6. 『拘束具と匂いフェチ』
「やる気ースイッチ、ミーのはどこにあるんだろー。みつけーてーおくれよ、ミーだけのやる気スイッチー」
結局、私はその日一日ダウナーな気分を払拭できず、夕闇に沈むスクールゾーンを今朝とは逆向きに進みながら、ぼんやりと歌を口ずさんでいると、これまた同じく自転車の音が聞こえて、声がかかる。
私はもう分かっているので、何も期待しないし、そんなことで今更不機嫌になったり、情緒を不安定にもさせないで待ち構えた。
「ひっでぇ歌詞……」
おまけに私は音痴である。私がカラオケでマイクを握ると、決まって皆、目を合わさず、すごく良い笑顔をしだし、歌い終わるやいなやスイーツを一口くれるので、流石に最近気付いた。
やはりそこにいるのは、柴田であった。
私はもうはやその顔面に敷き詰められた無数のニキビを確認することもなく、切り返す。
「ほっとけ。野球部は? サボりか?」
「どうせあと数ヶ月もねーし、三年は勉強漬けになるし、したら遊べるの今しかねーじゃん」
「……このダメ男が。やる気スイッチ探さないとダメじゃん」
「お前もな」
「キラキラ女子を殺る気ならいつでもあるんですけどね……(苦笑)」
けれども、その意見には全面的に同意である。
高二の夏までとはよく言ったもので、高三というのは実質、あってないようなものということを、私は従兄弟の姉を見て、よく存じ上げている。戦後に残る三月のたった数日くらいが、高校生活における最後の楽しみになるということも、それも人によっては持株の暴落した投資家のごとく、虚無と絶望のうちに奪い去られてしまうことも。
柴田は人の断りもなく、そうするのが当然というように器用に車速を合わせて、私に並んでいた。
やれやれ、私も罪な女だなぁ……なんて、内心で小鼻を広げてみて、虚しく、
「あのさ、前から思ってたんだけど」
「んー?」
私は唐突に尋ねた。
「柴田ってさ、私のどこが好きなの?」
「…………」
ききっと音を鳴らすや、自転車のタイヤがアイススケート選手のエッジのごとくぴたりとその場に制止する。
柴田がふいに私を見下ろした。
自転車の分、四十五度より鋭く上げた私の視線と交差して約三秒、また何事もなく、前を向いてペダルを漕ぎ出す。
返答にこれほどまでの時間を要する深淵な命題を与えてしまったようである……なので、私は再度魔界の瘴気を身にまとい、口から漏れ、漂わせて続けた。
「こんな……胸元から男子の下半身の匂いがする女のどこが……」
「……はぁ?」
「あと耳の裏からは、そのうち夏場の電車内の匂いがするようになるし……」
柴田はひきつった笑みを浮かべながら、続けた。
「いや、しねーだろ……そんなん。どうなってんだよ、お前の身体は」
私の初恋はとっくの昔にカビ付きの記憶で終わっているのだけれども、きっとコイツの初恋は罪な私であって、さっそくみほちの言ってた前世の恋人発言は外れていることになる。ざまあみろ、ファッキンみほち。
加えて、目の前のサボり魔の反応がおかしくて、私はからからと揶揄うように笑いながら続けた。
「てか、まだ好きなの? ……あれから? ずっと?」
「……まぁな。だから、ほら……別に、彼女とか作ってねぇだろ? 童貞だって守ってるし」
「守るもんじゃないだろ、それは」
「言っとくけど、告白だってされてんだぜ?」
なんだか逆である。私の方が無神経な男の様で、その時の柴田は何なら今朝のみほちよりもずっとしおらしい。
「健気だねぇ。こんな女に……。なんで? そんなに好き? おっぺぇか? やっぱおっぺぇがええのんか?」
「そんなんじゃねぇよ! 例え小さかったとしても、その小ささを愛でる度量はある!」
「へぇ……じゃ、なんで?」
「……わかんねぇ」
「えぇ……」
「けど、お前といると面白い。見てて飽きない。楽。……そんなもんじゃねえの、好きとかって」
「……ま、それは正直いって私もそうなんだけどさ。でもそれって……」
別に友達で良くね?
と、喉から出かかった言葉を私は呑み込んだ。
柴田を無闇に傷付けるのは本意ではない。
けれど、面白い……なんて、私からするとチャームポイント足り得ない。そんなのは、何なら男だってできることじゃないか。
私じゃなくても、良いことじゃないか。
否、私でなければいけないことなんて、この世にはないのだ。
だから、とっととそんな私のことなんか忘れて、別のいい子を見繕えばいいのだと、思っている。例えば、そう、晴子とか。そして健気なあの子のジェリコの壁を崩してやってほしい。
私がもどかしく言い淀んでいると、柴田は顔をしかめて言った。
「てか、試してみればよくねぇ? そんな悩んでんだったら」
「は?」
柴田は珍しく、急にもじもじとして、歯切れ悪く言った。
「よく分かんねーけど、匂い? そんな気にしてんならさ。それで今日、変だったんだろ? だったら、パッと誰かに嗅いでもらってさ、別に変な匂いしない、って証明すれば、済むことじゃね?」
私はふいに足を止めた。
柴田も自転車を止めた。
夕暮れの通学路を、腰の曲がったおじいさんが、杖をつきながらふるふると通り過ぎていく。
私は身の危険を感じて、とっさに裏拳の準備をしながら、固唾を飲み込む。
狙いは言わずもがな、目だ。
しかし一方、柴田は尚も尤もらしく続けた。
「お前のことだから女子はむしろ信用できなくて、嫌なんだろ? 遠坂もああ見えて、気遣いそうだしな」
遠坂というのは、晴子のファミリーネームだ。遠坂 晴子と言う。
「かといって、そんなこと頼める男子の連れもいない……じゃあ、俺しかいなくね?」
「…………」
「あー、俺なら別に……その、匂いとか気にしねーし。匂ったらはっきり言うし、何ならもし……もし万が一おかしな匂いがしても、それはそれで興奮するから大丈夫っつーか……?」
いきなり何語り出してんだ、この変態。
……と思う一方、柴田がそういうなら、確かにお互いにノーダメージでいられることにも気付いてしまう。Just. Shibata-Me, so Win-Win ?
いやいやそんなに深刻に考えていたことでもなかったのだが、気がつけば、事態はありもしない逼迫さを催して転がり始め、それに応じて私の中の平和主義論者が起立していた。
ピエロのように不気味な笑みを浮かべる愉快犯論者までもが加わり、雑言飛び交い、殴り合いに発展しかねない白熱した討論の末、脳内にガベルの打ち下ろされる小気味良い音が鳴り響いた。
静まり返る堂内で、私の頭の中の議長が判決を下す。
「……そ、マ?」
もはや暗号と化した短縮語で、私は答えた。
◯
私たちは急遽、帰り道を九十度折れ曲がり、近場の公園に赴くと、大通りに面したロッカーの裏側に潜んでいた。
大通りに面しているとはいっても、そこは勾配のある下り坂になっていて、歩道は九十度ほぼ真下に位置し、向かいの歩道、反対車線からは丸見えであったが、そもそもそんな乙女らの秘め事なぞ双眼鏡で観察するような酔狂が運悪く通り掛らないことを祈るばかりの強行である。
私は脳みその代わりにもずくでも詰まったかのように倒錯した頭を抱えながら、ブラウスのボタンに手をかけようとして、ふと踏みとどまった。
「え……やっぱ脱いだ方がいいよね?」
「は?! ……あ、いや、えーと」
かつての犬飼くんのごとく、柴田はあちらこちらに視線を泳がせてから言った。
「見たい。正直」
「はぁ?!」
「いや、てか、ブラウスだったら、それブラウスの匂いになる気がするし、それにどうせ恥ずかしい思いすんだったら……」
「いや、皆まで言うな。……だよね。うん、分かってる」
私は緊張して荒ぶる呼吸を宥めつつ、後ろを向いて、再度ボタンに手をかけ、ぎゅっと目を瞑る。
「……そっち、誰も来てない?」
「来てない」
「あ、ちょっと待って。柴田、やっぱこっち来て」
「はい」
私は柴田を大通り側に立たせて、洗濯物の下着をガードするように、向かいの歩道からの視線をシャットアウトする。
ただし、これでは、私はロッカーと柴田に挟まれる形となって、いざとなったら逃げられないか、あるいは別の何かをしているように見られるかもしれぬが、背に腹はかえられぬ。
「目、閉じて」
「あい」
(あれーなんでこんなことになってんだー?)
私は今度こそ覚悟を決めるともなく、目を回し、狼狽した手つきで第二、第三、そして第四までものハッチを次々に解放していく。
それは私にとって拘束具のようなもの。
内奥に秘められし隠しきれない真実の形態をそれでも締めに締め付けて、不毛の努力のもと、押しとどめておくものなのであった。
白い谷間を形成する薄い水色の下着が、そうして半端に空いたブラウスの隙間から外気に晒されて、私は恥ずかしさのあまり、今一度裾を閉じてしまう。
柴田はこう見えて根が真面目……というか私の言うことは素直に聞く……なので、言われた通り、水中で息を止める子供のように硬く瞼に皺を寄せ、やらんでもいい口まで閉じ、鼻で息をしている。
アホだ。ここにアホがおる、と私はその滑稽な姿を目に焼き付けておくことにする。
改めて、片手で前を留め、片手でその手を掴んで指示する。
「ちょっとしゃがんで」
柴田の手は野球部員だということもあって、もう、いつか触れたお父さんの手のように大きかった。
「うい」
「もう少し」
「うぃー」
丁度いい位置に柴田の頭が来たところで、私は深呼吸をする。
「……あ、あのさ! 絶対! 誰にも、いうなよ……言ったら、アンタ、絶交!! 絶対もう二度と口利かない。いい?」
「分かった。……てか、早めにしてくんない? この体勢さ、膝がきつい……」
柴田は胸の位置に合わせて、膝を屈めた、いわゆる電気椅子に近い姿勢をとっていた。
私は一歩進み出て、ふと思いつく。
緊張で息が苦しく、発言も辿々しくなる。
「あ、待った……私、良いこと思いついた。ねぇ……そのまま目、閉じててよ。いい?」
私は言うが早いか、柴田の鼻先に自分の空いたブラウスの隙間を持っていった。
正気と狂気の狭間で、どこのとも知れず神経に悪寒が走る。
いわく、私は一体、何をしているんだ?
柴田が目を閉じたまま、状況を掴みかねて言った。
「え……なんで?」
「匂い——でしょ? だったら、見なくてもよくね?」
やや沈黙があってから、やや不服そうに目を閉じたままの柴田は言う。
「ここまできたら、ちょっとくらい、よくね?」
「ダメじゃね?」
「頼む」
「見てどうする」
「……ちょっと、分かりません」
コイツは今、嘘をついた。
私だって男子が夜な夜な家族に隠れて、無用にゴミ箱をティッシュで満たすため、何をしているかくらいは知っている。
「はい、嘘ついたからダメ。信用できない」
「分かった。匂いだけでイケるから、俺」
「それもやめろ」
「どっちでもいいから、早く……膝が」
「え、分かんない?」
「は?」
「もうやってる」
「——え」
柴田は呟くと同時、目を開いた。
私は耳まで赤くなる。
「わっ! ちょ! 目開けんなって!」
「や——こ、す——」
幼気な童貞ニキビの権化に、私の胸元は少々刺激が強すぎたらしい、その衝撃は海馬を揺さぶり、彼の言語野に破綻を来させてしまったようだ。
やべぇ、これは、すごすぎる。というところだろうか。
恐るべし、我が乳。
それをいとも容易く翻訳できてしまう私の童貞ニキビに対する理解度はこの際、棚に上げておくことにしよう。
「あーもう、いいから。早く。絶対、触んなよ」
私が堪りかねて言うと、柴田は私の胸の前で、すんすんと鼻を鳴らす。
「え、でも、全然……うん、普通っていうか……普通に洗剤の匂い」
「マ?」
「マジ。何ならもう少しくらい酸っぱくても全然イケるわ……」
「変態……」
それが終わってボタンを付け直した頃、柴田はまた変態なことを言い始める。
「どうせならさ、脇の方も嗅いどいた方がよくね? てか、剃って——」
「……それ以上言ったら、絶交」
「いや、でもマジな話だって。こんな機会、もうないだろ? それとも、気にして、今日みたいにだらだらやってくか?」
「…………」
私の頭の中の議長は、前例と、尤もらしい押しにひどく弱いということが判明したのだった。
いやに真面目ぶって進言する柴田を前にして、気づくと私は、全身の細胞が消失せしめんほどの羞恥心にぷるぷる震えながら、腕を高らかに掲げていた。
例によって柴田がそこに顔を寄せ、すんすんする。
「……ど、どう?」
「こっちも全然、平気。……なんだよ、お前の取り越し苦労じゃん。気にしすぎなんだよ」
むしろどこかがっかりしたような柴田の態度を見ると、言い知れない安堵と愉悦を覚えたうえに頬が綻んでしまう。
例えるなら、お手を覚えた犬を見るような恍惚とした気分だ。
私は腕を下ろして、百年の永きに渡る決闘に終止符をつけたばかりのように肩で大きく息をしていると、柴田が事もなげに尚も言う。
「じゃあ、次は耳の裏か」
「もうやめで!!」
「え?」
「もう無理だから!! 精神がもたない!! ごめんなさい、私、甘く見てた!! びっくりした!! 軽はずみなことを言いました!! こんなことになるなんて、思ってなかったの!!」
改めて帰路に着く頃には、私はどっと疲れ果てて、以前より遥かに深く、海の向こうの大国は国境に位置する大瀑布もかくやと思われるほどの鋭角で項垂れていた。
反面、柴田は自転車から降りて、ソープ帰りの卒業間もない元童貞のごとく悠然と隣を歩いている。
「もう、もうダメだ私……こ、こんなことになるなんて……失敗した失敗した失敗した私は……」
「悪かったって、やりすぎた」
「お嫁に行けない……」
「んなこたないだろ。俺がいるし」
「あーこんな変態、いやじゃー……」
「お似合いだと思うけどな」
柴田は満足そうに笑うのだった。




