12. 『孤独の中の神の祝福』
中学の三年間はほぼモノクロームに染まっている。
何をしていたかの記憶がほとんどない。
それはきっと私ではないからだろう。やってみると分かるけど、人の記憶とは出会いによって象られる。一人でいた時間のことはほぼ覚えていないものだ。その時、私はきっとどこにもいない。既に死んでいるとも思ったし、甘く言えば眠っていると感じた。
表面的な私はオートマティックに動くAIか何かのようで、中で操縦するのも、別の誰か。だから、好評も得られた。だってそれは、単なる鏡だから。その人がしてほしいことを、私に望むことを、写すだけの鏡。
そんなものは断じて私などではない。私自身はずっと、そのコックピットの更に奥で、胎児のように膝を抱え、ひたすら眠り続けているようだった。
もう起きる気もなかった。
時々、そんな私の元に届く音があった。
入学早々、一年の白上が教室で暴れたという話を聞いた時がその一つ。何でも小学生の頃からの知り合いのことで何かを言われて、カッとなって暴れてしまい、教室中の机がひっくり返って、相手の顔面は血だらけとか、わりと凄惨な有様だったという。
そんな風に結斗の話が聞こえてくると、私は笑った。
彼の心臓の音が聞こえた気がして。
その昼、私は手早くお弁当を食べ終え、学級委員の仕事のために職員室に向かっていた。
職員室は一階の保健室の向かいにある。その前の廊下で私は二人の上級生とすれ違った。
彼女らは隠す気もないような大きな声で話していた。
「あず! あず!! ねぇ見た?! なんかさー、もう、超可愛くなかった? あの二人!!」
「あーん、めっちゃ羨ましいわー。私も手当したかったー、たぶん涎ダラダラ垂れてたと思う、私!! ヤバいよー、私もあんな彼氏ほしい人生だったー」
「もう、ちょーーーーーー、愛を感じたわ、麻倉さんと白上くん。いやーごちそうさまでした。マジ甘かった。もう結婚しないかな。式、呼ばれたい。スピーチさせてほしい」
それは心が震える話だった。
私が職員室に入る前に、ふと立ち止まると、背後の室内から楽しげに話す声が聞こえてきた。
壁越しで濁った、言葉としては伝わらない波長のような音。でも、コックピットの奥の部屋にいる私は、その中にいるように楽しげに胎動する。
「失礼します」
私は久しぶりに心からの笑みを浮かべて、職員室の戸を開いた。
やがて生徒会に入った。
その初日、三年の教室に向かい、慣れない廊下を歩いていると、ふと見知らぬ男子生徒から声をかけられる。
「あ、ひょっとして、君、生徒会? 一年の子?」
見慣れなければ聞くまでもなくそうだろうに、と思いながら、私は「はい」と行儀良く振る舞うと、その人は気前良く私を教室に案内した。
それが甲斐田 奈々樹だった。
甲斐田先輩は一個上で、私以外の生徒にも名前の通りに甲斐甲斐しく面倒見がいい。それで生徒会の中でも慕われ、次期会長として候補に上がる人だった。
そんな彼に気に入られたらしい私はサポート役として一緒に作業をすることが多くなり、中にはそれを変な風にからかう人まで現れた。
彼は"普通"の世界では上等な品質なのだろうと思う。顔立ちははっきりしていて、コミュニケーションにも澱みがない。だから、"普通"の同性の目にもよく留まるのだろうと理屈の上では納得がいく。
けどあいにく、私はそれを装っているだけで、そんな"普通"こそ最も毛嫌いし、侮蔑する女なのだ。
そこで交わされる変哲のないコミュニケーション、お膳立てされたジョーク、テンプレートに満ちた接近の仕方……"普通"に美徳を感じる人たちの、そうした先人を只管なぞるかのような中身のない、他の誰でもいいような、NPC然とする挙動のどれ一つとっても退屈で、私にとっては怖気立つほど忌々《いまいま》しく気味が悪い。
彼は幼児の時分に感じた"オバケ"の代表のようだった。
これがゆくゆくは大学のサークルやゼミ、会社のオフィスや飲み会というように場所を切り替えて、何年も何年も、人生を通して行われていくのだろうと思うと、気が遠くなりもして、私はまた一つ思い至った。
嫌いなのに、嫌いではないふりをする。
それがコミュニケーションの極意なのだ。
思えば、好きな人との間にそんな気遣いはいらない。それが必要だから考える手間が生まれる。
言葉がなぜ人間にしか会得できないかが分かった気がする。野生の動物にそんな気遣いはない。彼らは互いの領分だけを理解していればそれでいい。分かり合うとは、つまり、分かり合えないから生じた不断の努力そのものではないか。
"普通"の人からすれば、まるで逆の認識だ。
コミュ障とはつまり、正直すぎる人のことなのだろうし、コミュニケーションが達者とはつまり、それだけ中身がない、場当たり的な教科書通りの返答しかできない、つまらない人のことなのだ。
どれだけ凡庸の真似ができるか。
鷹のようにあえて爪を見せないことが、人間界における優位性の獲得の仕方だとしたら、そうして築かれた社会は、退化を前提としたシステムに他ならない。それで誰が得をするのだろうと思えば、それはやはり無能で凡庸で、取るにたらない"普通"の人たちだろう。
私は笑いが止まらない。
それがルサンチマンじゃないか。
何百年も前に至っておきながら、まだ人間は飽きもせず、繰り返しているのだ。
私はそれを可愛いとは思えない。そんな弱き者どもの帳尻合わせのために、私の愛は阻まれたのだ。憎悪こそ覚えども、慈しむようには思えない。
この世に超人が現れないのは、きっと"普通"の人たちがそうして追っ払ってしまうからだろう。
もちろん、私もそれを真似する一人だから、気付いたところで何も変わらない。
ただ少しだけ、最近の鬱々《うつうつ》とした気が晴れたというだけである。
それだけで良かった。
そうして、コックピットの裏側に封じ込めるのだった。
季節物の衣装をいつか着る時のためにと、押し入れにしまい込むように。
◯
二年に上がり、甲斐田が会長になると、今度はその補佐をする私が次期候補として名を連ねるようになる。
一つとして面白味のない日々だったが、時々、どこかから流れてくるピアノの音色が、私の鼓動を呼び覚ました。
大体放課後に聞こえてくるそれは、夕闇に褪せた教室に一層のノスタルジーを彷彿とさせて、この上なく心地よかった。
その時だけ、ロボットの操縦系が機能不全を起こしたみたいに停止して、コックピットの奥にいる私が、楽しげに耳を澄ませ、クスクスと笑った。
「また弾いてるね。大して上手くもないのにさ」
ふと甲斐田が机から顔をあげて、作業中の面々に言って聞かせると、忖度に満ちた笑い声が薄く響いた。
「正直言って気が散るんだよなぁ。いつも……誰なんだろ。水瀬、知ってる?」
「さぁ?」
私は何でもないように言うが、頬の綻びが隠せない。この時だけ、生きているという実感を覚えた。
「でも、すごく懐かしい音がしますね」
「え、どこが?」
と宣う男のアホ面は目に入れないようにした。
間に選挙活動で、朝から昇降口前に立ったりして、気付くと私は生徒会長になっていた。
余計な人員がいなくなって、女生徒だけで周りを囲えたりすると、少しばかり気が楽になった。それを「先輩が卒業しちゃって寂しいねー」なんて、からかわれたりもしたが、実際はまるで逆であった。
甲斐田の前では警戒していて張り詰めていたものが、少し肩の荷が降りて、気が緩むようになったのである。
二年の二学期が終わる頃には進路調査票の一枚目が配られて、いよいよ受験という多くの人にとっては最初の関門が重く立ちはだかる時期に差し掛かる。
けれど私にとっては、大した意味のない行事である。
どこへ行こうとも、そこに彼がいないのであれば意味がない。例によってコックピットの奥の私は、すやすやと眠り続けていた。
そんなある日、私は屋上に向かう麻倉さんを見た。
次の日も、そのまた次の日も。
きっと私が初めて見た日が最初ではないのだろう。彼女はいつからか、毎日のように足しげく屋上に通っているようだった。
一度気になって尾けてみると、そこの薄暗い踊り場に積み上げられた予備の学生机を足場にして、天井付近の小窓に器用に身体を滑らせていくところを目撃する。
麻倉さんがそうして屋上に消えた後で、小窓を見てみると……なるほど、どうやら鍵が壊れているようである。色々、抜け道を知っているものだと感心してしまう。
しかし、なぜ、そうまでして屋上に向かうのか。その答えは考えるまでもなく明快だった。
今は若気の至りに頭髪を脱色して、ワックスで整え出し、改造した学ランを着こなし、さらに煙草を吸うからか、香水まで使い出しているのも知っている。
学校には来ているはずなのに、なかなかどうしてすれ違えもしないと思ったら。
こんなところにいたのだ。彼は。
そして私はやはり笑った。
安心した。
彼は息づいている。
道は違えども、自分の居場所を見つけ、確かに生きようとしているのだと。
私も、生きなければならない。
それは彼の願いでもある。
彼が孤高の中で息づくように、私もまた人の間で息づいていかなければ、もしかしたら彼の方から、私の音が聞こえもしないと心配して探しにくることもあるかもしれない。
そうさせてはならない。
私は踵を返すと、階下に降りて、またモブの群れに混じっていく。ロボットに着色を済ませるように、私はそうして段々と感情を乗せることができるようになっていった。
三年に上がり、新一年が入会して、授業に部活に生徒会に日々の習い事にと、時間に追われるうち、あっという間に夏が過ぎる。
そうして思えば中学の三年は夏よりも冬の方が思い出が色濃い気がした。
その時もやはり、残暑も越えて、めっきり冷え込み出した十月の頭。十二月の選挙に向けて活動がスタートし、にわかに慌ただしくなってくる時期である。
時々三階の中央ピロティにあるピアノの音が聞こえてくると、それが休憩の合図になった。会長である私が判子を押す手を止めて、じっと耳を澄ませるので、後輩や同期もそれに倣うようになったのだ。
特別に仲のいい後輩なんかはそれをからかってもくる。ニヤニヤと彼女らは顔を見合わせ、笑い出しては囁きあうので、嗜め半分呆れ半分で尋ねたところ、後輩の一人が言った。
「会長。ほんと、良い顔して聞いてるんですもん。なんか美味しいスイーツに巡り会ったときみたいな」
「なんか可愛いよね。いつもはもっと……なんていうか、少し冷たい感じするのに」
同級の子までそんな風に言い出して、私はたじろいだ。
「え……そ、そうかな」
「ファンの子、結構いるみたいですよ」
「白上……くん?」
苗字で呼ぶなんてことがまだ慣れなくて、くすぐったい。
「そうそう。白上くん、荒れてた頃も良かったけど、それが落ち着いたと思ったら、急に今度は一気に大人びてきちゃって……それもまた絵になるっていうか、皆と楽しそうにしてるのに、なんか寂しそうな雰囲気が見てて切なくなるっていうか……」
「え、もう好きなのそれ?」
別の誰かが差し挟むように言うと、同級の子が慌てて大袈裟に手を振った。
「違う違う!! でも、なんだろう……私でよければ話聞いてあげたくなるっていうか、支えてあげたくなるっていうか……」
「分かりますよー先輩。てか、でもそれってちょっと厨二ですよね……遠い目キラッ!! みたいな。狙ってんのかな。役者だなーって私は思っちゃいますけど」
「そんな風に言わないで。似合ってればいいんだよ、似合ってれば」
同級の子がムキになって言うのが面白くて、私は吹き出していた。口元を抑えながら、でも久しぶりに笑いが堪えられない。
「あれ……なんか刺さった? 水瀬さん」
「ううん……ごめん。なんかおかしくて……」
「会長でもそんな風に笑うんだ……」
「……私、そんな冷たい印象?」
「わりとそうですよ。誰にも心を開かないみたいな。一年なんか皆、そう思ってんじゃないかな。ね?」
私は驚いていた。モブだと思っていた人たちの観察眼もなかなかのものがある。というか、私が思い込み激しくてザルなだけかもしれない。
「じゃあ、もっと上手にならなきゃね」
「えー、いいですよ。今のままの方が絶対いい。むしろなんでそんなことしてんですかー」
「うーん。私も厨二だからね」
出まかせでそんなことを言って誤魔化した。




