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『そして世界が終わるまで 〜繰り返される恋の、その先へ〜』  作者: 白雛
現代編

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8. 『告白』


 柴田が悪いと言って、猿彦がいいよと短く答え、自転車を返すやりとりの後、走り去るトラックをまだ見ていた私の肩に柴田が手をついた。


 ナンバーを控えて目に物見せてやろうという構えだった私は、それで柴田の顎先に筋になっている血に改めて気付き、正気に返った。


「柴田、ごめん。それ……」

「あ——? あ、気付かなかった」


 柴田は口元についた血糊を拭うと、吹き出すように口元を綻ばせる。


「大したことねぇよ。それよりお前な……」


 住職はその間にも淡々と車道に戻り、猫の死骸を前に数珠を引っかけた両手を擦るようにして合わせ、何事かを唱え、拝んでいる。


 私もすぐそれに続いて、並び、再び膝を折り曲げて両手で拝んだ。


「これも何かのえにし、うちの方に埋めてあげましょう。もしお三方、よければ手伝っていただけますか?」


 死骸に触れる、ということもあってか、遠慮がちに言う住職に、私は負けん気で切り返した。


「大丈夫です。私の中にも、同じようなのが詰まってるって、私、分かってるので」


 住職は一瞬驚いたように目を見開いたのち、またゆるりと頬を緩めたように見えた。


 私はにべもなくそっと地面から手を回し、死骸を抱き上げる。気をつけないとこぼれ落ちてしまいそうで、注意を払う。


「柴田——あー華藤くんでもいいや。悪いんだけど、残りのやつ、すくって、持ってきてもらっていい?」

「あいよ」


 柴田は階段の近くに自転車を停めながら答え、猿彦は頷いた。


 境内へと続く、長くもなく、さりとて短くもない階段に足をかける間際、一連を遠巻きに見物していた女生徒の群れが今度は私を見て、囁いているのが分かった。

 いわく、


「あれ、四組の松原さんだよ」

「え、マジじゃん。素が怖いってほんとだったんだ——」

「色々……気にならないのかな。猫ちゃん、ヤバくない?」


 ……思うところはあるが、まぁこんな片田舎にしては珍しい修羅場だったことは否めないのでほってお——、


「見せもんじゃねーんだけど? 何してんの、お前ら、さっきっからそこで。暇かよ」


 ——こうとして、階段を一段一段のぼる背後から、早々に柴田のそんな声が聞こえてきて、私は小さく微笑んだ。


 それから階段上の古めかしい鳥居をくぐり、先を行く住職についていく間も、二人の話し声が漏れ聞こえてくる。


「びっくりしたか?」


 いたく優しげに気遣うような柴田の声。

 それから、さっきから大人しくなっていた猿彦の声が続く。


「驚いたことは驚いたけどね」

「たまにあるんだ。俺も目の前で見たのはめっちゃ久しぶりだけど。そのたんびに、晴子とか俺が事をおさめてきたわけ。——ああいう奴なんだよ。誰かが見てないと、いきなり何しでかすかわかんねえ」

「後ろ、うるせーぞ、べらべらと」


 私は一応突っ込んでおくと、前方の住職から答えが返ってくる。


「こらこら、女の子がはしたない」


 柴田のクスクス笑いが聞こえてきて、猿彦も鼻を鳴らした。


 そこでようやく私は、猿彦の前でも遠慮会釈もない素の自分を晒していたのに気付いて、片目を瞑りたい心地がした。


 しかし、先ほどの暴走も含めて、覆水は盆に返らない……それで大人しくなってしまったのだとしても、もう、なるようにしかならん……と内心、嘆息をついていると、思いの外楽しげな声が続いた。


「ふぅん。面白いね。気取ったり、腹の底に何飼ってるのか分かんないのより、よっぽどいいや」

「…………」


 頭の中には議事堂があるし、腹の底には魔界を持っててごめんと思ったが、猿彦の物言いは素直に嬉しくて、脳裏に立ち込め出した雨雲も、シフトを勘違いして現れた新人バイト君のような迅速さで立ち所に消えていく。


「勝之もそんなところが好きなの?」

「……誰かさんみたいなこと言うな。まぁ、中学の時は俺がそんなだったからな——」


 恩返しのつもりなんだ、ときっと続く。


 中学の時は柴田がやらかすのを私と晴子でやれやれと仲介したりしなかったり、そんなことを繰り返すうちに、妙に懐かれて、一緒にいるようになった。


 視聴者、読者の中には気になる人もいるだろうが、それはまた別の話というやつで一つ、機会があれば語ることにして、今は先を急ぐとしよう。


 自然の色濃い神社の裏庭に着くと、私たちは住職に道具を借りて、死骸をその一角に埋めた。


 こんもり盛られた土の奥に、小さな墓標を添えられ、おまけに線香と住職のお経付きで、御霊が天に昇っていくようだった。


「むしろ、野良には贅沢なくらいになっちゃったね」


 私は思わず口にしてしまうと、住職が切り出した。説法慣れしているのだろう、けれどその話は学校で聞くどんな話よりも、睡魔を寄り付けない。


「君の言う通りですよ。この辺りも元は全部自然だった。車やコンクリートなどのない野山だったのを、我々人間が勝手にそこにコンクリートを敷き、道だと言葉をつけて、往来しているに過ぎない。我々人間の方が侵略者なのですよ。我が国はまだ調和を尊んでおりましたがね、戦後、海外との交流が盛んになるうち、それもいつからか忘れてしまっておるようです。猫の方が自然です。それを跳ねて死なせて、尚悪びれることなく車を走らせる彼らに言ってやりたいことは、私にもありますから。大人げなく君の啖呵に聴き惚れてしまいました。ですが、あまり短気は起こさないようにしなさい。殊に君のそれは純真だが、見ていて危なっかしくもある。剥き出しの刀ではすぐに錆びて壊れてしまうのが落とも申されますな。稀有なものは、それだけ道理からは外れて見えるものですから、二人が、上手いこと鞘になってあげなさい。見たところ、良縁のようではないですか——、と、これは口が過ぎましたかね」


 住職は年甲斐もなく破顔して、そう言った。

 よく見ると、朗らかな笑みはハンサムであった。


「良い人だったねー」


 私は境内を戻りながら、両手を後頭部につけて言う。

 二人の背丈は大体おんなじくらいで、猿彦は柴田より頭半分ほど小さいくらいだが、二人とも私からすると頭3/4以上大きい。


 そうして見ると間に挟まれたこの状況はなんか攫われた宇宙人の図のようで、私は猿彦を真ん中にして、帰路に戻っていった。


 ◯


 しばらく何もない日々が続き、テスト期間が始まる頃、突然教室で柴田が言った。


「なぁ、テスト終わったらさ、猫丸の墓参りにいこーぜ! 今度は遠坂も一緒に」

「あ、それいい!」

「それ、この間、言ってたやつ?」


 きょとんとしたのち晴子が私に言った。私はそうそう、と晴子に相槌を打ち、しかし柴田には呆れたように笑う。


「てか、名前つけたの?」

「おう、猫丸。イカすだろ?」

「またひねりもクソもない、どストレートに安直まっしぐらな名前だなー」

「名前ってのはつけることに意味があんだよ。なら、お前なら、なんてつける?」

「……キルヒアイス。ラインハルト、ミッターマイヤー……ああいや、ロイエンタールも捨てがたい」


 私が吟味していると、晴子がぽっかりと口を開けて見ていた。

 柴田がそれに肩をすくめて言う。


「な? 猫丸でいいだろ」


 その話は席を離れた猿彦にもすぐに伝わり、私は数日、久しくウキウキした気分で過ごした。まるで子供の頃の遠足を思い出すかのようだ。


 何も考えず、いやそう見えて、頭の中には今では信じられないほど多くの物事が詰め込まれて、日々忙しくしていた頃のこと。


 毎日が不思議と冒険に溢れていた頃のこと。

 もっと遡れば、私にそれを師事したお父さんも出てくる。


 けれど、先んじて言ってしまえば、その日のお墓参りは複雑極まる心境でのこととなった。


 ◯


 その日、テスト最終日。


 猿彦は、早く学校に馴染んでもらうため、という名目で就任していた学級委員の仕事のために、朝から忙しく教師に給仕していた。もう一人の学級委員、坂東 菜々子と共に。


 午前までのテストが終わってからも、解放感に湧き立つクラスメイトらをよそに、猿彦と坂東の二人だけはそそくさと教師について出ていく。


 とはいえ、そこまで時間のかかるものでもなし、私と晴子と柴田の三人は前以て計画していた通りに猿彦を待つことにして、日向にいるのも暑くて嫌なので、三人して下駄箱前で屯していると、鞄の中で蠢くものを感じた。


 文明の利器を取り出してチェックすると、案の定メッセージが入っている。


 おそらく猿彦だろうということで、他の二人も遠慮なく、私のその画面を覗いてくる。


 お馴染みのチャット画面の左側にまず、ごめん、の一言とおじぎの顔絵。それからすぐ下に、ちょっと手間取っててもう少しかかりそうだから、先に行ってて、とあった。


「手間……? んなことある?」


 と言おうとして顔を上げたところで、私は初めて二人の距離に気づいて、一人、慌てた。


 二人はお構いなしに顔を上げ、見合わせると、妥協策を講じる。


「しゃーね。じゃー先行っとくか」


 と柴田が言うが、私は一旦離れて気持ちを整えたくなっていた。妙な対応をしてしまいそうだ。


「あ、いや、だったら私、ちょっと行って手伝ってくるわ。した方が早く終わるっしょ」

「え、でも……」

「いいからいいから。二人で先行ってて」


 私は言うが早いか、職員室の方へ足を向けていた。


 少し距離が空いた頃にそろっと振り返ると、もう下駄箱前に二人はいなくなっていて、私は胸を撫で下ろす。


 我ながらか細い……いや、か弱い乙女を内心に飼っていると思う。けど最近はそれでなくても接近が多くて、妙に意識してしまったのである。


 高二の夏だからか? 分からない。


 意識……なんでだ。少し前まではそんなことは全然なかったのに、最近何やら急に物事が進み出している気がしてならない。


 全て、猿彦が転校してきてからだ——。

 

 と、考えた後で、嫌な発想だと思い、すぐに振り払った。


 職員室前に二人はいた。何やら親しげにしているところを、私は人喰いサメにでもなったような心境で近づき、少し勇気を出して声をかけると、猿彦はすぐに言った。


「あれ、なんで?」

「ああいや、手伝った方が早く終わるんじゃないかって」

「そうなんだ。行っててくれてもよかったのに——、でも、うん。ありがとう。じゃ、ちゃちゃっと終わらしちゃおうか」


 含みがあるように聞こえるのは、もう一人の学級委員が、あの、坂東 菜々子だからだろうか。


 そう言って、隣の印刷室に向かう傍ら、坂東がこっそり猿彦に意味深な目線を送っていたように見えたのも。


 けれどこの奇妙な違和感の通り、事件は直後に起きた。


 手伝うと言っても刷り上がったプリントを職員室に運ぶだけの作業で、当初私はほぼ見ているだけだった。


 しかし流石に見ているだけでは何をしにきたのかもわからないと思って、途中で代わり、私がオリジナルをコピー機に挟む係を仰せ付かって、二人に溜まったコピーを運ばせていると、ふと傍に気配もなく坂東が立っていた。


 私が声を挙げそうなほどに驚いたのも束の間、彼女は突然、独り言のように言う。


「コピー機ってー、見てると、不安になってくることない?」

「え?」

「私はあるんだよね——、なんだか同じ光景がずっと続いてて、それも同じものを文字通り、コピーしてるわけじゃん? ふっとさ、指突っ込んで、その流れを止めたり、変えてみたくなったりしない? 我慢できずに、まだ出てくるのに、途中で取っちゃったりとか。最後までお行儀良く待ってるのに耐えられないっていうか、松原さんはない? そういうこと?」

「えっと……」

「私ねー、変わらないものは退屈だと思うの。だから、つい変えてみたくなっちゃう。産まれながらの愉快犯、ある意味で厄介勢、それがほんとの私。別に私のことじゃなくてもいいんだ。むしろー、私はー、他人がそうやって踊ってるのを傍観するのが好き、っていうか。結局、奈々ちゃんが、一番頭良いーみたいな気がして」


 あら、坂東さん、あなた病んでらっしゃるの? と切り返しかったが、私はそう、皆様お気づきのように人見知りで、慣れない人の前だと猫をかぶってしまうのである。


 この時も例に漏れず、発言を濁していると、猿彦が職員室から戻ってくる。


 坂東が即座に笑って迎え、去り際ぼそっと呟いた。


「だから、ちょっかいって、好きなんだ——。あ、猿藤くん、ありがとー。これ最後、私が持ってくね」

「あーうん、お願い。あと、華藤だけどね」


 坂東は今さっきの全てがなかったかのように、いつものぶりぶりした態度で猿彦に接すると、プリントの束を腕に抱いてささっと部屋を出ていってしまう。


 私が何も言えず、突然見え始めた坂東の闇に内心(わなな)き、思いを巡らせていると、ドアを閉める音に続いて、ガチャリと雑音が加えられて、その違和感に耳を澄ませた。


 嫌な予感に振り返ると、しかし猿彦も室内にいる。


 既に猿彦はドアに縋るように近づいて、二、三、話しかけているところだった。


 私も状況が呑み込めないまま、猿彦の脇から軽くドアを引いて、やはり鍵がかけられていることを確認する。古い建物で、内鍵もなかった。


 曇りガラスの向こうで、坂東の影が私ににこっと笑いかけているように(うごめ)いた。


「どう? 古典的なシチュエーション!! 私ー、一度やってみたかったんだよねー、恋のキューピッドとか? あはは、そんなの現実にいたんだー的な? 自分で言ってて超ウケんだけど」

「え……ちょ」

「ファイトだぞ、お二人さん」


 坂東の影はドア越しのくぐもった声でそう言うと、かつて見たポスターの政治家のように拳の影を顔の前にきゅっと掲げ、間もなく曇りガラスの向こうに消えていった。


 足音も遠のいて、沈黙が室内を包む一方、私の内心では怒髪天を突く勢いの雑言が飛び出した——、


(あの病みビッチ!!)


 私はドアをそれなりに強く叩いたが、立地を思い出してすぐに意味がないと悟った。


 ここは職員室の近くだが、目の前が来賓用の玄関となっていて、音はそちらに抜けてしまうし、そもそも、それゆえ用がなければ普通の生徒はおろか教師すらまず立ち寄らない。


 職員室はキャビネット棚とモルタル塗りの厚い壁を隔てて向こう側、あとは廊下向かいにある校長室の校長くらいだが、あの人っていつもどこで何してるんだ? たまに玄関先の花壇に水やってるのを見るくらいで、やはり当てにできそうにはない。


 あんまり強く叩いても四肢を痛めるだけ。


 しかし私はほくそ笑むと、コピー機の脇に置いていた鞄から携帯端末を取り出した——、


(バカめ!! それが古典的たる所以も知らずに、あのアホビッチが。子宮に脳でもついてんじゃないの……)


 ところで、誰あろう、猿彦がその手を押さえていた。


 手の甲を突然包み込んであまりあるその熱い感触に、私はたじろぐ。


 盛りのついた男子がよく、女子の手ってなんでこんな柔らかいのーって興奮しながら、聞いてもいないのに話し出すのと同じように、その熱さと硬さに、私も意識が動転する。


「え……え? なに? 猿彦、どうかした?」

「ちょうどいい。俺、千歳と二人きりで話したかったんだ」


 頭の中の議事堂では全議員同席の上、既にアラームが鳴り響いている。


 もはや一刻の猶予もなし、危機回避のプログラムを確認要項の十三番まで飛ばし、リミッターは全解除、即刻、全霊を持って警戒に備え、可及的速やかなる対処に当たるべきである。


 そうだ、此奴(こやつ)こそ柴田以上の素質を秘めし、最も二人きりになってはいけない匂いのする危険人物オトコではないか、と。


 満場一致で煙に巻くべきと議員らは起立して、網膜の外に糾弾していた。


「え? 話……なんの? いや、ごめん。私は……そんな、そんなの、ないけど……」

「——羨ましいって、思ったでしょ?」


 神経を超越した速度だった。

 脳が信号を発し、そのやりとりが四肢に伝わるよりも早く——、

 つまり議事堂の疑義を挟まず、私は目を大きく見開いていた。


「——え?」


 猿彦は今もまた、あの、好奇心だけが奥でキラキラ渦巻く無垢な瞳で、私の目を真正面から射抜いている。


「猫丸の死骸を見たとき、千歳、君は笑ったね。むしろ安心してるみたいにさ。逝けたことを、よかったね、って見送ってるように見えたんだ。違う?」

「…………」

「あ、別に責めてるんじゃないよ。蔑むわけでもない。きっと恐れる必要もない。俺はただ、本当のことが——本当の本当の君の言葉が、聴きたいだけなんだ」


 頭の中の議員たちが押し黙っている。こんな時ばかり、皆して顔を見合わせるばかりで、誰も何も対案を出さないでいる。


 代わりに、振り子のついた大きな古時計の刻の針が、錆びついた分針が、今にも次を刻みたく震え出して、埃をこぼしながら鳴動するのを感じた。


 針が進んでしまう……。


 猿彦の手は気付けば私の手を握るように押さえている。いつ落としたのか、端末は既にリノリウムの床の上に転がり、私の手はただ彼のしなやかな指に包まれている。


 そうして触れた部分の体温が同調し始める。互いの想いが滲むように、ぬるま湯に熱湯が注がれて、冷たい部分と熱い部分が、やがて中で等しく釣り合っていくように。


 ご存知のメーターが数値を跳ね上げ、シンクロ率が見る間にも上がっていっているのだ。


 上がりきった先は、臨界に達してしまったら、さて、どうなる——?


 私はそれを知っている。


 だから。

 震える。

 ずっと昔から。

 失う恐怖と、抑えきれない好奇心の背反に。


 お父さんと別れなくてはならなくなった、あの日から。


 私は知っていたのだ。


 どっちもは選べない。

 選択とはどちらかを失うことだ。


 そして、さながら生き物は、産まれた時に皆等しく時限爆弾を持たされているようなものだと。


 時計はいつでも、誰の胸の中にもあって、いつか止まるその時に向かって進み続けている。

 その数を増やすことはできない。

 その針を止めることもできない。

 誰も今には留まれない。


 それがどんなに尊く、自分の求める安らぎであったとしても、自分を苛むばかりの自罰的なものであったとしても。


 いずれ必ず——何もかも、なくなる、

 だれもかれもいつかは死ぬんだから。


 そして私のそれはきっと、一般的に思われているよりも、ずっと短いだろうから。


 意識して針の進みを邪魔して遅らせ、そうしてさも止まっているかのようにしていなければ、すぐに針は回り切ってしまう。


 すぐにも燃え尽きてしまう蝋燭のようなもの、だから、防波堤のようにちらっと柴田の顔が浮かんだ。


 さっきの携帯から顔を上げたときの惚けた顔が、さりとて今になってひどく懐かしく、恋しい。私は目を瞑るように救助を乞う。けれど、


(ごめん、柴田……私……)


 それに私は抗えない。

 ガラス細工が砕かれるように。

 過ぎてしまえば、デジャヴに伴う感傷のように、それはいともあっけなく失せるものだった。

 そして戻らない。

 次の瞬間には忘れている。

 今しがたカットした節のように。

 それを大切にしていた切なる想いも、

 それに縋っていた一秒前の自分も、気がつけば皆、忘れている。


 人の頭脳はそんな残酷な連続でできている。

 好奇心が勝った。


 錆びついた針が次の時間を刻んで、溜まりに溜まった埃を落として、盛大な反面、無慈悲に濁った鐘の音が鳴り響く。


 私は頷いていた。


 猿彦は誕生日プレゼントの包み紙を剥がす時の子供のような、見るも無邪気な顔をして言う。


「やっぱり……そうだった。そうだったんだ——」


 泣いているのかと思うくらい、猿彦は笑うと、突然、ぎゅっと、私を抱きしめた。


 まるで……そう、百年、氷の中に閉ざされていた私を、まさに今、解放して、再会に打ち震えるように——。


 動き出した刻の中で、互いの心臓の鼓動を確かめるように。


 代わりに、砕けた氷は溶けて消え去り、もう見えない。


 それを寂しい——と思うのに、なぜそう思うのかを私はもう、思い出すことができない。


 それが、哀しい——だけだった。


 代わりに別のものを埋めたくなった。


「俺も同じだよ。初めからこの世界で生きていこうなんて思っちゃいない。いつだってその機会を探している。できれば都合の良い事故なり何かが起きればいいといつも思っている……機会さえあれば……そう、今日これからだって構いやしない——千歳」


 猿彦は一度身体を離して、私の顔を見る。


 意図を察してなお、私は抗わない。


 早く埋めてほしいとさえ思った。


 私の肩を持ち、ふと気付いたときには、もう、彼の唇は、私の唇に宛てがわれていた。


 押し当てられていた。


 私のファーストキスは、そうしてきっと、失った何かの味がした。


 喪失と、代わりに埋まっていく別の何か。


 おまけにもう一押し、食むような動きを加えてから、猿彦は再度顔を離して続けた。


「——死にたい? それとも殺してくれる? おれはどちらでも構わない。おれは千歳、君を——」


 汗の代わりに、涙が垂れて、下着に染み込んでいくのが分かった。


「——殺したい」


 一年前のあの日のように。




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