17(終). 『そして終わりへと』
明くる日、私は鏡の前だった。手につかまれた一本の頭髪に眩暈がした。
白髪だ。
私に白髪が生えている。
鏡を通してよく見てみれば、張りのなくなり、だらしなく垂れ下がっていく頬に目尻に、額の吹き出物がやたら目についた。
ピークはいつだったのだ?
私は気付かずして、その線を越えてしまっていたに違いない。
人間の適齢寿命は四十一歳。
生きるだけで、刻々《こくこく》と蝕まれていく……。
一度短くなったテロメアは戻らず、それはあたかも思い出さえ食い潰していくのようだった。
あとは、壊れていくだけだ。
所詮、私も人の子。私だって、世界に有象無象に蠢く、一つのモブに過ぎないのだ。
本当に何かを成せると思っていたのか?
ただ幼馴染に甘ったれていただけの子供の自分が。
その発言が、生き様が、誰かの心に届いて、世界が変わるかもしれないなんて……!!
折れる……心が。否、もうとっくに折れていたのだ。
"そんなこと"、うまくいくわけがないとどこかで思っていた。
ずっと昔、私自身で子供の自分を押さえつけた時から。
折れていたのを、そうではないように気丈に見せかけていただけ。
悔しい。
初めての感情かもしれない。
いや、それは激情だ。
今になって、人間のピークの短さが堪らない。
悔しい。
悔しい。
負けたくない。
届かせたいのに。
まだやれる、やっと掴めてきたところなのに。
自分の身体はもう萎びていく。
もう、老いていく。
どれだけせがもうと、どれだけ懇願しようとも、時の針は戻らない。
時間はもうない。
私は気付けば太ももを、あるいは壁を、洗面台を、殴りつけていた。
悔しい。
たまらない。
結局、私は何も成せないまま——!!
何度目かになる自傷行為の暴発——、
のはずが、食い止められていた。
画家の男である。
それが私の傍に立ち、腕を掴んで、呟くように言う。
「何やってるの」
「気分が悪い。失せろ」
男は首を振る。私は腕を振って暴れた。掴まれた腕が使えないなら、反対の手で、足で、頭で、歯で、男を傷付ける。
けれども男は何も言わない。
ただじっと私の暴力を受けて堪える。
なぜ。
そうまでして、私とヤリたいのか。
たったそれだけのために、全身に生傷を作って、こんな八歳も年下の女に四六時中、罵倒されて、悔しくもないのか。
しかし、男がふいに私を抱きしめた。
傷だらけの腕で、あざだらけの腹に、私を抱え込んで言う。
「君は美しい。僕が見てきたどんな芸術よりも、尊く、儚い。それは死によって確立されるものじゃない、生の中でだんだんと壊れていく、人間そのものの有様だからだ。僕はそこに見惚れてやまない。そのためなら僕は何だって耐えられる。——生きろ、織姫。君ほど、人間にふさわしい人は他にいない」
馬鹿かと思った。私は笑う。
「私、あなたの名前さえ覚えていないのに」
「僕の名前なんてさしたる意味はない。僕なんかギャラリーの一人でいいんだ。ただし、特等席で——」
男は私の目元を掬うようにしてから、その指先を見せた。そこには透明な液体が付着している。
いつからか、涙が出ていたようだ。
再び目元に手をやりながら、男は続ける。
「——他の客が知らない部分さえ見ていたい。これだけは譲れない」
あゝ……と気付いた。
そう、馬鹿なのだ。馬鹿でなくては、こんな女に付き合えるはずもない。
コイツもまた、ホモ・サピエンスとしてどこか逸脱している、気狂いなのだと分からされ、私は、心の中でもう遠いあの人の幻影につぶやいた。
ごめん、結斗——。
けれども皮肉なことに、結斗を想って、その人に抱かれることは至上の快楽を伴っていた。
まるでスワッピングでもしているような気にもなった。
結斗も同じ想いで、いやだからこそ余計に、麻倉さんを執拗に抱いただろうその様が、容易に目に浮かぶ。そう思うと、彼と同じところに行けた気がして、嬉しくも思ったのだ。
あとにくる痛烈な後悔さえ、余興に思えた。
どうにか単位を取得し、形ばかりの卒論を整えて、一年遅れで大学を卒業すると、私は事実婚というようにその画家の部屋に転がり込んだ。
アトリエで手伝いをしつつ、自分の絵を手がける日々が数年続いて、それでもいいかと思った時もあった——が、突然湧きあがった吐き気が私を鏡の前に押し戻した。
それは身籠っている、という事実の確認でもあったし、その数年、溜め込んだ違和感の発露でもあった。
本当にこれでよかったのか?
そして産まれた子供を、私は果たして、自分が望んでいた親のように、愛せるのだろうか。
無理だ、絶対に無理だ。
その子が成長するたび、そしてこの男に似てくるたび、私はきっと憎悪する。悔やむ。私は、結斗の幻影をまた追い求めて、彷徨ってしまうに違いない。今度はもっと下劣で淫猥な行為に走るかもしれない。
なぜならその子は、最も身近で、私を常に監視するようにまとわりついて離れない、悪魔のような、私の人生に彫られた刺青、そのものなのだから。
私に似てくれればいい?
……そうかもしれない。メンデルの法則ではどうだったか。その確率は如何程になるか、私は大学を離れて鈍くなった頭で必死に計算するも、曖昧な定義しか浮かんでこなくなっていた。
違う……私が子供を連れている、というその事実が、紛れもない結斗以外のだれかと愛し合った証明じゃないか。
潔癖がすぎると思うかもしれない。
けど、私がこの世で最も嫌なものが、そうした人間の軽薄さなのだ。
まだ間に合う……。
私はそうなりたくなかった。
あの時のように、今度こそ、自分で自分を押さえつける気にはもう、ならなかった。
私からこの子にかけられる愛があるとするならば、それが、宿っていたという事実すら消し去ることだ。
私は完成間近の絵をキャンパスに置いたまま、アトリエを飛び出した。
◯
私は最後に見ておくことにした。
思い出を抱きしめるように。
その事実だけが、いつも私を慰めてくれたものだから。
途中誰かに声をかけられた気がしたが、ちらとみると顔見知りでもなかったので無視し、結斗と訪れた場所を一通り見て回って、辿り着いたのは、あの海辺の公園の果ての空き地。
そこだけまるであの日に帰ったように、何も変わっていなかった。
もしかしたら本当に時間が進んでいないのでは、と錯覚するほど、辺りに散らばる雑草の背丈さえおなじだった。
そこから見える海原も、木々の間に開けた夜空も、あの日のままだ。
崖側に立ち、ふと隣を見ると女の子がいた。
私を見て可愛らしく微笑むと、女の子は言う。
女の子は気づいている。
汚れ切ってしまった私。
残骸もないほどに、醜く落ちぶれてしまった私に。
けれど、困ったようにそうして笑って、言うのだ。
大丈夫。
寂しくないよ。
私が一緒にいる。
お姫様の私だけは、いつまでも、あなたと一緒にいてあげられる。
「本当にそうだったね。今までありがとう、織姫ちゃん。ごめんね。私のようになってほしくないんだよ。わかってくれるよね——」
やはり、私は産まれるべきではなかった。
けれどもそのことを忘れて、私はこうしてしまうのだと思う。
きっと、何度生まれ変わっても。
その時々に応じて、もっと早まるかもしれない。
死にたがりの恋人となって、あなたの前に現れてしまうに違いない。
汚れ切った大人の私と、お姫様の私。
どちらがどちらか、わたしにはもう分からなかった。
わたしたちは手をつなぐと、足を一歩前に踏み出した。
————。
それはモニターで眺める、というよりも、もう記憶の追体験に等しい。
"私たち"は、既にそうして脳内に直接映像を流し込み、神経を通して体験する技術を手に入れていた。
水瀬 織姫が港の公園にある崖から転落して、海面に激突し、その意識が消失すると、私は戻ってきて、カプセルの中で目を覚ました。
大人一人分の人体をすっぽりと納められて尚、余裕があるくらいの、卵状の装置が横向きに置かれていて、上向にぱかっと上半分の殻が持ち上げられて、その中で私は起き上がる。
私は殻の端を跨いで、フローリングに素足で上がった。
卵の内部に浸された水溶液が、素足を伝って、床に散らばり、間もなく溶け込むように消えていく。
10m×20m×20mほどの直方体内部には、一見するとその卵型装置の他には何もなかったが、私が手をかざすとタオルが出現し、それで持って身体を拭き終える頃には、空間に突然クロゼットの竿が浮かび上がって、衣装が並んだ。
行き過ぎた科学は得てして古代でいう魔法の技術になった。
私が適当に着替えて、それらのインテリアを退けると、部屋は再び何もない直方体の内部に戻った。
その音も物もない空間はいつも目にしているはずなのに、妙に白々しく思われた。
ダイブのあとには良くある感覚だが、今回は水瀬 織姫の部屋で何年も過ごした記憶分、いつもより殊更強い。
そうか。織姫の部屋は、ずっとこのイメージに沿っていたのだ。
男として生まれ変わったときには、それを剥いだだけで病室のように殺風景なものになったものだ。
織姫が私にそうさせてきたのだ。
私が織姫の魂にそうさせてきたように。
現代では既に魂のつながりというものは、時空を越えて、常に双方向で共有された思考であると解釈されている。
デジャブはそのために起こる。
並行世界、別の時間軸にいる自分の記憶が混ざった瞬間、というわけである。
過去、現在、未来はそれぞれに相対的に影響を及ぼす。だから、未来からそれを知らない過去の思考に触れる際には、そのことを強く言及してはならないという制約ももちろんあるが、なにぶん思考というものは制御し難く漏れることも間々ある。それほどに大きな矛盾でないなら、未来に帰る時に自動で整合化されるし、重大なバグが発生するようなら、未来のソイツはもうこっちには帰ってこられなくなり、新しいルートによって発掘された新しいソイツが未来に出現するだけ。細分化された並行世界は、増え過ぎれば自動的に統合され、あるいは消去される。
究極の自己自律システムがこの未来には構築されていた。
世界と自分を切り離し、単一的に見ることで、世界への干渉をなくさせ、それがバタフライエフェクトを極力抑える役割をしている。
私が手をかざすと、白い壁がぱらぱらと、ブラインドがめくれるようにして、一面に外の情景を映し出した。
暁の時刻であった。
無造作にビルディングが乱立する様は、古代からの違いがさして見当たらない。
けれど、その上空に物理法則を無視して浮かべられ、湾曲したり、重力に反した角度に持ち上げられ、無秩序に絡み合った高架や、アドバルーンのように漂う人工微小天体の数々、道路や気流を意図せず飛び交う車輪の無い箱や、機械臭さを無くした人形、異形の生物たち。幹だけが異様に果てなく長く、自然を冒涜するような奇妙な葉や実をつけた樹々、何もない空間の中途から突然こぼれだす滝に、実際に触れて渡れる虹の橋などなど、細部を見れば、それは完全に自然を超越したファンタジーの世界観であった。
目的である、その遥か郊外に安寧される地球人類の冷凍保管庫、通常『プラネタリウム』と呼ばれる建物を見据える。
人工太陽が部屋をオレンジ色に照らし出し、私はそこから世界を望んだ。
武者震いがして、頬が楽しげに持ち上がる。
「さ、いい加減、終わらせようね。この醜い世界の延命を……」




