14. 『白日』
どうすれば諦めるのか?
高校に入って、私は間もなく打って出た。
もう終わらすべきだ。自分のそうして悲鳴を上げ始めた心奥に応えるような、ある種の防衛機構が、きっと働いた。
私は同校に所属していた甲斐田の元に自ら赴き、"付き合う"という、その誘いを承諾したのだ。
結斗が行動に出るよりも早く、私はそうして甲斐田の元に下った。
高校となれば、なぜか皆、急に垢抜け始めて、結斗が率先してしていたようなオシャレをはじめ、中学では話題にさえ上がらなかった場面まで追及し始める。
そんなモブの習性は、私の背中を後押しするように、甲斐田を逸らせた。
幸い、私の見た目はそこそこ良い。
甲斐田は生誕十七年目にして堪えきれない飢餓に堪え兼ねた狼さながらである。私に会うたび、その期待が下半身を張り詰めさせるのが分かった。
私はしおらしい乙女のような振る舞いで、その男のあとに粛々《しゅくしゅく》と従い、後はその時を待つだけであった。
勝手にタガが外れる、その時を。
そしてある放課後に、遂に臨界を突破したのだろう。甲斐田は初めての男らしく、多分に確認を要求しながら、私に迫った。
してもいい? してもいい? を何度聞かされたかわからない。
結斗と違って、あまりにも幼稚な振る舞いだったが、それでいい。
私は頷いた。
もうどうでもいいのだ。
それが見も知らぬ中年の男でないだけマシだろう。
この世界の誰も、そして生きてなんかいない。
今に生きてなどいない。
私もそう。
誰もが生きながらにして死んでいる、ここは屍者の帝国なんだから。
どうせ死んでいるこの身。
生きることの叶わぬこの身。
もうどうでもいいのだ。
そうして私が彼の舌を受け入れ、自分の舌を合わせようとした時である。
私は突然、モノクロだった世界が、一斉に着色されたかのような衝撃を受けた。
視界の端にいるその人は、突然教室の中に入ってきて、私を組みしだこうとしていた甲斐田を一撃の元に屠ってみせた。
あたかも、まさしく、私の心がずっと待ち望んでいた、ヒーローのような振る舞いで。
「結斗……」
結斗が私と、甲斐田の間に立ちはだかるようにして立っている。
その瞬間だ。
コックピットの胎動があった。
見たこともないような明るさに満ちたコックピットの奥で、眠る本当の私の瞼が、開こうとしているのを感じた。
「なにコイツ……ふざけんなよ、いきなりっ!!」
「うるせぇよ。どいつもこいつも、バカみたいに盛りやがって……織姫」
私は彼が言わんとすることが手に取るように分かった。
結斗はそして、甲斐田の方ではなく、私の方を振り返ると言った。
「歯、食いしばれ」
私は目を閉じた。
コックピット内は大慌てだ。
奥のハッチが今にも開かんとしている。
けれど、私は分かっている。
結斗は優しいから。
結果は、三年前と同じになる。
結斗に私は殴れない。
その扉は開かない。
あの時と同じように、苦しげに漏れる吐息が聞こえた。
そしてループするのだ。
私たちは、ずっと。
この時の過ちをやりなおしたくて。
コックピットの裏側で胎動する私は目覚めない。
だって、
それが私の愛だから。
小四の時に既に至っていた、覚悟である。
私はあれから、何度となく思ったことがある。
生きながらにして死につづける屍者が支配するこの社会において、自分が生きているとあからさまに表明すること、そしてその使命に殉じること、逸ること、貫くこと。
いわんや、屍者と違うことをすること。
子供のままでいること。
夢を追いつづけること。
結斗が結斗のままでいること。
私が私の我を貫き通そうとすること。
個人がそうして夢を抱くことは、つまり。
それは子供のわがままなのだ。
だから、誰もがやがて大人になり、大人しく従うようになっていく。
屍者の中に埋没して、己を忘れ、その死んだ生を受け入れていく。
そして世界が終わるまで。
それは変わらない。
私たちは、その一瞬に留まることも、駆けられることもなく、ヒーローやヒロインとなる夢を諦めていくのだ。
己の生存できないこの世界で。
「殴らないの?」
かつて麻倉にけしかけた時のような鋭い口調が出た。それでいい。コックピットのハッチは閉じたまま。
私は私の操縦桿を正しく握れている。
結斗は私の頬を指先でかすり、間もなくぐっと硬く握り拳にして震わせた。
「……殴りてぇ」
「いいよ。殴りなよ。それで結斗の気持ちが済むなら。私は耐えられる」
「…………」
結斗は何も答えなかった。私は続けた。
「強くなったと思ってた。私のこと、思い出にして、強くなってくれるって——でも、子供みたいだね、結斗」
涙がこぼれる。
「いつまでも子供みたいなことして、上手く行かなかったら駄々をこねて……そんなことばかりなんだよ、この世界。みんな、それを噛み締めながら、諦めながら、それでもどうにか理性を保って生きてるんだよ……自分が歯車の一つに過ぎないって、分かってても。そうやって世界って回ってるんだよ。楽しいことばかりじゃない、辛いことも哀しいことも踏み越えて……あぁしょうがないかって、切り替えて!! 少しでも楽になれるように探して、その辛さ哀しさを忘れられるようにって、毎日、血の涙を隠しながら笑って生きる努力してるんだよ……!! 貴方だけが、その痛みを知ってるんじゃない!! 私たちだけが特別なわけないじゃん……っ!! この世界の誰も……予定調和でできた物語の、主人公でもヒロインでもないんだから」
しかし、私は思い違いをしていた。
完全なる誤解。不覚。
樹本先生の言ったことは、これからだったのだ。
樹本先生の言ったことは、正しかったのだ。
これで断ち切れる——、
そう思った矢先に、結斗は言った。
「そっか。もう、いいんだな?」
私はその、予感に戸惑う。
「え」
「俺がいなくても。お前は、やっていける」
結斗は今度こそ、覚悟を決めたような思い詰めた表情で、静かにつづけた。
「お前は俺のものじゃないから。俺は……ずっと、そうであってほしかったけどさ」
それは恐怖だ。
「決めるのは、お前だ。今、お前が決めろ」
あの時とは正反対の、恐怖だ。
今そうして別れというカッターを私に渡し、選択を迫っているのは彼のほうだった。
立場が逆転した。
私はまたしても驕っていた。
結斗が優しいから、堪えられなかったのだ。
そう思っていた死への……終末への恐怖は、そのままそっくり、今、私に返ってきている。
その瞬間、私は悟った。
私がどれほど彼の好意に甘えていたか、ということに。
ヴェガがそうしたように、アルタイルがそうしたように。
今度は……今度こそ、結斗がいなくなるのだ。
そしておそらく二度と、今生で会うことはないだろう。
遠いどこかで生きていようと、実際に出会い、声を聞き、温もりを覚え、傍らに実在を感じられないのであれば、それはもはや、死と何ら変わりがない。
覚悟していた、三年もかけて、積み上げてきたはずの鉄壁の自心は、その瞬間が目の前に迫るやいとも容易く、脆く崩れ去り、私の中の……コックピットの奥に眠るお姫様を今一度呼び起こすようだった。
それが今になって懸命に叫んでいる。
コックピットの裏側から、どんどんとハッチを叩いて、がなり散らしていた。
いやだ。
いやだ。
いやだって。
閉め切った表で佇む私をハッチ越しにぽかぽか叩いて、訴えている。
思えば、本当に、私は救いようがないくらい、愚かにも、愚かなあの父によく似ているのだと思う。
私自身だ。
全て。
絶望の縁に言い訳を重ね、全てを諦めて、お姫様の私を、眠る私を、そして殺したのは。
犯人は、誰でもない、この私だ。
ずっと自罰的な思いがしていた。
こんな醜い女を殴ってほしかった。
それで何かが変わるわけではなかったのだとしても、私は、結斗に、叱りつけてほしかったのだ。
幼馴染、そのたった一つの言葉で、彼に、いつまでも甘え続けて、駄々をこねて、あげく上手くいかないことがあれば当たり散らして。
子供なのは、私の方だったのだ。
愛だとか、彼のためだとか、縛り付けるとか、全部言い訳にして、それらをかなぐり捨てて、現実と立ち向かう勇気が、私にはない、だけじゃないか。
『勇気を出すんだよ』
樹本先生の温かな声が響くようだった。
『自分からお姫様を起こすの』
コックピットのハッチが開く。
勇気は出す。
けれど、彼の幸いのためである。
なればこそ、私のような不出来で勇気を持たず、すぐに堕ちてしまう狭量な女の人生に、彼を拘わせてはいけない。
これは運命を断ち切って、彼を私という檻から羽ばたかせる最後のチャンスでもあるのだ。
私は開いたハッチを前にして、泣いていた。
泣きながら、私は、そこで起きていたその子の小さな手をとって、抱きしめる。
結斗を、私の手で束縛してはいけない。
水瀬という呪縛に、彼を巻き込めない。
それもまた、愛なんだ。
いいや、違う。
小四の頃に気付いてから六年あまりの間に成長して、やっと今、理解に至れた、それが——、
私の愛だから。
寂しくないよ。
私が一緒にいる。
私だけは、いつまでも、あなたと一緒にいてあげられるから。
お姫様の私と。
「……うん。もう……」
長い沈黙のあとで、私は言う。
「……いい……っ」
カッターで彼の首元を引くようにして。
結斗はゆっくりと瞼を閉じる。
臨終を看取るような表情で、厳かに口を開いた。
「分かった」
「……ゆ、結斗?」
「もう気安く呼ぶな。迷うぞ。お前はお前の道を進め」
「あ……ま……ねぇ、結斗、私——!!」
「今までありがとう」
今更追い縋る私の一切を無視するようにして——、
結斗は私を抱きしめていた。
これが、最後だ。
深層にて、断末魔のように泣き叫んで暴走するお姫様の私を、私は殺すつもりの力付くで押さえつけていた。
本当に。
最後だ。
「誰よりも愛おしかった、織姫。さよなら」
結斗はそういうと、驚くほど呆気なく、私の腕を離れて、次第に集まってきていた名前も覚えてない誰かの脇をすり抜けて消えていった。
私は全身の力が消失したように、その場に崩れ落ちていた。
手のひらで顔を覆う。
失ってしまったものの計り知れない大きさを確認するような作業だった。
もう二度と、彼と触れ合うことはできない。
彼の名前を呼ぶことはできない。
私の願いは叶わない。
私のわがままは叶わない。
「水瀬……?」
いつの間にか出来ていた教室を取り巻く観衆から、名前も覚えていない同級生が出てきて私に何事かと声をかけた。
その間から、甲斐田の伺うような声も聞こえた。
しかし、もう。
どこにも結斗はいない。
私の世界で、彼は今、死んだのだ。
私が自分自身で引きちぎり、殺したのだ。
私は絶望した。
その日のあとの記憶はない。




