第31話:『定時運行のレールと、大海原のエンターテインメント』
いつも『レストラン船ブルートーン号の航海日誌』を応援していただき、本当にありがとうございます!
前回は、世界的な女性料理人・美佐子様が、慎太郎のスープや成人のチョコ、そして音楽隊の情熱によって料理人としての魂を取り戻す、熱いプロフェッショナル編をお届けしました。
今回お届けする第31話は、そのスープを作った若手のサービスリーダー・慎太郎の
『親子の物語』です。
慎太郎の父親・健太郎は、長年、電車の運転手として実直に勤め上げてきた男。
「定刻定時運行」「安全運転」こそが男のモットーであり、それ以外の娯楽や遊び心には
一切興味がありません。慎太郎がどれだけブルートーン号での素晴らしい仕事や仲間の話をしても、
「ふん、船の上のチャラチャラした遊び仕事が」と、聞く耳を持たない頑固親父でした。
そんな健太郎が、ついに定年退職と還暦を迎える日。
慎太郎の強引な誘いで、健太郎は初めてブルートーン号のタラップをくぐることになります。
分刻みのレールの上しか知らなかった頑固な運転手が、境界線のない大海原でブルートーンの
エンターテイナーたちに出会った時、その人生観が激しく揺れ動き始めます――。
チッチッチッ、と規則正しい秒針の音が、リビングに響いていた。
「父さん、明日、定年と還暦の祝い、予定通り夕方から空けといてよ。俺の船に招待するからさ」
慎太郎がそう声をかけると、ソファで新聞を広げていた健太郎は、眼鏡の奥の鋭い目を息子に向け、
短く鼻を鳴らした。
「何度も言うが、俺はそんなチャラチャラした船に乗る興味はない。
男の仕事ってのはな、決められた時間に、決められた場所へ、安全に乗客を運ぶことだ。
それ以外はすべて余興に過ぎん」
健太郎は、地元の鉄道会社で40年間、無事故無違反を貫いてきた伝説の運転手だった。
彼の世界は「定刻定時」がすべて。
秒単位の遅れすら許さない過酷なレールの上で生きてきた男にとって、
息子が熱弁する「レストラン船の感動」や「おもてなし」といった言葉は、
どこか地に足のつかない、中身のないものに聞こえていたのだ。
「……明日になれば、わかるよ。俺たちの仕事が、ただの余興じゃないってことがさ」
慎太郎はそれ以上反論せず、少し寂しそうに、だけど強い決意を秘めた目で微笑んだ。
◇
翌日の夕暮れ時。
還暦を祝い、息子から贈られた真新しい赤いポロシャツを少し窮屈そうに着た健太郎は、
神戸港に停泊する『ブルートーン号』の前に立っていた。
夕日に照らされた白い船体と、きらびやかなイルミネーション。
「ふん……大層なものだな」
腕を組んでタラップを上がる健太郎を、エントランスで迎えたのは、
満面の笑みを浮かべたチャンだった。
「健太郎様! 40年間の運転手生活、本当にお疲れ様でした! そして還暦、
心からおめでとうございます!!」
チャンの、まるで花火が弾けたような明るく元気な声と、完璧に心のこもった最敬礼。
一瞬、健太郎は気圧されたように足を止めた。駅のホームでの事務的なアナウンスとは全く違う、
聴く者すべてを一瞬で歓迎の渦に巻き込むような、圧倒的な「陽のエネルギー」がそこにはあった。
「……あ、あぁ。どうも」
無愛想に返す健太郎を、慎太郎が誇らしげに席へと案内する。
メインダイニングの窓際の席。運ばれてくるのは、かつて健太郎が「ただの余興」と
切り捨てた料理たちだった。
しかし、運ばれてくる一皿一皿には、亮太シェフの豪快な技と、
息子・慎太郎が毎朝真面目に仕込んでいる極上の『出汁』の香りが詰まっていた。
「父さん、これ、俺が仕込んだスープ。飲んでみてよ」
慎太郎がそっと差し出したスープを、健太郎は無言で口に運んだ。
じわりと五臓六腑に染み渡る、優しくも深い旨味。定時運行の緊張感で、長年張り詰めていた健太郎の胃袋が、その温かさにじんわりと緩んでいく。
「……丁寧な仕事だ。秒単位のズレもない、いい出汁だな」
それが、頑固な父親が口にした、精一杯の職人としての賛辞だった。
慎太郎の顔に、パッと喜びの笑顔が咲く。
だが、健太郎を本当の意味で「震撼」させたのは、ディナーの後半に始まった、
ブルートーン号が誇るエンターテイナーたちの時間だった。
照明が落とされ、ステージにスポットライトが当たる。
現れたのはカイト、ジョージ、ベンの3人。そして、彼らのジャズ演奏が始まった瞬間、
健太郎の体は硬直した。
始まった曲は、誰もが一度は耳にしたことがある、軽快で、どこか哀愁を帯びた
――『線路は続くよどこまでも』の、驚くほどスリリングで格好いいディープ・ジャズアレンジだった。
「――っ!?」
ジョージのテナーサックスが、まるで蒸気機関車の力強い駆動音のように激しく咆哮し、
ベンのフルートが、線路のきらめきのようにハイトーンで鋭く滑り込む。
そしてカイトのアルトサックスが、まだ見ぬ大空へ向かって羽ばたくように、
圧倒的な自由さでアドリブを炸裂させていく。
楽譜通りに走るのではない。彼らは今、この瞬間、この場所にいる健太郎のためだけに、
音のレールをリアルタイムで敷き詰め、縦横無尽に駆け巡っている。
さらに、フロアではチャンやバロン、スタッフたちが、音楽のリズムに合わせて
完璧なステップを踏みながら、お客様を楽しませるために縦横無尽に動き回っていた。
笑顔、視線、身のこなし――そのすべてが、計算されているようでいて、
それ以上の「命の躍動」に満ち溢れている。
健太郎は、息を呑んでその光景を見つめていた。
彼らがやっていることは、ただの「チャラチャラした余興」などでは断じてなかった。
決まった線路の上を走る健太郎の仕事とは正反対の、「境界線のない大海原で、
お客様の心を一瞬でハッピーにするために、すべての情熱を燃やし尽くす、
プロフェッショナルの闘い」だったのだ。
隣を見ると、息子・慎太郎が、スタッフのリーダーとして、フロアの全ての動きに目を配り、
見事なプロの所作で指示を出している姿があった。
その目は、かつて自分が電車のレバーを握っていた時と同じ、
命を懸けて職務を全うする男の目だった。
「……そうか。お前は、こんな凄い場所で、闘っていたんだな……」
健太郎の胸の奥で、長年彼を縛り付けていた「型」のレールが、
みしみしと音を立てて外れていくようだった。
熱狂的な『線路は続くよどこまでも』のジャズ演奏と、フロアを彩るスタッフたちの見事なステップ。
その圧倒的なエンターテインメントに魂を揺さぶられた健太郎は、
ディナーの余韻に浸りながら、慎太郎に促されてBデッキのシーサイドバーへと降りていった。
ドアを開けると、そこは打って変わって、波の音だけが優しく響くシックで落ち着いた空間だった。
「いらっしゃいませ、健太郎様。40年間の重責、本当にお疲れ様でございました」
カウンターの中で、バーテンダーの須賀が、深く、温かい微笑みを湛えて一礼した。
差し出されたのは、還暦の赤を優しく灯したような、美しいルビー色のオリジナルカクテルだった。
健太郎はカクテルをひと口含むと、ふぅ、と長く大きな息を吐き出した。
その表情からは、長年レバーを握り締め、乗客の命を背負い続けてきた「闘う男の緊張感」が、
綺麗に消え去っていた。
「……驚いたよ。慎太郎のやつ、いつの間にか、あんなに立派に大勢の人間を動かすリーダーに
なっていたんだな。家では頼りない息子だと思っていたが……私の知らないところで、
あいつは随分と成長していたようだ」
ぽつりと、誇らしさと少しの寂しさをにじませて語る健太郎に、
須賀はシェーカーを置き、そっと語りかけた。
「健太郎様。慎太郎様がこれほど見事なプロフェッショナルに育たれたのは、他でもありません。
毎朝、1分の遅れも許されぬ過酷な線路の上で、命を守り続けてこられた『あなたの背中』を、
ずっと見て育ってきたからですよ」
「俺の背中、か……」
「ええ。慎太郎様はいつも、あなたの『定刻定時、安全第一』の仕事を、世界で一番格好いい仕事だと
自慢されておりました。息子さんがあなたの仕事をこれほど誇りに思ってきたのです。
健太郎様――これからは、あなたが息子さんの仕事を誇りに思う番ではありませんか?」
須賀のその優しくも核心を突いた言葉に、健太郎は目を見張り、それから、深く深く頷いた。
「……あぁ、そうだな。本当に、その通りだ。あいつは俺の自慢の息子だ」
グラスに映るルビー色の光が、健太郎の目元を潤ませるように優しく揺れていた。
◇
楽しい時間は瞬く間に過ぎ、ブルートーン号は静かに神戸港へと帰着した。
下船の時刻。タラップの前に立ち、名残惜しそうにしている健太郎を、
佐々木支配人と村田船長が並んで見送っていた。
「健太郎様、本日の航海はいかがでしたでしょうか」
佐々木が上品に問いかける。
「最高だったよ。私の頑固な頭のレールを、見事に外してくれた。ありがとう」
健太郎が心からの感謝を伝えると、横にいた村田船長が、白い髭を蓄えた顔を豪快に綻ばせ、
健太郎の手をがっしりと握った。
「ガハハ! 線路の上も、海の上も、乗客を無事に届ける情熱は同じですな!
最高の同志にお会いできて光栄でしたぞ!」
その、村田船長の放つ圧倒的な風格と、握られた手の職人としての分厚さに、
健太郎はただ者ではない気配を感じていた。
タラップを降り、夜の港の地を踏んだところで、健太郎は隣を歩く慎太郎に尋ねた。
「なぁ、慎太郎。あの村田船長というのは、一体何者なんだ?
ただの豪快なおじさんには見えなかったが……」
慎太郎はニカッと笑って、誇らしげに胸を張った。
「あ、気付いた? 村田船長はね、100年間ものあいだ『無事故無違反』を貫いてきた、
あの伝説の【東海汽船】のエース船長だった人なんだよ。
そこから引き抜かれて、今のブルートーン号の舵を握ってるんだ」
「――な、何だと……!?」
健太郎の足が、衝撃でピタリと止まった。
鉄道の40年無事故でも奇跡と言われる世界だ。
天候も波も、一瞬先が読めないあの広大な海の上で、100年無事故を誇る組織のエースだった男が、
あの村田船長だったのか。
健太郎は振り返り、月明かりに浮かぶブルートーン号の美しい船体を見上げた。
「そうか……。ただチャラチャラと楽しませているんじゃない。あの船のエンターテインメントは、
100年無事故という、気が遠くなるほど『確かな技術と安全』の土台があるからこそ、
あそこまで自由に、誰もを笑顔にできるエンター性を爆発させられるんだな……」
確かな技術、そして、枠に囚われない最高のエンターテインメント。
その2つが完璧に融合したブルートーン号の奇跡を目の当たりにし、
健太郎の心には、これまでにない新鮮な風が吹き抜けていた。
「慎太郎。どうやら、俺の生き方も、これから少し変わりそうだ」
健太郎は息子の肩を優しく叩き、満面の笑みを向けた。
「また、乗らせてもらうよ。これからの人生、なんだか最高に楽しみになりそうだ」
息子の仕事を心から認め、新たな未来を見つめる健太郎の横顔は、
定年を迎えた男のそれではなく、新しい大海原へ旅立つ、一人の航海士のように輝いていた。
【第31話:定時運行のレールと、大海原のエンターテインメント 完】
第31話を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
レールの上を正確に走り続ける人生も素晴らしい。
けれど、定年を迎えたその日に、息子の闘う「大海原のエンターテインメント」に触れ、
村田船長の「100年無事故の技術」という圧倒的なプロの仕事を知ることで、
健太郎さんの第二の人生の扉がガバッと開く。
「これからの人生、なんだか最高に楽しみになりそうだ」という言葉で締めくくられたこの一話は、
すべての頑張るお父さん世代、そして次の世代へとバトンを繋ぐ若者たちへの、
最高の応援歌になったと確信しています!
最高の親子の絆を描ききったブルートーン号。
さあ、次回の第32話。今度は一体どんな素晴らしい出会いが待っているのでしょうか。
どうぞ、今後の航海も楽しみにお待ちください!
野内




