11. 『変わらない世界で愛するということ』
「結斗、知ってる?」
十数分ほどもそうして散々泣き散らかしたあと、私は結斗の腕に甘えながら、ぽつりと呟くように言った。時々まだ喉がしゃくりあげて、話しづらい。
「カマキリのメスはね、性交渉のあとでオスを食べちゃうんだよ」
「マジで?!」
結斗は目をひん剥いて驚いて、私は少し笑う。
「そう。私もね、最初はひどいことするなぁって思ったけどね、今なら分かるんだ。ちょっと、その気持ち」
「えぇ……カマキリもそうだけど、織姫のそれにも驚くわ」
「結斗、分からないの?」
「俺は、何度でもしたい。一回きりなんて嫌だ」
「あー。そういうことか。でも、すっごくロマンチックじゃない?」
「えー……? そう?」
「うん。カマキリのメスはすんごく嫉妬深くて、ロマンチストなんだよ。純愛なんだと思う。だって、メスからしても、ものすごい覚悟いるよ。愛したオスを食べるのって」
「こえぇよ」
「えへへ……あとね。生物の心臓の鼓動の回数って、全部決まってるんだって。つまり、脈打つ速度の違いで、寿命が変わるんだ」
「へぇ……寿命ってそんなんで決まってんの?」
「そうみたい。それでいうと、人類の限界は四十歳前後」
「え、でも……」
「そう。本来はそのくらいでちょうど死ぬはずなのに、人間は医学とか科学とか……の恩恵で、長生きできるようになってるの」
「……凄いと思うけどさ、それって、良いことなの?」
「そう思う?」
「うん。なんかさ、ほら、あれ。あるじゃん。もう死んでるはずの肉体を改造して、悪い科学者に操られて、ボロボロなのにずっと戦わせ続けられる話とか。そんなんイメージする」
「私もそう思う。なぜそうまで生きなきゃいけないんだろう。私は結斗が隣にいるなら、永遠だって構わないけど、ほとんどの場合はそうじゃないのにね」
「うん……」
「こうならなきゃいけない。ああしなきゃいけない。そして、その上で、生きなければいけない。……だから、死にたくなるんだ。そんなの、私の人生じゃないもの。そんなの、少しずつ死んでいっているのと変わらない。だから……なら、いっそここで死んでも何も変わらないんじゃないか。そうやって思うんじゃないかな。積極的に死にたいわけじゃない。誰だって。でも、生きていたいとも思えないのは、それが楽しくないからだよ。何一つ、ままならない世界だと知るからだ。なんでこんな簡単なことが大人には分からないんだろうね。バカみたい」
結斗の身体があったかくて、まるで寝物語でも聴かせているような気にもなる。そんな風にぽつりぽつりと、私は麻倉さんについても言及していく。
「邪魔だと思った。そういう風に思う私が確かにいるの。昨日のお父さんみたいな。黒い自分が。運動会の時ね、その私がけしかけさせたんだよ? 麻倉さんが結斗のこと好きとか言うから、身の程を分からせてやろうって思って、試しに私が誰か適当な人、好きだって言ってみなよって。そんな黒い自分が確かにいるの」
「……ちょっと待って。えーと? 色々マジでびっくりしてるんだけどさ。えーと、と、とりあえず、織姫のヤンデレ? メンヘラ? ……に関しては、俺個人に妄信してくれる分には良いんじゃね? と思う」
「好きってそういうことなんだよ。私たちだって本来動物でしょ。愛する人とそうして自分の子孫を残すことに夢中になるのが間違ってると思う? 一方ではそれをおめでただとか言うくせに、一方では不純だとか言って。一方ではさっさと大人になれとせっつくくせに、一方ではまだ子供なんだからと封じ込める。結局、私たちがどうしたら気が済むわけ? 大人の方が、よっぽどわがままだ」
あるいは、既にそうされて大人になってしまった人たちの僻みが、この世に不条理を許し、その蛮行に蓋をし、見て見ぬ振りをするのだろう。
そして世界が変わらない、自分たちが通ってきたままの道であり続けることを望むのかもしれない。
かつて、そんな人たちを一掃したいと願っていたことを思い出した。しかし、それは世界を滅ぼすことと同義だと悟った。それがこの世の最も普遍的な人たちの在り方なのだ。一番凡庸で中心的で多数派の人間たちがそうである以上、消えゆくべきは私たちの方なのだ。私たちの方が、そうした"普通"の観点からすると、異常で、異物であるのだ。
私はポケットにしまっていたカッターを取り出すと、結斗に手渡した。
「疲れた、とは言わないよ。けど、ただ、ただ、不毛だ。世界は変わらない。それで私たちが変わろうとしても、変わっても、世界は変わった私たちを異物だと排他して、追いやり、ゆくゆくは同じ道を辿らせるだろうだけのことだもん。分かったつもりで中身のない一般論と、ありがた迷惑と自己満足に満ちた思いやりと、過度に礼賛された仲間意識で埋め尽くされるのが、この世の美意識である限り……人のそんな、真綿で首を絞め付けるような優しさが、私たちを殺しつづけるんだ。正常性に従えと言ってね」
結斗の手の中でキリキリとねじを緩めて、刃を伸ばすと、私はその手を包んで、自分の首に当てた。
「織姫——」
その目が恐怖に満ちる。けど、私の心はもう決まっている。
「一緒に行ってくれるって言ったよね。嬉しかった。私はいいよ。どこだってついていく。だから、私を本能のまま殺すか、理性的に忘れて生きていくか。選んで。結斗の決定になら、私はそれを受け入れる。従う」
私は言いながら、目を閉じて、待った。
長い沈黙があった。
とても、長い沈黙が。
その中で私は穏やかに息づき、結斗は段々と息を荒げ、手を震わせた。
しかし、私は分かっていた。
嗚咽が聞こえた。
瞼を開けると、結斗は泣いていた。
先ほどの鏡写しのようだ。
力無く首を振る。
「できねぇ……できねぇって、こんなん……」
結斗はカッターをベッドの上に落としながら、吐き出すように言った。
「それでもやっぱ、生きていてほしいから——人生は今だけじゃない……これから先もっと、俺以上に良い奴が現れるかもしんねぇ……嫌だけど、そんなの想像するだけで頭がおかしくなりそうなくらい嫌だけどさ……」
私は頷いていた。
そんな気はしていたのだ。
「死ぬよりはいい……そう思って皆、生きてんじゃないのかな……」
錆びついた歯車が回る。
頭の中でそんな音がする。
時の歯車が、そうして、今また。
デジャヴだった。
いつか見た風景。そしてまた、いつか来たる場所。
結斗が気付いたように目を見開いた。
「——だから、忘れる? 俺たち、いつも、そうしてきたんだ……そうして忘れていくのか」
今度は私が彼を抱きしめていた。
「なんてひどいっ……」
往年の怒りを込めた彼の声が唸るように響いた。
感情のない涙が静かに流れて消えていく。
私たちはあとどれだけ泣けばいいのだろう。
どれだけ別れ続ければいいのだろう。
けど分かっていることもある。
それはきっと時の進みが、私たちを癒してもくれるだろうということ。
だから、私は彼の判断を蔑むことも、否定することもない。ただ、労りたいと思った。
抱きかかえていた身体を離し、悔しげに、荒々しく顔をしかめる結斗の唇に再度自分の唇を押し付ける。
ねっとりと舌を合わすと直感することがある。
これもまた本能の鋭さの成せる業だろうか。
きっと最後のキスになる。
初めてなのに、その予感は鮮明だった。
「ごめんね。結斗」
「織姫……なぁ。なんか方法ないのかな」
私は首を振る。
「綺麗に忘れてね。本当の私。子供で、わがままな私のことは。私も努力するから……」
きっと私たちだけじゃない。
この醜い世界のどこででもあることだと思う。
「一緒にいられないなら、なんで私たち、出会っちゃったんだろうね」
この主人公にも、ヒロインにもなれない、酷い世界では、よくあることだと思った。
そして世界が終わるまで。
私たちはあと何回、こんな人生をやればいいんだろう?




