表情を浮かべ、静かに微笑んだ。
「あの方は……この街にジャズの灯をともし、このクラブを作ってくれた、私たちの親のような人よ。
あなたたちを公園で見つけ、自分のBARに誘って以来、あの方は今日という日が来るのを、
誰よりも首を長くして待っていたわ。あなたたちの成長を、自分のことのように喜んでいたはずよ」
アンの言葉に、3人は言葉を失った。
あの無愛想で実直な老人が、自分たちの帰還をずっと信じて待ち続けてくれていた。
自分たちが今ここに立っているのは、ただの偶然ではなく、
あの老人の深い愛に導かれた結果だったのだ。
感謝と感動で胸がいっぱいになり、再び心地よい沈黙が訪れた、その時だった。
「さあ、ボーイズ! まだもう一仕事残ってるわよ!」
アニーが扉を勢いよく開け、ビデオカメラを構えて入ってきた。
「おいおい、アニー! 初日からハードすぎやしないかい!? 指一本動かせないぜ」
ベンが冗談めかして頭を抱えるが、カイトはアニーの背後で微笑むアンとアニーの顔を見て、
すべてを察した。
「……何の仕事だい?」
アンとハニーが顔を見合わせ、クスッと悪戯っぽく笑った。
「これよ。日本で戦っている仲間たちへ――『ビストロ・ブルートーン』へのビデオレター!」
「……っ、そいつは断れねえな」
亮太や慎太郎、バロン、須賀……海を越えて奮闘する仲間の顔が、カイトの脳裏をよぎる。
カイトは再び重い腰を上げ、楽屋に置かれたアップライトピアノの前に静かに座った。
アニーが録画ボタンを押し、カイトがレンズに向かって爽やかに手を振る。
『ハロー、日本のリスナーのみんな! ビストロ・ブルートーンのオープン、おめでとう!』
カイトの呼びかけに、ジョージとベンも楽器を構えてカメラの枠内に滑り込んだ。
『こっちはニューオリンズのクラブだ。最高の熱気だよ。
さて……日本のお祝いだ、今夜は何を演奏しようか?』
カイトがそう問いかけると、3人はカメラの向こうで顔を見合わせ、楽しげに肩を揺らした。
首からテナーサックスを下げたジョージが、カメラに向かってニヤリとウインクする。
自分たちのこの、全てを出し切ってクタクタに疲れ果てた最高にハードな初日の夜。
そして時差を越えた日本の神戸で、同じように陸の上のグランドオープンという戦場で、
怒涛の1日を戦い抜いているはずの亮太たちの夜。
お互いの『ハードな1日』を労い、笑い飛ばすために選ぶ曲なんて――最初から一つしかなかった。
『――へっ、決まってんだろ!』
ジョージの合図と共に爆発したのは、あのビートルズの名曲『A Hard Day's Night』の、
原曲を木っ端微塵にスイングさせた超ファンキーなジャズバージョンだった!
初日のステージの疲れなど微塵も感じさせない、圧倒的なパッション。
虹の彼方、アメリカから日本へと届けられたその音色は、
ブルートーンの絆が物理的な距離など簡単に飛び越えてしまうことを、
何よりも雄弁に物語っていた。
【第36話:聖地に響く足音 完】
第36話を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
カイトたちが演奏したビートルズの『A Hard Day's Night』のジャズアレンジ。
実はこの選曲、ジョージの最高に粋な『もじり(ダブル・ミーニング)』が
隠されていたことに気づいていただけましたでしょうか?
本場のステージで魂を削り、指一本動かせないほど『ハードな1日』を終えたニューオリンズの3人。
そして、グランドオープン初日の大盛況で、桟橋が埋め尽くされるほど『ハードな1日』
を戦い抜いた神戸のビストロ組。
ジョージは、海を越えて同じようにヘトヘトになっているはずの亮太シェフたちを想い、
『お互い、本当にとんでもなくハードな1日だったな! でも最高の夜にできたろ?』
というリスペクトとジョークを込めて、この曲をぶっ放したんです。
離れていても、彼らは同じプロとして、同じ熱量で戦っている。
そんなブルートーンの絆が、この1曲の裏側にぎゅっと凝縮された回になりました!」
この「お互いにハードだった初日」という最高のドラマを引っ提げて、
次回はどこへ向かいましょうか? お楽しみに!
野内




