7. 『そして世界の終わる日に・後』
事実を受けて、解釈して、どうしたいか。
いつだってそれだけが"私"を定める、唯一にして、変幻自在の内なる神だ。
私は、いやだ。
そんな世界。
そんな答え。
ウルゴスは狂気に乱舞しながらコンソールに指を走らせると、スクリプトを起動した——、つもりだったろう。
しかし、何も起こらない——、どころか、実際のところ、その指は拡張現実コンソールの透明なモニターを貫通して、触れられてさえいなかった。
「な——え。どうして……」
私は銃口を下げていた。
マスターもいないと分かった。
元々マスターがいようといなかろうと、こうするつもりで動いていたのだが——。
私にウルゴスは殺せないし、そうするくらいなら、私にそうさせてくる他の全ての要素を殺す。今度こそ。
例えそれで、"私たち"自身がいなくなったとしても、その方がずっと良い。
ウルゴスはそれらの原因が、落ち着き払ったままの私にあると間もなく見抜いて、私の肩を掴みながら、激しく揺さぶり、詰め寄った。
その腕はまだ物理的な干渉を保っている。コンソールに触れられないのは、外部のシステムの方から書き換わっていっているからだ。
しかし、間もなく、それも消えるだろう。
きっとこの一連の時系列——この宇宙の意思によって、"私たち"はいなかったものとされる。
あるいは突然現れた別の存在が、あたかもそれまで"私たち"自身であったかのように立ち替わり、代わりに"私たち"のふりをし続けていくだろう。
それもまた"私たち"が義体に魂を移す意味、そしてアンドロイドの使命である。
ゆくゆくはウルゴスのやろうとしたように、そしてこの世は、ヒトのいない、ヒトのふりをしたアンドロイドの世界に、誰も気付かず変じる宿命なのかもしれない。
ともかく、私は微笑んだ。結斗がうまくやったのだと確信して——。
「なにをした?! バオト?!」
私の両肩を掴むウルゴスの目が驚愕に見開かれた。
「いや……あ、違う……お前は——」
「そう。ここにいる私はまさしく義体——、追いつけないことが分かったから、先に外の義体の一つだけリモートで起こしたんだ。そして、貴方をここで足止めさせていた。本体はまだ自室のカプセル内にいる。私の魂は過去の二人の記憶を夢見てる。彼が、その運命を変えるまで——」
「バカな?! そ、そんなことしたら……因果が変わって、この時空がめちゃくちゃに——!!」
「元々滅ぼす気だったくせに」
「僕は、ひと握りは残すつもりだった……けど、君がやっているのは……重大な歴史改変だ!! 時間そのものが再構成される。この未来が……世界がなくなる!! 当事者である僕らは、戻ってこられなくなるぞ!!」
「いいよ。そしてあなたを救えるなら——。千歳だって、結斗だって同じことを言うと思う。だって、いつだって、そう……一番したいことは……助けたいのは、その時の一瞬の自分なんだ。できなかった自分、うまく話せなかった自分、勇気を出せなかった自分、あの時ああしていれば、こうしていれば……って、後になってあの手この手を思いついて、いつも、何度だって後悔する。松原 千歳は柴田 勝之と上手くいったよ。けど、その心にはいつも華藤 猿彦のことがあった。助けられなかった猿彦のことが、離れてしまった父のことが。水瀬 織姫も白上 結斗も、その時になってわがままに振る舞えなかった自分をいつまでも責め苛んで、互いに求め合いながらも、自分の人生をめちゃくちゃにしてしまった。でも、"その一瞬"は、その時にしかないんだよ。過ぎてしまったらもう二度と戻れないんだよ。そこから先、どれだけ時間をめぐったって、輪廻を繰り返したって、あの人生のあの日、あのタイミングをやり直すことだけはどうしたってできないんだよ!! 大人になったら出来るようになる? 大人になったら、もっと強くなったら、頭が良かったら、お金があったら——違うっ!! それが手に入った時にはもう、本当に守りたいものなんかないんだよ。なくなって、どうしようもないところへ行ってしまっているんだ。未来なんていつだって紛い物だ……"今"は力を溜める時期? 違うよ……一番、命をかけなきゃいけない時期でしょ。魂を燃やさなきゃいけない時でしょ。そうやって失敗することもある、けど、それはその時にしかできない誇らしい失敗なんだ!! そうやって、いつもその時あるカードで、その時の自分にしか変えられない、その時の自分がやるしかなかったのに!! そうやって後悔させるようなことを実しやかに囁く毒人間どもがいるから!! 皆、間違えるんだ!! 今を変えられない奴に、未来なんか変わってくれるもんか!! 大切なのは過去でも未来でもない、今だったのに、私たちはいつもそのことを忘れて、未来のことや明日のためにって、そんな綺麗事に生きてしまって、結局は全てを台無ししてきた。さっきウルゴスが言った通りだ。今日生きることを無視した明日のことなんて、私たち、考えなくていいんだよ。私はそうさせたくない。二度とそんな不幸な連鎖に入ってほしくない。それはこうして一度、果てまで来たからこそ分かることだから。あなたにはそうなったままいてほしくない。そのためなら、こんな未来いらない。こんな未来なんか、どうでもいいよ。帰ってこれなくなったって、また一日一日続けて、いつか戻ってくるから。必ず、もっと幸福に満ちた自分たちになって!!」
「バオト……君……きみは——」
いつも達観したり、静観したり、
そんないつものウルゴスからするとまるで別人のような、初めて見る苦悶の表情でウルゴスは涙した。
私は変わらず微笑む。
けれど、その視界も同じく気づけば滲んでいた。
綺麗に筋を描いてこぼれた涙は、しかしもう、地面を待たずに宙で消えていく。
「私にその覚悟をくれたのが、あなたの絵だった——織姫ちゃん、届いてたんだよ。あなたの絵は未来に届いてた」
「——なんてことを」
無機物にも魂は宿る。
もしかしたら、魂のないものなどどこにもないのかもしれない。
蝶は人には見えない色を見分けて花の蜜を探り当てるように。その辺の石ころにだって、机にだって、椅子にだって、人には見えない、宝石のように鮮やかな記憶が宿っているかもしれない。
人間だけだろう。結局自分だけの認識でしかないものをまるで完璧であるかのように錯覚している愚かな生き物は。それが人の幼稚さだ。動物は誰もが自分にはできないことを知っている。足りないものがあることを知っている。自分が全知全能ではないことを知っている。だから、一日一日に学び、その生き様は逞しい。
人間だけが死ぬまで幼稚なままだ。
「ウルゴスは哀しいと言った。けど、私にはどうしてもそうは思えなかった。あの絵は願いであり、祝福だったから。だから、笑顔にしたかったんだよ。『私は幸せだった。それでも、結斗といられたあの十数年間が、私の生涯の宝物だった。——しかし願わくば、あなたがそうならぬことを』あなたが生まれ変わる魂を通じて届けたかったのは、人類を滅ぼそうとする憎しみなんかじゃない……いくら余所行きの仮面で覆い被せようとしても、哀しみで産め尽くそうとしても、怒りで塗りたくろうとしても、それだけはできなかった。その心だけは偽れなかった。あなたが届けたかったのは、そして世界の終わりを食い止めようとしてたのは——、それでも一人の人間を一途に想い続けてしまう、一人の少女の過ぎた初恋だったんだ」
ブランコ。港の見える公園。崖。舞い上がる白詰草。願い事。犬。野良猫。結ばれた小指。ランプ。ピアノ。カッター。自転車、田園、電信柱。夏茜。入道雲。繋いだ手。バス停の看板。木造の待合所。碧い丘。紺碧の空。蜃気楼。グラウンド。校舎。影の差した印刷室。朝礼台。後ろ姿。水槽。モニタリング。あなたの顔。浮かぶ街。五十億のカプセル。ギャラリー。腕に包まれた私。後ろ姿……。
圧縮されたこの時系列の記憶の一部が、一息に私の心に雪崩れ込んだ。
"私"という意識が産まれてから——幾星霜が過ぎたことだろう。
百年とか二百年とか、そんな単位ではないほどの永い、悠久に思える時間が経っていた。
その刻の、永遠の氷が、今、砕かれる。
私はウルゴスの方へ進み出ると、その身体を強く抱きしめた。
万年、氷の中に閉ざされていた身体を受け止めるように。
動き出した刻の中で、互いの心臓を確かめるように。
時計の針の進む音が。
互いの心臓の鼓動が。
はっきりと今は聞こえる。
あゝ、今、産まれたのだ。
私は今、やっと、生きている。
限りある時間の中でこそ、一瞬に煌めく命の中にいる。
コンソールはもう消えている。四肢も消えつつある。
流石に今度こそ、宇宙の因果は"私たち"を見逃さなかったのだろう。"私たち"であった意識は、分岐を隔てた過去に取り残されて、この未来には二度と帰ってこられない。それでも、この未来にいる私は、私だけだから、触れられるうちにウルゴスの温もりを覚えておきたかった。
これでいい。
この一瞬が、"私"なんだ——。
もう後悔はない。
ウルゴスは私にしがみつくようにして言う。なんで? なんで?! と何度も繰り返した。
「少なくともここには永遠があったのに——そしてまた繰り返すのか? 君は、この何千年、何万年もの軌跡を?!」
「そうだよ。ウルゴス。——でも、それは考え方次第だよ。永遠に繰り返し続けるなら、それが何万回でも繰り返したくなるような生涯にすればいい」
「な……」
指先が、もう透過して見えた。
まだ消えるな。
あと数秒でいい。
神様。
どうか。
優しい神様であってください。
感覚が消えていく。
意識が薄れていく。
この世界が。
この世界に連なる"私"が消えていく。
初めから何もなかったかのように置き換わっていく。
私は残る頭部を、額を、ウルゴスと突き合わせて祈り、言った。
「私はね、ウルゴス。幸せだったよ。あなたといられたこの未来でさえ——」
"私を見つけてくれて、ありがとう。大好きでした"。
その一言を。




