10. 『うたかた』
玄関を開けると、少しして結斗が出てきた。
「やぁ。今、いいかな」
昨夜のことを気にして、取り繕ったわけではない。先のことを考えて、気丈に振る舞っているのでもない。
ただ自然と、一番ニュートラルな自分が出ていた。
私は結斗に迎えられ、玄関を上がり、久しぶりに結斗の家の匂いを堪能する。
他人の家の匂いというのは不思議なものだ。
アルタイルのように独特なクセがありながら、けど、私はこの匂いが好きだった。
愛しい匂いだった。
結斗は多少気後れしながらも、先に目の前の階段を登り、私を部屋へと案内する。
灯滅せんとして光を増す。
たぶんそんな、最後の灯火だったろう。
今日、燃え尽きることを心に決めていた。
だから、今更過去を思って後悔することも、未来を考えあぐねることもなく、ただただ目の前の全てを受け入れ、リラックスした心地でいられたのだ。
彼の後ろについて狭い階段を上がる途中で、「首の傷、大丈夫?」と確かめると、結斗はあたかも今、思い出したかのように首を触りながら「あぁ……全然平気」と気のない応答を返した——、
が、私は二階の彼の部屋に入る前に、傷口を改めさせてもらうことにする。
「いいって」
「見せて」
最初、結斗はそれを見せることを嫌がっていたが、私が引かず、強引な口調で迫ると、次第にじっとして、部屋のドアを開けたまま、顔を上げて喉仏を晒してくれた。
私は既にそこに出っ張りが出てきていることにも少し驚きながら、その中心にある昨夜ついたばかりの赤い傷痕を凝視する。
まだ年相応にか細く薄い肌色の首筋の中央に、突然入った亀裂のようにして赤い筋ができていた。
私が腕を伸ばして、指先でそっと触れると、結斗がぴくりと息を止めるのが分かった。
「……痛い?」
「ちょっと」
彼はその一瞬の間に溜めた息を吐き出しながら言った。
出来立ての瘡蓋はまだベトベトして、滲む血をまとわりつかせているようだった。
舐めれば命の味がするだろう。まさしく結斗の命の味が——、
と、触りながら考えていることに気づいて、私ははたと思考を止める。
「……あと少し——少し、くすぐったい」
結斗が喋ると、出てきたばかりの喉仏がかすかな動きを見せる。そんな反応に導かれるように見上げると、どこか恥ずかしそうな彼の顔が、もう目の前にあった。
視線が交差していたのはわずか数秒足らずのことだったが、ぴたっとそこで時間が止まったかのように、ずいぶん長く感じられた。
その間に一度、喉仏が今度こそ明確に上下した。結斗が唾を呑み込んだのだ。
「……でも別に大したことねぇよ。気にすんなって」
けれど結斗はぶっきらぼうに言うや、ドアを完全に開け放ち、一足先に部屋に入っていく。
別に堪えなくてもよかったのに……。私は結斗の気遣いがもどかしい反面、少しおかしくて、穏やかに頬を綻ばせながら、彼の後に続いた。
そもそも二人で結斗の部屋に入るのなんか何年ぶりだろう。それはもう、一緒にお風呂に入っていた時期以来のことじゃないだろうか。
結斗はやはりどこか落ち着かない様子だった。
部屋のほとんど半分のスペースを占領しているベッドに腰を下ろすや、すぐに立ち上がり、「何か飲みもん、入れてくる。紅茶でいい?」と尋ね、私が頷くと、入れ替わるように慌ただしく部屋を出ていった。
部屋は、何も変わりがなかった。
六畳の空間の入って右側にテレビとゲーム機が置かれた棚、奥に学生机。ベランダに通じる大きな引き違い窓が正面の壁にあって、反対側の奥、つまり左奥の壁にクロゼット。その手前にベッドがある。
皆で集まるときには、ベッドの上に座って、テレビに向かい、ゲームをしたり、机備え付けの椅子をテーブル代わりにして駄弁ったものだ。
そして玄関に上がったときと同じように、鼻腔が敏感に匂いの違いを捉えていた。
それは玄関のそれとはまた一味違って、より男臭さの増した——、
つまり、結斗の匂いだ。
匂い、というのは、時にその人そのもののような存在感を放ち、私たちにその人といた記憶を呼び起こす作用をする。
フェティシズムと言ってしまうと性的興奮のみを指すようで、私はそれとは少し違う気がするが、とにかく、愛すべき夫を亡くした妻が時折、箪笥から亡き夫の衣類を持ち出して抱きしめる、というような所作が、私にはよく理解ができる。
それはその人を構成する粒子のプールの中にいるかのようで、愛しいその人の匂いを嗅ぐと、いとおしい記憶と共に、それだけで全身が満たされるようなのだ。
それから、ベッドの縁に腰掛けて部屋を見上げる。すると、ちょうど花を象ったランプが目に留まった。
それは天井付近の壁に備え付けられたスタンドランプで、以前、飯島くんや葛西くんや高橋さんと何度となくこの家で遊んだ時に、それがオレンジ色に怪しく光ることからラブホライトなんてあだ名されたものだった。実際、天井に備わった蛍光灯を落として、ランプだけの照明にすると本当に丁度いいくらいの薄暗さになって、反応に困ったものだ。
そんな風に種々《くさぐさ》の思い出を一つ一つ掘り返しながら、一人でニヤニヤとしているところで、やがて結斗が戻ってきた。
「え、こわ……なに一人でニヤついて」
結斗は一足で部屋の中央まで行って、一度学生机の上にお盆を置きながら、冗談めかして言った。
「いいじゃん。久しぶりなんだから。結斗だって今、私の部屋に来たらたぶんこうなるよ」
何ならもっと挙動不審になって、最悪、人のタンスを漁ったりするに違いないとまで確信を持って言えた。
「あぁ……まぁ、そっか。そういうもんかも……」
結斗も似たようなことを想像したのか、歯切れ悪く言いながら奥の学生机から椅子を引っ張ってきて、それを即席のテーブルにし、上にお盆を乗せるのだった。
それからしばらく二人でゲームに興じた。結斗はゲームなら大体何でも上手くて、特にスマブラやゴールデンアイでは歯が立たない。代わりにぷよぷよとなると、私の圧勝だった。私は隕石の上に、更に星を積み重ねて、その上でまた右画面に瞬時にぷよを重ねていく様を見せ、結斗に悲鳴をあげさせた。
そのあと一度部屋を出て、奥の居間にあるアップライトピアノを二人で代わりばんこに弾きあった。結斗の家の椅子は、背もたれのないコンサート用のキーボードベンチと呼ばれるタイプで、二人腰掛けて丁度いいくらいの広さと弾力がある。
そうして肩が擦れ、距離が近くなる。
互いの指に触れ合ったりするうち、自然と——、
どちらからともなくキスをした。
今度は大人のキスも試した。
初めて好きな人に舌を入れられる心地よさに脳が痺れる感覚を味わい、私たちはふと気付いたように部屋に戻って、より身体を合わせながら、続きを再開した。
そのまま行き着くところまで溺れてしまっても構わなかったけど、私が家に訪れたのはまだ午後を回る前のことで、時間はたっぷりと残っている——、
いや違う。もう、あと半日もない、それだけしかないと考えるべきだ。
私は一度離れると、結斗が入れてくれた紅茶の残りで水分を補給しながら、ベッドに隣接する壁に背をつけた。
いつもは私の部屋でアルタイルがそうしてくれるように、今は隣に結斗が並んでいる。そうして向かいにあるスタンドランプを見上げながら、ふと切り出した。
「ねぇ、結斗」
「ん?」
結斗の顔を見る。既に結斗もこちらを向いていた。
「どこか、遠くに行きたい」
「え……」
「結斗と二人きりで。私たちのことを誰も知らないような場所で、これから先ずっと、二人だけで暮らしたい」
結斗は次第に口も瞼もぽっかりと開けて、私の顔を初めて見るような目でしばらく眺めたのち、一度自分の手元に目線を下ろして、拳を握り、深呼吸して、
「行くか」
意を固めるように言って、私をもう一度見る。
「うん、行こうぜ! 今日行こう!! すぐ支度してさ。どこでもいいよ。俺、織姫となら」
「ほんと?!」
私は上体を壁から起こして言った。結斗は強く頷いて返した。
「うん、マジ! マジで行こう。アイツらから逃げんだろ? 全然いいよ。えっと……駆け落ち? っていうんだっけ」
「うん……うん! そう!」
急に活路が見出せたようだった。私は完全に起き上がると、息急ききって続けた。
「結斗、青春18きっぷって知ってる? 一万ちょいでどこまでもいけるやつ」
「そんなんあるの?」
「うん。たぶん今なら、春季のやつ買えると思う」
「一万ちょいくらいなら、余裕で出せる。織姫は?」
「私も。貯金全部下ろせば十万くらいはいける」
「十万?! すご」
私たちはベッドシーツの上に地図を出して、改めて列島の地理を確認しつつ、経路を指でなぞり、思いついた案を提示していく。
「行くなら、関西の方にしよう、で、できれば沖縄まで行きたい」
「これから暑くなるぞ?」
「寒いよりいいでしょ? それにイメージかもしれないけど、なんか良い人多そうだし」
「あーたしかに。で、アパートなり借りて……」
「うん。私、働くよ。年、誤魔化して……」
「働くのはそれでいいけど、大家さんには正直に話そうぜ。で、事情説明して、頼み込む。きっとわかってくれる人もいると思う」
「うん……うん! 最低賃金でも、二人合わせて毎日働けば、家賃はクリアできると思う」
私は久方ぶりの期待感に胸を躍らせて、溢れてくる笑みも隠さずに話した。
「何ならさ、近くの畑とか手伝わせてもらって……ノウハウ学んで、ゆくゆくは自分たちでも農業とか酪農とかやって……」
結斗は、直感的に分かるいやらしい笑い方をすると鼻を摘んだ。
「織姫と二人の家……」
けれど私は笑う。
「なに考えてるの」
「いや、流石に不可抗力だって。でも、正直、今から楽しみすぎてヤバいんだけど」
「……もう。真面目に考えて」
「真面目だろ。こ、子作りだって……」
でも、それは私自身も想像の膨らむ話だ。
少し乗ってやることにした。
「結斗は子供、何人くらいほしい?」
「えーっ。もうそこ?」
「結斗が言ったんじゃん」
「いや、俺、まだそこまで考えてなかった。その内容だけで……」
「真面目じゃないじゃん、じゃあ……」
「男がいい。断然、男! で、大きくなったら、一緒に酒飲む。まだ俺も飲んだことないけど」
「女の子なら……うーん、二人で結斗からかって遊ぶ」
「え、俺、そういう役?」
「そうだよ? 子供の頃からずっとそうじゃん。結斗は私の……」
感情が溢れ出しそうで顔を逸らしながら言った。
「私の——大切な家来だよ。私、姫なんだから」
まだ終わらせたくなかった。
急いで、続きを話す。
「それから……それからね……」
夢の話は楽しくて、本当に胸の中がかつてない期待感でいっぱいに膨らんでいくようだった。やりたいことがたくさんある。私たちの前には無限大の未来が広がっていて、しかもピークはこれからで、まだまだ始まったばかりなのだ。
なのに、なんでだろう。
言葉が続けて、出てこない。
何一つ、上手く行く気がしないのは……。
「……織姫」
結斗もすぐに異変に気付いてしまう。
私の手に触れる。
私の手はもうずっと小さく震えていた。ぽろぽろ溢れ出した涙が、地図の上に落ち出して、それがぎゅっと、硬く結ばれた。歯を食いしばって、その隙間から呻くように言った。
「……やりたいこと、いっぱいあるんだ……ほんとうは……結斗とならしたいこと、夢、いっぱいある……のに……」
顔を上げた時、その人の顔はもう滲んで、ボヤけて、よく見えなかった。
「——なんで? なんで、邪魔されなきゃいけないんだろう」
筆舌に尽くし難い苦悶の表情を浮かべていたように見えた。きっとどちらもそうだった。
「織姫」
結斗は言葉に詰まったように言うと、私を抱きしめた。
これまでにないほどの強い腕の力だった。私を内側に閉じ込めるように、全身を巻き付けるように強く抱きしめた。
結斗に強く抱きしめられて、これ以上ないくらい嬉しいはずなのに、それは思った端からかき消えていくようで、離すまいと私も力を込める。なのに。
「結斗……私、結斗が好き……大好き……結斗以外なんて考えられないの……それだけで幸せになれる……なのにっ……なんで……なんで皆、邪魔するのっ……なんで皆、分かってくれないのっ……なんでっ……なんでっ——!!」
一言口にするたびに、腕の力が強くなるのを感じた。応えて返すように、声も大きくなった。
「お父さんもお母さんも、皆、私のことが嫌いなんだ……私も皆、嫌い。大っ嫌いっ!! こんな世界、産まれてこなきゃよかった……こんな世界、おかしいよっ……ああっ……ああああぁぁぁ……」
感情のタガが外れた。涙が堰を切って溢れ出して、もう止められなかった。私は結斗にしがみついて、子供みたいに泣き喚いた。




