8(終). 『またあの木の下で』
夕風が——、
締め切ったはずの教室に入ってきていた。
まるで悪い夢でも見ていたかのように、何か、記憶が途切れ途切れで、今、突然目が覚めたような気さえする。
私がその一瞬に、改めて辺りを見回すと、足元にはつい先程殴り倒されたばかりの高二男子が目に入った。
甲斐田だ。
一応、私と付き合っている男の子。
そして、目の前には、結斗がいる。
なぜかその一瞬——、
懐かしさが、愛くるしさが一息に込み上げて、私は既に泣きそうにさえなってしまった。
見間違えるはずもない。
彼は生まれながらに宿命付けられた私の半身のようなものだった。
しかし苦悶の表情を浮かべて、彼は今にも別れを切り出しそうだった。いや、その決意をしているのだ。
私には分かる。彼が何を言おうとしているのか。何を考えているのか。見てきたかのように、はっきりと分かる。
頭の中で女性の声がした。
『いつか必ず来るその時——そこに、彼がいると思う。彼が、もう一度水瀬さんの中の眠ったお姫様を起こしにくる』
樹本先生だ。
小四の時、小学校の教室で聞かされた話だ。
まだ五、六年前のことでも、あまりに懐かしすぎるように思われて、私はまた震える。
気がつけば、指は硬く拳を握り込んでいた。
『勇気を出すんだよ』
分かってます。全部。
でも、あなたはその後に起こったことを知らないから。
『自分からお姫様を起こすの』
また繰り返すことになる。きっと。
結斗は小六の時、そうして私の父と刃傷沙汰をやらかしている。
小五の時もそう。
私といることで、彼は死に近くなる。
父が私を蝕んだように、今度は結斗が私によって蝕まれていってしまう。
それならいっそのこと、と心中を試みようとさえしてしまった。
私が不甲斐ないばかりに、彼はこれから先、何度だって死地に追いやられるだろう。
私は、私のせいで傷つく結斗をもう見ていられない。
だから——、
だから?
私の精神の内奥にあるコックピットから、必死に戸を叩く音が聞こえた。出して! 出して! と呼びかけているようだ。
私は後ろ髪引かれるように、拳を胸に当てた。
でも……やっぱり。
私は……。
わたしは……っ。
私はコックピットの戸を背にしたまま、閉め切って、佇む。
結斗の口が開く。
その刹那は奇妙な走馬灯のように、永遠のように、一瞬のように、幾重にも感じられた。
結斗は安らかな表情をしていた。
「そっか。もう、いいんだな?」
いやだよ。
だけど、分かってるでしょ。
「俺がいなくても。お前は、やっていける」
本当は私だっていやだよ。
だけど、しょうがないじゃん。
産まれた以上、いつかは必ず死ぬんだ。
それこそ遅いか、早いかだけだ。
私はそれに堪えられない。
「お前は俺のものじゃないから。俺は……ずっと、そうであってほしかったけどさ」
愛おしければ愛おしいほど、離別や拒絶が堪え難くなる。だから無関心になる。無関心のふりをする。誰もがそうやって自分の心を守ってる。それでも堪えられるような適度な距離感を保つことを、そんな相手を選ぶことを、学ぶようになる。そうやって弱い大人になる。
「決めるのは、お前だ。今、お前が決めろ」
私だって結斗だって特別じゃない。
予定調和の物語の中でハッピーエンドを迎えて、そこで幸せなまま終われる主人公でもヒロインでもなくて、ここはいつも無慈悲な現実だから。って——そういって諦めるんだ。
私は拳を握りしめた。
でも。
でも——、
どうせ死ぬならさ。
一年だって、十年だって、五十年だって、自分の好きにやって死んだ方が良くない?
そんなもんだろ、人生なんて。
それで生きてりゃまるもうけ。死んだつもりになって、次があるなら、拾い物。そうやってその一瞬一瞬に、わがままに生きていきたかったんじゃないのか。
私は。
どうしたいんだ——。
小さく空いたコックピットの隙間から、子供の私がどうにか顔だけ覗かせて、私に微笑みかけた。
まるで楽しい悪事を閃いた時のような、無邪気で悪意に満ちた悪い表情をしている。そして口を開いた。
「あ——」
「でも、悪い……やっぱ無理だわ」
しかし、結斗の方が先だった。
結斗は突然、長くため息をついて脱力したかと思うと、頭をかきむしった。昨日、シャンプーしなかったのかってくらい。
「やっぱガラじゃねえわ。こういうの。いつからかな——、大人ぶって、メンヘラぶって、そんなんなんにもカッコよくなんかねーのに、これでいいんだってさ……」
結斗はそう言うと、子供の私と同じように、にまっと微笑みかけた。
「俺も、どうかしてたな?」
私は期待に頬が綻びかける。
「結斗……?」
「いいか? 後で絶対、俺のことも殴れよ? 約束。だから、織姫。歯、食いしばれ」
結斗は忙しく、次はきりっと真面目な顔して言った。
私は何か言いかけて、でも、彼の言う通りに小さく頷くと、少し顎をあげて、瞼を閉じ、顔を差し出した。
「そのままでいろ。加減はするが、少し、強くいく」
私が再度頷いて、数秒。——バチッと、電撃が走ったかのような破裂音が鼓膜を強く打って、その衝撃に目が眩んだ。
「んむっ……くぅー……」
"しっぺ"をした時のような張り詰めた痛みがじんと頬全体に広がって、次第に熱く感じられてくる。
随分と久しぶりのように感じられた。
痛みも、刺激も。
でもそれが私の神経に速やかな電子の流れを促す。
インパルスがようやくやり取りを再開したかのように、強張った関節や肌が軽やかに動く。
視界が、思考が、クリアになる。
足元で見ていた甲斐田が何か言う。
けど、これでいいのだ。
これが私のやる気スイッチだった。
目の前のことを忘れて、見ないようにして、気付けば私自身もそしてまた弱気に足を掬われていた。そういう時もある。周囲の集合無意識に囚われて自分を見失うこともある。自分が信じられなくなって、自分の中の可能性も閉じ込めて、塞ぎ込んでしまうこともある。
でも、自分の代わりに、それを払ってくれる人もきちんといるから——。
あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身だ。
私が倒すべき最大の敵はいつも、そんな私自身だった。
結斗は、私の代わりにその影を屠るように、そうして最後の一撃を盛大に私の頬に加えると、「織姫……」そう私の名を呼んで……もう何年振りになるだろう、ぐっと、私の身体を引き寄せた——。
一億年の沈黙をぶちやぶり、記憶は再統合されて、虹のように未来への架け橋を作った。
あとはいつだって、そう、その光を信じて、勇気を出すだけだった。
結斗が、私を抱きしめていた。
回した腕の内側に、ぐっと、まだ奮い起こすように、私の肩を引き寄せて言った。
「目、覚めたかよ」
くぐもった声が振動としても、私の内部に伝わる。
「特別じゃない? 主人公にもヒロインにもなれないって……何言ってんの? お前、ずっとお姫様じゃんよ」
「……そうだよ」
「約束だってしたじゃん、エイリアンになっても一緒にいてくれるって。もっとわがまま言えよ。周りを振り回せ。それでこそお前だろうが……」
「そうだよ……」
「お前は俺のことが好きなんだよ。好きで好きでしょうがないんだよ。諦めたら人生めちゃくちゃになるくらいもう好きなんだよ!! だから、そんなになるまで思い詰めんだろ……」
「そうだよ……!!」
「だったら、"普通"の方をとっとと諦めろ」
結斗はきつく、腕に力を込めながら。
「お前の人生は俺のものだ。俺の人生はお前のものだ。"一緒に、死んでくれ"」
「……っ」
「織姫。好きだ」
何を迷っていたんだろう。
恐れていたんだろう。
その氷を砕く手段も、代わりに砕いてくれる人も、私はずっと手にしていたのに。
あまりにも長い間、永い刻を、彷徨い続けていた気がする。
おくるみを剥がされた赤子のように。
閉じたハッチが開け放たれるように。
連綿と続く未来に架け橋を築くように。
灰色の世界がその一瞬に千紫万紅の感情を乗せて色づいたかのように、今は世界の全てが七色に輝いて見えた——。
匂いも感じる。
教室の匂い。机の匂い。結斗の匂い。
全部が、全感覚が、百万年の眠りから覚めたように、鮮やかだった。
目に沁みて、痛いくらいに。
でも、でも——。
わがままで愚図る子供のように私は言った。
「わた……わたし、結斗を困らせる……」
「そんなんお互い様だ」
「……先に死なれたら生きていけない……」
「ならすぐ追ってこいよ」
「あ……」
「俺だって一人残していくのは嫌だ。俺の代わりを見つけてソイツと幸せに——なんて綺麗事もいやだ。だから、そうなったら……そんときゃ、もうとっとと生まれ変わってさ、また一から出逢いなおせばいいだろ」
結斗は私の肩を持って、一度身体を離すと、首を傾げるようにして続けた。
「だって、この世はずっと繰り返してんだから。今起きてることは未来でも必ず起こる。だから今世で死に別れたって、産まれてくれば、またあの木の下で必ず会える。何度だって会いに行くから」
「そうだ……そうだったね……」
開いたハッチの脇に座り込んで顔を覆い、嗚咽を漏らして泣きじゃくる私の肩に手を置いて、中から出てきたお姫様の私が悪戯っぽく微笑んだ。
今度は私から結斗を抱きしめていた。首に腕を回し、すがりつくようにして。
「結斗、好き……大好き。そして世界が終わっても、私をずっと連れてってください——」
ノリのいい同級生の細やかな歓声と拍手が鳴った。
いつの間にか出来ていた教室の入り口のギャラリーからだ。
中には鼻をすする子もいる。
隣の女子が吹き出して言う。
「え……なんで、あんた……」
「分からん。なんかもらった……けどなんか、めっちゃ感動的じゃない?」
「そだけど……」
「あんな風に笑う水瀬さん、初めて見た。まるで子供みたい……それから、あと、結婚式みたい。てぇてぇよ、これ……」
しばらく私たちはそうして、教室の窓ぎわで周囲の全てを無視して抱きしめあっていた。
辿ってきた永遠分を取り戻すように。
ずっとずっと。
長いこと。
「ねぇ。もう一つ聞いていい?」
「なに?」
「麻倉さんもそうだけど、なんで結斗は諦めないの。私だって無理だったのに」
「そんなの簡単だろ」
「え、わからない」
「簡単だよ。有名な少年漫画でも言うだろ」
結斗は言った。
「諦めたら、そこで試合終了だよって。人ってさ、そんくらいのもんで簡単に死ぬんだよ。だから——」
その一言を。
意外なことに、一部始終を刮目して見ていた高校の教師陣は嗜めるくらいで、私たちのことを無闇に叱りつけたり、手放したりすることはなかった。
甲斐田先輩には可哀想なことをしたけど、ボンボンで顔は良いのだし、そもそも私じゃなくても、もっと見合った子がすぐにも付くことだろう。
その日、結斗は小六の時のように再び父と対面して、今度は打って変わって頭を下げ続けた。
往年のドラマのような光景。
娘さんを俺にくださいという彼氏。
それを冷めた態度で振り払う父。食い下がる娘が私。
次第に根負けしたように、父が「もう好きにしろ。お前のような娘は知らん。出て行け。二度と敷居を跨ぐな。俺たちを頼るな」などと言われて、私は嬉々としてこれをレコーダーで録音すると、意気揚々と四十秒で荷物をまとめて、家を飛び出した。
そして今度は私が早百合さんに頭を下げながら、結斗の家に転がり込んだ。
未成年者略取は親告罪だ。まずあの二人が訴えなければ起訴はできない。事件には発展しない。そして保護者の同意が必要だが、前述のセリフがあれば反論には足りうるだろうと考えたのだ。私も父の横暴について証言したっていい。何なら児童相談所にこの足で駆け込んで虐待容疑で逆に訴えてやってもいい。利用できるものはなんでも利用してやるつもりだった。
一方で私はまたしても早百合さん、それから結斗のお父さん、海斗さんの厄介になることになったが、既に嫁入りしているつもりで日々の家事を手伝い、献身的に応えるようにした。
明くる日に私の母がやってきて、早百合さんと話していたことも知っている。
よくあることではないが、たまにならあることではあるかもしれない。
元々母親同士は仲が良かったのが幸いしたということもあって、私たちの仲はそうして、半ばなし崩し的に認めざるを得ない方向に固まっていったのだった。
成人は満十八歳。つまり、十八歳の誕生日から。
私たちは二年とちょっと、そうして抗い続けて、己の人生を取り戻していった。
◯
成就した恋ほど語るに値しないものはない。
ということは成就するまでが物語の役目なのだろうと思う。
かくして"私たち"の物語の幕は下りようとしている。
私たちはそうして万年はおろか億年続いた初恋の相手を勝ち取った。
一旦は傲慢な神様たる親の手で引き裂かれ、広大な天の河の両端に遮られてしまったかのように思われても、最後には、そうして。
この"私たち"が辿り着いた未来において、麻倉さんはその後、女優になった。
十代の頃は、ふと飯島と再会して、しばしば付き合っていたとか噂されていたが、それからどうなったかは読者の皆様の想像にお任せしたい。
私たちは成人すると、近場に移り住んで、そこでしばらくお金を貯め、大学では酪農を学び、留学経験も経て、日本に帰ってくるや田舎に移って、小規模な牧場を興した。日々のトラブルに没頭しながら。
でも構わない。
何だっていい。
きっと私は初めから恵まれていた。
何をしたいかでも、
どこにいたいかでもなく、
個人的に最も大切な要素だと思う、
誰といたいか。
それだけはもう、子供の頃から見つけられていたから。
その人といられるなら。
その一瞬に駆けられたのだから。
私は幸せだった。
結斗といられたあの生涯は、何万回でも繰り返したくなる宝物になった。
そして願わくば、あなたもそうならんことを。
まだ成っていないのなら、今一度、お姫様を起こして、たった一つわがままを振りかざし、幸福の永劫回帰に到達せしめんことを、望むばかりである。
一年でも、十年でも、五十年生きたって、変わらない。
命はその一瞬を煌めけばそれだけでいい——、
と、私は思うのだ。




