13. 『心倣し』
年の瀬が迫ってきた頃、アルタイルが亡くなった。
しばらく前から白内障を患い、この頃は元気もなくなってきて、ふと何もないところで立ち止まることも増え、足をつらせたり、心配していた矢先のことだった。
色づいてきたはずの世界がまたしても、モノクロームに染まる。
生きなければならないのも苦痛だが、同時に死ななければならないというのもまた酷い痛みを伴う。
なぜ産まれるのだろう。
なぜ出会うのだろう。
こんなことをいったい、いつまで続ければいいというのか。
ヴェガの死から始まって、私はその出会いと別れに何ができるのかを考えてきた。結局、分からないまま、そうしてアルタイルまでいなくなってしまった。
いつもアルタイルに甘えるばかりで、私は彼に何を返せたというんだろうか。
嫌になる。
もういやだ。
生きるのも、死ぬのも、もうたくさんだ。
もうたくさんだ。
そんな日だった。
私は身体を動かして少しでも気を紛らわそうと思い、近所のサッカークラブが主体となって学校のグラウンドで行う夜間のフットサルに足を運んだ。とはいえ、自分がプレイヤーになるつもりはなかったのだが、そうして溌剌にボールを追いかける様を見たり、応援していれば少しでも気が晴れるような気がしたのだ。
その寒い夜景の中に、彼がいた。
夜の黒と、グラウンドを照らすライトの白で、やはりモノクロームに違いないが、彼はその中でフットサルに興じ、町内会の提供するネギ臭い豚汁を食べ、そして片付けられた朝礼台の上へ、赴く。
何を思っていたか、自分でも知れない。
もう、優しくされたいなんて思ってはいけないはずなのに。
それも自分から。そんなことを想ってはいけないはずなのに——。
でも、気づくと、私自身も、その九十度側面に掛けていた。
「来てたんだ……」
まるで束の間。ロボットから奥間の眠り姫に、主導権が変わったみたいに、自然と口が開いた。
彼は若干白々しい態度でこちらを向いた。
私がそばにいるのに気付いていないなんて、彼に限ってはありえない。
家来のつまらない秘め事を見抜く主人のように、姫の私には彼の一挙手一投足の意図がわかっている。
「声もかけてくれないなんて、ちょっと酷いんじゃない?」
「え、あ……悪い。気付かなかったわけじゃ、ないんだけどさ」
「なんて、嘘。ごめん。私もそうだったし……」
あれほど。
あれほど話したかった人が傍にいるのに、自然な口調はそこまででぱたりと止まり、私はうまく喋れずにいた。
ほぼ三年越しともなればこんなものかもしれない。
私は三年の成果を見せるつもりで、けれどそんな外面的なものは何の役にも立たず、懸命に話題を切り出した。とりあえず、この三年であったこと……。そうだ。
「結斗、変わったよね」
「え……あー……そ、そうか?」
「きっと、強くなったよね」
「それは、どうかな。迷うことだらけで、正直進んでる気はしねーよ。お前は……すげー強くなったように見えるけど」
「……ううん。そんなことないよ。私も一緒だよ。迷ったり、悩んだり、そんな……そんなことばっかりだった」
それは少し盛っている。迷うこともなければ、悩んだりしたことも特になかった——、
けれど、ずっと一つのことにだけは、やはり、迷い、悩み、想いを巡らせてきたように思う。
同じなように見えて少し違い、違ってるように見えて、きっと結局は私たち、同じことを考えてきたような気がして、自然と笑みが溢れた。
私は朝礼台の縁に手をつき、子供みたいに足を投げ出して、夜空を見ながら言った。
「でも、良かった。一時期はどうなっちゃうかと思ってたから」
「あー……ね。すまん。若気の至りってやつで、一つ」
「なんで謝るの?」
「なんでだろう。脅かしちゃったかな……とか?」
「なにそれ。そんなわけないじゃん。変なの」
あゝ、まるで変わらない。
私たち、身体ばかり大きくなって、中身はまだあの小五で再会した時のままのようだ。
大袈裟な素振りで話すところも、突然遠慮なく距離を詰めてくるところも、まるでセオリーではない。
「織姫の番号教えてよ。したら、掛けるから」
そうして端末を片手に人の携帯を覗き込んでくるところも、
「あーだから、黒に戻したろ? やっぱ男は黒で短髪が一番だよな」
といって無造作に髪を弄るところも、
「高校、同じじゃん。頑張ろうぜ……って織姫なら楽勝か」
とわざとらしく嘯くところも、その一つ一つがやっぱり私は、どうしようもなく好きだった。
この人の隣がやっぱり、一番安心する。
ちょっと途中は違っちゃったかもしれないけど、この三年間は全部、この人とこの日、こうして話す時間のためだけにあったような、そんな気がした。
「そうだったんだ……」
でも、私は三年前の別れを繰り返すつもりはない。あの詮無い夢の話を繰り返すつもりはない。
この三年の間にも、父は事あるごとに母から聞いたらしい結斗の話を持ち出しては尤もらしく罵ったし、母は母でさも楽しげに実しやかな噂を家に持ち帰った。
この家に居る限り、それは夢なのだ。
私の親がこの二人である限り。
七夕の織姫は、どんな気持ちで、神様を見ていただろう。
「ねぇ」
気付けば私たちは朝礼台の同じ側面に二人で並んで腰掛けている。私はそれで結斗の部屋の向かいにあったスタンドランプを眺めるように言い、結斗の顔を見た。
あの時と同じようにまた、結斗も既にこちらを見ていた。
「前から思ってたこと、あるんだけど、聞いてもらえる?」
「ん、なに? 何でも話せよ」
「うん。私たちさ、幼馴染なのに、いつも一緒にいるわけじゃないし、互いのことよく知ってるのに、今回もまた随分久しぶりだし、小学生の頃もそうでさ、私はよく思ってたんだけど……」
「うん」
「再会しては別れて、離れ離れになってはまたこんな風に再会して——」
それは残りの三百六十四日を待ちかねたという恋しい気持ちの表現だったのか、それとも、そんな風に三百六十四日を細々と離れていくような、既にして末期を悟った恋人たちの気持ちの表現だったのか。
たぶん、両方だ。
憎き天の川に分たれ、傍にいながら、眺めることしかできなくさせられた私たちの表現だ。
「私たちって、何だか、七夕の織姫と彦星みたいだね」
結局、それは同じだ。
三年前に言った言葉と、それはまるで変わらない意味を持つ。
なぜ産まれるのだろう?
なぜ出会ってしまったのだろう?
それは同じ意味だ。
願っても、叶わないならば、なぜ人は夢を見るのか。
私には、それは、可愛いとは思えない。
◯
結斗と志望校が重なっていたことは、しかし複雑だった。
嬉しかったことは嬉しかったし、それは自意識過剰などではなく結斗の私に対する愛情の再確認でもあったし、私もまた同じ気持ちであったはずだ。
けれど——、
また、この三年を繰り返さねばならないのか。
そう思うと、正直、つまらない日々の新たなる重荷が増えたような気がしてならないのだった。
◯
それは日に日に強くなっていった。
新年が明けて。今年はどんな年になるだろう?
また結斗のことを思い、報われぬ恋に身の内を焦がすどころか、焼き焦がされるような想いに堪えなければならないのか。
父や母の結斗に対する雑言を聞き、臓腑を煮え返らせるような時間の中で正気を保たねばならないのか。
私の腹の底には、マグマと魔界と、あと何を詰めればいい? 頭の裏に国会でも作ろうか。ニュースで見る国会中継の乱痴気騒ぎぶりは、まるで私の心象風景のようだ。
雨上がりの、暗雲立ち込めながら奥の陽が光線のように差し、大気が湿度から暖かさを思い出し、濡れた土の乾いていく、その霧煙る匂いを嗅いだ時に似ている気分だ。
もういいじゃないか。
どうせ、何も、叶わないのだから。
結斗が好きなガン○ムで言うなれば、これが、重力に魂を引かれる、ということだろう。
試験当日の朝も。
合否発表の朝も。
次第に募る倦怠感は誤魔化しきれなくなっていった。
いっそ結斗が不合格になればいいとさえ思った。
私が不合格ということはまず有り得ないので、結斗が不合格になるしかない。私はだからその時、自分の番号ではなく、事前に聞いて知っていた彼の番号を先に探していた。
だから私たちの視線は、きっと同じ点で交差していたはずだ。
あった。
まさか。
私が受かるのは当然としても、まさか、結斗が二年の遅れを取り戻して、受かるとは。
しかし、この事実は光明ではないか?
これが父や母の耳に入れば、二人が彼を見直すきっかけになるのではないか——。
「どうせカンニングでもしたんだろう。そもそも二年もろくに授業も出ずに、遊びまわっておいて、内申はどうなってるんだ。おかしいじゃないか」
「一年、心を入れ替えて頑張ったんだよ……」
「不良が更生したってそんなの、当然のことだろう。ずっとまじめにやってる方がよっぽど偉いだろう」
「それは記号で見てるからだよ。真面目な人は言い換えれば無思考に同じことを続けただけ。先生たちは結斗が変わろうとした、その成長に着目して——」
「黙りなさい、織姫。また繰り返すつもりか」
父は自分が王様にでもなったようにぴしゃりと言って立ち上がる。
「どちらにせよ、あんな碌でもない人間なんて私は認めないからね。前の生徒会長、なんて言ったか……付き合うなら、ああいう真面目で堅実な男をだな……どうせ、不良なんて更生したところで、すぐ落ちぶれるに決まってるんだ」
「…………」
「いいか、織姫。私は、お前の将来を考えて言ってるんだよ。若い時の一時の感傷で、これから先の長い人生を棒に振らせまいと……」
私はもう何も言わなかった。今更、この人に言葉が通じると思っていた私が馬鹿だったのだ。
これから先とは何のことだろう。
カッターで首元を掠めるだけで、なくなる"これから先"に、この人はいったいどれだけの大望を抱いているのだろうか。
そこには保険もない。保証もできない。
そして明日にも終わってしまった時、この人は、なんて言って、私に詫びるのだろうか。
あるいはそうして十年先二十年先に結婚していなければ、どんな言いようをして、孫をせがむようになるのだろう。
今に生きたい。
たったそれだけのことが、私たちにはできないから——、だから、今日も中央線は止まるのだろうに。
明くる日、私は例の、鍵の壊れた小窓を抜けて屋上に出ていた。
ペントハウスの側面には、結斗と麻倉がいる。結斗が吹かした副流煙の匂いがすぐに私の視界にも入り、鼻腔をかすめていく。
結斗は合否発表の時のことをきっと拗ねているだろうから、と覗いてみたら、案の定であった。
私には彼のことなんか手に取るようにわかる。
すぐにも掴める。
なのに、この距離がいつまで経っても縮まらない。
いっそ終われれば、どんなに楽だろう。と最近は考えるようになっている。
疲れたのだ。
もう疲れた。
どんなに願っても、叶わない夢を見続けることは並大抵のことではない。
不毛なことに身を費やすのに、どれだけの精神をすり減らすことかしれない。
けど、二人は笑っている。
まだ私を諦めていないようであった。
気分はまるで正反対だったが、小五の時のように、私は膝を折って、顔を手で覆う。
もういいよ。
もう、やめてよ……。
これが物語であればいい。
立ちはだかる苦難を堪えた先には希望が差して、越えた障害に比例した賛美が得られるような、この世がそんな物語の世界であるならば。
けどこの世はあいにくと、無慈悲なる現実であって、そんな風にはならない。冷たい空気は冷たい空気のまま、無感情で冷徹に執行する大人たちは大人たちのまま、感動で心が動かされ、急に指針を変えることもなく、私たちを傀儡の仲間にして止まない。
なのに、この二人は諦めない。
小六の遊園地の後もそうだ。
この二人は諦める事を知らないかのように、私を引き止めようとする。
麻倉さんなんか完全に理解不能だ。結斗が好きならば早くくっついてしまえばいいのに、彼女は持ち前の愛情を持って、まだ私との間を懸命につなごうとしている。
理解不能だ。
なんで、この二人は諦めないのか。
私には、理解不能だ。




