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【別冊】『レストラン船ブルートーンへようこそ』  作者: マサ


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12/17

第32話:『銀色の調律師(タイム・アーキテクト)』

いつも『レストラン船ブルートーン号の航海日誌』を応援していただき、本当にありがとうございます!


前回は慎太郎のお父さん、健太郎さんの定時運行の人生が大海原へと開かれる、

感動の親子の物語をお届けしました。たくさんの温かいコメントをいただき、

作者として胸がいっぱいです。


さて、第32話の主役は、ブルートーン号のフロアを静かに、

かつ完璧に支配する男・バロン(Baron)です。


超一流企業のエリート・士郎様は、人生最大のイベント「プロポーズ」のために、

分単位の完璧な計画を立てて乗船されました。しかし、その完璧主義が仇となり、

テーブルの空気は凍りつき、恋人のマリ様は笑顔を失いかけてしまいます。


そこに同伴者として現れたのは、かつてパリの最高級ホテルでバロンの神懸かり的な

サービスを受けていた、士郎様の母・エマ様でした。

「バロン、今日だけはマニュアルを捨てて、彼らを救ってちょうだい」

かつての馴染みからの静かな依頼を受け、バロンが仕掛ける「ミリ単位の観察」と「時間の調律」。


ウェイターとは、ただ料理を運ぶ者ではない。

その席の『時間』そのものをデザインする彫刻家である――。

バロンの真の力が炸裂する、至高のホスピタリティ・ドラマをどうぞお楽しみください!

夜の帳が降りた神戸港を、滑るように出航したレストラン船『ブルートーン号』。

そのメインダイニングの特等席に、妙な緊張感に包まれた三人連れの姿があった。


超一流企業に籍を置く若きエリートビジネスマン、士郎。その恋人であるマリ。

リストラや経営戦略を語る時は冷徹な士郎も、今日ばかりは勝手が違う。

そしてもう一人、士郎の母親であり、洗練された佇まいを持つエマが同席していた。


士郎はこの日のために、完璧なプロポーズの計画を記述し、練り上げていた。

何時にどの料理が運ばれ、どのタイミングで指輪を渡すか

――手帳には分単位のスケジュールがびっしりと書き込まれている。

しかし、その「完璧主義」が、彼自身の首を絞めていた。


ガチガチに緊張した士郎の会話はどこか事務的で、せっかくの亮太シェフの極上料理も

全く味が分かっていない様子だった。そんな彼の重苦しいプレッシャーを敏感に察知し、

マリの表情も次第に曇り、視線は所在なげに暗い夜の海へと向いていく。


張り詰めた沈黙がテーブルを支配しようとしたその時、静かに、

そして至高の優雅さを持って男が影を落とした。

銀髪を綺麗に整え、非の打ち所がないコックコートを纏ったサービスクルー――バロンである。


「おや……? あなたは、バロン……?」


エマが驚きに目を見張った。バロンが静かに一礼を返すと、

エマの顔に華やかな気品ある笑みが浮かぶ。


「まぁ、まさかこんな日本の船であなたに再会できるなんて。

士郎、マリさん、この方はね、私がかつてパリの最高級ホテルに滞在していた頃、

完璧な魔法でフロアを支配していた伝説のウェイターなのよ」


エマは嬉しそうに昔話をひとしきり語ると、士郎たちの様子を案じるようにバロンを見上げ、

そっと声を潜めて微笑んだ。


「バロン。今日は、この子たちに最高の夜をプレゼントしたくて連れてきたの。

だけど、ご覧の通りよ。……今日だけはマニュアルをあえて無視して、

彼らを救ってちょうだい。お願いね」


「――畏まりました。エマ様。どうぞ、このブルートーン号の海にすべてをお任せください」


バロンはただ一度、深く気品に満ちた一礼を捧げ、音もなくその場を退いた。


バロンの「仕事」が始まった。


彼は、士郎がグラスを持つ手のわずか0.1ミリの震えを見逃さなかった。

さらに、マリの視線のわずかな動き、肩の2度ほどの傾きから、

彼女が求めているのは重厚な格式ではなく、「もっとリラックスして心から楽しみたい」という

安らぎであることをミリ単位で見抜く。


バロンは即座に、事前に登録されていたフレンチの厳格なマニュアルを脳内から消去した。

キッチンへ目線で指示を送り、コースの提供速度をあえて遅く遅く調律していく。

会話を交わすための「心の余白」を作るためだ。


さらに、次に運ばれてくる濃厚な肉料理に対し、予定されていた格式高い重口の赤ワインではなく、

地元・西宮の酒蔵が誇る、すっきりと華やかなスパークリング日本酒を絶妙なタイミングで

ワイングラスに注いだ。


「こちらは、お口直しを兼ねました特別な一杯でございます。

どうぞ、肩の力を抜いて海の調べをお楽しみください」


マリがそのグラスを口に含む。シュワリと弾ける繊細な泡と爽やかな甘みが、

彼女の緊張を魔法のように解きほぐしていった。

張り詰めていたマリの頬に、ようやく柔らかな笑顔が戻る。

それを見た士郎の表情からも、すっと強張りが消えていった。


派手に言葉を並べるわけではない。バロンの放つ一瞬の「目線の合図(アイルック)」と、

呼吸を合わせるかのような完璧なタイミングのサーブ。

それだけで、冷え切っていたテーブルの空気は、最高にロマンチックな温度へと書き換えられていく。


遠くからそれを見守っていた慎太郎が、感嘆の息を漏らした。

「凄い……バロン、本当に空気そのものをコントロールしてる……」


バロンは静かに影へと戻りながら、心の中で自らの哲学を反芻していた。


『ウェイターとは、ただ料理を運ぶ者に非ず。

その席の『時間』と『空間』を美しくデザインする調律師である』


やがて、成人の美しいデザートが運ばれる頃には、士郎は手帳のスケジュールをすっかり忘れ、

マリの手をしっかりと握り締めていた。用意してきた台詞ではなく、

彼自身の心からの言葉で、まっすぐに想いを告げる。


「マリ、僕と結婚してください」


マリの目から大粒の涙が溢れ、静かに、だけど確かな声で「はい」と応えが返ってきた。


エマが満足そうにバロンへ向けてグラスを掲げる。

銀色の調律師は、誰にも気づかれないほどのわずかな、

だけど最高に温かい微笑みを浮かべ、新しき旅人たちの誕生を祝うように深く一礼したのだった。


「ハッピー・ウェディング!!」


どこからともなく、ジョージの野性味溢れる咆哮が響き渡った。

それを合図に、カイト、ジョージ、ベンの三人が奏でる歓喜のジャズ演奏が

爆発するように始まった。驚き、そして満面の笑みを浮かべる二人。


その頃、下のデッキのBデッキ Bar では、一息ついたエマがカウンターにいた。

「お疲れ様でございました、エマ様。お二人の幸せに、祝杯を」

バーテンダーの須賀が、労いの言葉と共に、幸福を願うルビー色のカクテルを供する。

二人は静かに、上の階から漏れ聞こえる祝福の音に耳を傾けた。


同じ頃、ダイニングの隅では、佐々木支配人と村田船長が動いていた。

彼らは、二人の名前と今日の日付が刻印された真新しい記念プレートを、

船の壁にあるメモリアルボードへと力強く打ち付けた。

「おめでとう。今日という日は、このブルートーン号にとっても永遠の記念日だ」

村田船長の太い声が、二人の門出を祝福した。


一部始終を見守っていたエマは、傍らにいたバロンに、深く、確信に満ちた笑みを向けた。

「すべては、あなたの仕業ね……バロン。

なぜあなたがあのフランスの素晴らしいレストランを離れ、この日本へ、この船に来たのか

……今、ようやくわかったわ」


バロンはただ静かに微笑み、恭しく頭を下げた。

「ここでは、お客様の『人生』そのものが、最高のメインディッシュでございますから」


やがて船が到着し、タラップを降りようとするエマたちに、フロントのチャンが元気よく声をかけた。

「エマ様、皆さん! せっかくですから、皆さんで記念写真を撮りましょうよー!」


「あら、それは素敵ね」

嬉しそうにレンズの前に集まる一行。シャッターが切られた瞬間、デッキからはいつまでも、

二人の新しい旅立ちを祝うハッピーソングが鳴り響いていた。


【第32話:銀色の調律師(タイム・アーキテクト) 完】

第32話を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!


バロンのプロフェッショナルな「時間の調律」を皮切りに、ジョージの熱い掛け声、

須賀さんの大人のカクテル、佐々木支配人と村田船長の記念プレート、そしてチャンの写真撮影……。

ブルートーン号の仲間全員が、まるで一つの生き物のように連携してお客様の幸せを創り上げる、

この船の「真髄」が描けた神回になったと確信しています!


エマ様がバロンに告げた「なぜこの船に来たのか分かったわ」というセリフ、

そしてバロンの「お客様の人生がメインディッシュ」という返しは、

この作品全体のテーマそのものです。

世界一のウェイターの魔法によって、最高の記念日を紡いだブルートーン号。

さあ、次回の第33話。この船はまた、どんな新しい出会いと奇跡を運んでくるのでしょうか。

どうぞ、今後の航海も楽しみにお待ちください!


野内(マサ)

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