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『そして世界が終わるまで 〜繰り返される恋の、その先へ〜』  作者: 白雛
織姫リフレイン編

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8. 『運動会の時のこと』




 女の情動が芽生え、それを受け入れられると、私はしばしばその自己満足に没頭した。


 そして自惚れていたと言ってもいい。


 秋の運動会にて、私が仕組み、麻倉がけしかけた結斗の奮闘はきっと最高の結果を収める。そして私はその最高のタイミングで、彼の情動をほんの少し突いてやる。それだけできっと理性は崩壊する。だって、それは、こんなにも甘美なんだから。知らないのであれば、多少強引にでも私が教えてあげればいい。後は野となれ山となれ、本能に身を任せればいい。言ってしまえば、それだけが、我々、生き物の生きる目的なんだから。


 今以て本当のことを言えば、この時のことを穢れたなどとは少しも思っていないが、しかし、そんな新たなる趣味の発見とそれにまつわる情動が私の目を曇らせていたことは事実で、またそんな私は救いようもなく、愚かだったと、すぐにも知らしめられることになる。


 この世の仕組みの再認識フラッシュバックと、一発の平手打ちによって。


 騎馬戦の最中、結斗がやぐらの上で対戦相手の須藤と激突した瞬間は、あまりにもあっけないものだった。


 遠く、グラウンドの中程で、絡み合うマッチ棒のような二つの人形ひとがたがぶつかりあい、「あっ」と息を呑む観衆の声に紛れて音もなく落下する様はどこか滑稽で、だから誰もすぐには動かなかった。


 大勢たいせいの興味は、どちらが体育帽を取ったのか? 次の競技は何か? あるいはトイレどこ? とか、そんな瑣末さまつなものだったし、それは運動会とはいえ平時のワンシーン、誰も、目の前で突然人が死ぬなんてことが起こるとは考えてもないものだ。


 それをまざまざと体験したり、それを起こす側にでも回らない限りは——。


 私は早々に違和感に気付いていた。きっと私と、その他、死んでない感性を備えた少数の人たち、それからこの時少し離れた位置にいた麻倉だけが、冷静に状況を観察していた。


 すぐに他の生徒たちが並び立つ待機列に戻ってくるかと思いきや、彼らはその場から動かない。


 中の一人、飯島くんが屈んでいるだけで、その場から離れない。


 その囲いを形成している人数は計七人だ。騎馬の単位は四人。八人いるはずのところに一人足らず、他の七人はその地面を囲むようにして見下ろしている——残る一人がそこにいる。


 彼らという遮蔽物の影に隠れている一人は、果たして、何をしているのか。


 わざともたついているのでなければ、自ら起き上がることも、周りの人間が起こすこともままならない状況であるということに他ならない。


 先の出来事と合わせて、最悪の想像に至るまで、のろのろとした数秒の、そんな間があった。


 とっさに、私がヴェガを思い浮かべて飛び出したのと、麻倉が教師の腕を引っ張ってグラウンドに飛び出したのは、ほぼ同時だった。


 零秒の隙間に、遅れて飯島くんの悲痛な呼び声がグラウンドに響く。


 既に発狂しかねない私のおつむは、しかしまだ冷静でいられた。脳裏にチラつくヴェガの時の光景と相反するように、正常性バイアスが急速に増大して、私に落ち着くように呼びかけている。


 それが決壊したのは、麻倉とほぼ同着で、その囲いの中央で寝転ぶ結斗の様を目の当たりにした時——、


 瞼は開くとも閉じるともなく、薄く眼球を覗かせて、小刻みに震えている。四肢は力無く地面に投げ出され、唇が白い泡を吹いて、唾液を垂れ流している。


 どう見ても、虫の息であった。


 私は絶叫した。


 再来だと思った。

 瞬間的に、ヴェガの死骸が網膜の裏にありありと蘇った。


 鉛のように冷たくなって、硬くなったあの毛皮の感触。

 光を失い、ただ闇を吸い込むように黒く、もう動かない、どこともなく空を眺めるうつろな眼差し。

 脱力した肉体から吐き出される排泄物の匂い。


 紛れもなく中にあったはずの、何かが、抜け出てしまった空っぽでかちかちの肉を前にしたときの、絶望感を——。

 

「いやっ——いやぁぁああっ!! 結斗っ、結斗——!!」


 私はとたんにその場に座り込んで、結斗の身体に手をかけ、肩を揺すったり、腕を持ち上げたり、胸に手をあてて、呼びかけたり、思いつく限りの行動をした。


 でも、知っている。


 それが抜け出してしまったら、もう何をどうしようとも、どうすることもできない。


 失われた魂の21gが戻ってくることは二度とない。


 ぐったりとした身体や腕の重さがそれを裏付けているかのようだった。


 見たくない。もう見たくないと思っていたその光景が、いま、まさに目の前に転がっている。

 それも、この世で最も、それがあってはならない人の身体で。


 信じがたい悪夢だと思った。


 私がけしかけたのだ。

 私のつまらない意地と情欲が、結斗を死に追いやった。

 私のせいだ。


 わたしのせいだ。


 間もなく周囲の腕が割り込んできて、私の身体を持ち上げ、それを阻害する。私は全力で抵抗した。


 腕を振り払い、足で蹴飛ばし、頭で小突いて、尚も結斗に呼びかけ、慟哭どうこくする。


「離してっ——離せぇっ!! やだ……やだぁ……結斗、結斗っ——!!」


 周囲の全てが雑音だった。邪魔だ。うるさい。二人きりにしてくれ。それが出来ないなら——。


「それならいっそ、私もここでっ——!!」


 その時、頬に明確な刺激が走った。

 キーンと耳鳴りがして、景色が白く、時が止まったような気さえして、次いで誰かの張り上げた声が、鼓膜を揺らし、確かに私の意識に介入する——。


「しっかりしろよ!!」


 白昼夢めいた茫漠ぼうばくな意識が、実在を捉えて、視界に色がつくと、そこにいたのは麻倉だった。


 彼女はあらんかぎりの力で私の肩を掴みかかり、強く揺さぶった。


「まだ——まだ分かんないじゃん!! 邪魔になってんの分かんないの!! それでアンタがトドメ刺しちゃったらどうすんだよっ——!!」


 まくし立てるその目にも、大粒の涙が浮かんでいる。


「アンタ、白上のこと好きなんだろ!! なら、もっとしっかりしろよ!!」

「麻倉さん……」

「白上が……あ……こ、こんなことでし、ししし死ぬわけないじゃん……だ、だだ大好きなんだったら、もっと、信じてやれよ……」


 麻倉は言いながら私を強く抱きしめる。


 それでやっと、その腕が、滑稽なほど、小刻みに震えているのが分かった。


「だ、大丈夫だから……ぜったい。ぜったい、ぜったいぜったいぜったい、大丈夫だって……」


 麻倉も必死に堪えている。

 私と同じくらい必死に。

 彼女は同じだ。

 彼女もまたこの恐怖と戦っている。


 私は彼女の背に腕を回すと、その肩口に口を押し付けて言った。


「うん……ごめんっ……」


 私たちがそうしている間にも、昇降口前に建てられた急造の控えテントから担架が運ばれてきて、頭の上では集まった大人たちが救急車の有無などを話している。


 しかし、いざ担架に移され、保健室へと向かう段階になって、結斗の意識が戻った。


 私と麻倉、二人して呼びかけるや、結斗は何かうわ言をもらし、その目は薄らと、しかし確かに私たちを捉えて、しっかりとした挙動を見せたのだった。そして、その手には硬く、須藤が巻いていた赤い鉢巻が握りしめられていた。


 私と麻倉は破顔して顔を見合わせ、周囲の大人たちが胸を撫で下ろすのが分かった。

 間もなく保健医が言う。


「けれど何分、頭のことですから。まだ油断はできません。保健室で様子を見て、それから判断することにしましょう。とにかく動かさず——、安静にすることです」


 "動かさず——"のところで、保健医が厳しくたしなめるように私を見たのがはっきり分かった。

 私は何も口にできない。


 教師たちが散らばり始め、結斗の両親が保健医の後に続くところで、麻倉が手を小さく挙げていた。


「あ、あの、私も付いてていいですか?」

「あ……え、あなたは?」


 早百合さんが直接、応対した。一瞬、こちらもちらっと見ながら。


「麻倉 凛です。あの、結斗くん、いつも一緒にいる……その、友達だから」


 保健医がまだ近くにいた担任の女教師を捕まえるように目配せして、互いに頷きあうと、女教師は珍しく暖かな、内奥に秘めた母性を覗かせるような表情を見せて言った。


「じゃあ、麻倉さん、白上くんが起きたら、知らせてくれる? 彼、一応リレーも残ってるし。麻倉さんの番が来たら、放送委員の子を呼びに行かせるわ」

「ありがとう、先生」

「…………」


 それは一種の才能だ。


 彼女はそうして周りを味方にしていく。


 私にはないものだ。

 その光景が羨ましかった。


 私は手を挙げられなかった——、


 その時既に、背後に両親の存在を感じていたからだ。


 殊に父は、いつの間にか私のすぐ後ろに立っていて、肩に優しく手をかけると、そうして振り返った私に、ただ怪しく微笑みかける。


 周りからすれば、単なる親子間の接触にしか見えなかっただろうそれは、私からすればまるで違う、手錠でもめられた感覚がした。


 唯一の救いは、麻倉さんの本気を感じとれたこと。

 彼女は同じだ。私と——いやもしかしたらそれ以上の——強い想いで、結斗を慕ってくれている。


 私はそこへは行けない。

 けど、麻倉さんになら任せられる。

 そう思って、けれど温かくその背中を見送った。




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