5. 『浅野事件・その後』
俗称"浅野事件"のことは、間もなく両親にも電話で伝えられて、私はその日、早退することになった。
母が殊更強い口調でその女教師の対応を罵ったことには良い意味で驚かされたが、それ以上に私が戦慄したのは帰り道のときの父の反応だった。
父と母は別の教師と挨拶を交わし、私も騒がせてしまったことには陳謝した。そして、父の運転する車に乗っての帰り道、女教師への罵詈雑言が止まらない母の隣で、突然父が言った。
「白上 結斗くんだっけ。彼がいけないんじゃないのかい?」
「……え?」
窓の外を眺めて、女教師への復讐計画を虎視眈々と妄想していた私は、その名前が出てきた時、初め、それを聞き間違いか何かだと思って、運転席を見た。
背筋の凍り付くような父の冷たい眼差しが、けれどルームミラー越しに私に突き刺さって、事の深刻さを知らしめた。
まるでそう、細胞の一欠片まで浸透するかのようにだ。
「私が何も知らないとでも思っているのかな? 織姫は」
私はとっさに運転席から助手席へと目線を移す。後ろめたそうに母が縮こまっている。
少し気を許すとすぐこうだ。
このクソババア……と憎しむ気持ちが目つきに現れたのを父は見逃さない。
「なんて目つきだ。見たかい、ママ。それも彼から教わったの?」
「ち、違うよ、お父さん、私は元々……」
「彼と付き合いだしてからじゃないか。織姫がそうやって嘘をついて、陰でコソコソ男の子と遊ぶ悪い子になったのは」
「絶対違う!! たしかに影響はあったと思う。けど!!」
「まったく。お前が甘やかすから、変な虫がついてくる。織姫は女の子で可愛いんだから、注意しないといけないって言っただろう」
会話にならない。私の言葉を無視する父の態度に、どうしたらいいのか分からなくなる。けど、他に訴える手段は思いつかなかった。
「——待ってよ、なんでそうなるの。ねぇ、お願い、私の話を聞いて……」
「とにかく、その子とはもう付き合わせない方がいいな。何か間違いがあったら大変だ。クラス替えなんてちょうど良い機会じゃないか。今度はもっと真面目な子を選んで遊ぶようにしなさい。いいね、織姫。今度はお前がちゃんと見張っとくんだぞ。分かってるんだろうな」
「ええ、ごめんなさい……貴方」
「…………」
なんで? も、違う。も、聞いて。も、全て空気中で勝手に英語ですらない、アラビア語かなにかに変換されてしまっているように、二人の耳には届かない。二人は私の存在を無視して、二人だけで会話を進める。
けど、なら、じゃあ、どうすればいいのだ?
どうしたら分かってくれる?
「分かったかい、織姫?」「いいね、織姫」「聞いているのか、織姫」
一方通行の糸電話のようだ。父は、自分だけそうしてメッセージを訴え、私の番には、コップを耳から外している。
そんな相手に、どうして分かり合えというのだ。
私は諦める。
黙るか、「あぁ」とか「うぅん」とか曖昧な返事をしていると、次第に、父はそれをイエスと捉えだしたようだった。
私は笑う。
何も話してなどいないのに。
この人は何を受け取った気でいるんだろう。
豹変した父の態度は、けれど子供心にそうして新しい憎悪を植え付けた。
次の日の朝、いつもなら結斗の登校時間に合わせて七時起床、八時に家を出るところを、母にせっつかれて、私は六時半に起こされ、七時には家を出された。
こんな早くから学校に行かされて、何をしてろというのだ。
私はいつものように口八丁手八丁で母を打ち負かしてやろうと思ったけど、その日は父もいたので、私はしぶしぶ従った。
めんどうになっていた。
コミュニケーションの通じない相手との不毛なコミュニケーションなど、めんどう以外の何ものでもない。
ただ、父の機嫌を損ねるとよりめんどうになる、ということだけが経験則として積み重なり、次第に彼の出す音に警戒するようになっていった。
髭を剃る電気シェーバーの音、ドアを開ける音、閉める音、歩行音、空咳のどれ一つ聞きこぼさず、そこから現在の機嫌を読み取り、めんどうを避ける。
以降、私と父とのコミュニケーションの大半がこの作業である。
私はしかし、その初日、ささやかな抵抗として、家を出て間もなく、近くの小径に身を潜めると、物陰から家の前を観察した。
そうして見送りに出た母が家の中に戻ったのを確認すると、更に念のために家の前を通らないように裏から回り道をして、結斗の家に赴き、チャイムを鳴らし、出てきた結斗のお母さんに事情を告げた。
おそらく下手に隠したところで、結斗のお母さんには伝わってしまうだろうと思い、父のことも含めて包み隠さず話した。
「——というわけで、しばらく結斗くんとは一緒に登校できなくなりそうで……早百合さん、本当にごめんなさい」
「そっか。ううん、いいのよ。こちらこそこんな面倒くさいことさせちゃってごめんね、織姫ちゃん。分かった。アイツにもちゃんと言っとくから」
「ありがとうございます……」
「ううん……織姫ちゃん?」
「はい」
「私、なんて言ったらいいか分からないけれど、織姫ちゃんが辛くなったら、いつでもウチおいで? 私はぜーんぜん気にしてないから。アイツのことも、織姫ちゃんみたいな子に引っ張ってってもらえたら、私は正直、安心するし……うーん、なんて、言ったらまた面倒起こしちゃいそうだけど、めんどくさいものね、大人って。ね?」
私は早百合さんのその言葉だけで胸が満たされるのを感じて、強く返事する。
「はい! ありがとう、早百合さん」
「うん。いってらっしゃい」
そして、念には念を入れて、そのまま裏道を周りこんで学校へ向かった。
何もかも思い通りになどさせるものか。
私は、私のまま生きていきたいのだ。
それを理解し、ついてきてくれる家来と。
こんな世界の仕組みなどに、私を、殺されてたまるか。
当然、教室に着くのは一番だった。明かりもついていない、誰もいない朝の教室はしかし薄暗く、まるで牢獄のようで、一層結斗のいない孤独感を強調する。
私は窓際に立ち、グラウンドをずっと見ていた。
明るくなる前に一人、また一人と、生徒たちが校舎に入ってくるのを見守り、やがてそのうちの一人が私のいる教室まで辿り着く。
「おはよう——あ! 水瀬さん!! 珍しいね、今日は。そうだ、あのね?」
私はずっと、窓の外を見ていたが、その声は背後で、大袈裟に言った。
どうせ昨日の今日で私に恐れを成したか、あるいは囃し立てる類だろう——そう思って振り返った私の手を、その女の子は勢いよく掴むと、目をキラキラさせながら続けて言うのだ。
「昨日の、めっちゃかっこよかった!!」
「……え?」
「気にしない方がいいよ。あの浅野って先生——私、お姉ちゃんいるんだけど、前に担任になったことがあって、その時から色々言われててさ、何かとうるさいババアなんだって。それで、怖がられてもいるんだけど、それなのに、あんな風に対決しちゃうんだもん、水瀬さん!!」
渡邊というその子は自分の机に戻り、ランドセルを置きながら、忙しなく口を動かす。
「昨日の話したらね、お姉ちゃん、すげー見たかったーって言ってたよ!! あ、お姉ちゃん、六年二組なんだけどね……」
渡邊さんはそれからもずっとお喋りを続けて、次第に人が増え、教室内が賑わいだし、そんな風に渡邊二号三号と私を認める人たちが現れ始めて、身動きが取れなくなるまで、私の孤独を埋めてくれたのだった。
朝の会が始まる頃に結斗も到着して、三組を覗いてくる。
「織姫ー織姫はおらんかー?」
「結斗!」
私は、耳がその声を捉えるや席を立ち上がり、周りのクラスメイトらをくぐり抜けて、教室の入り口まで駆けつける。
結斗は人差し指と親指で輪を作り、次いでパーに開きながら、やたらと声を低めて言った。
「お、おっはー。レイモンドだよ」
「おはよう。聞いた? 早百合さんから」
「おう。まぁなんか、様子見とけって言われたけどさー、元気そうじゃん。良かったよ」
私は後ろをちらりと気にしながら答える。
「うん。三組も、わりと悪くない」
「そっか。俺も二組にいるしさ」
結斗は当たり前のように人の頭に手を乗せながら続ける。
「まーあんま気にすんなよ。な?」
(仲の良い)兄がいたらこんな感じなんだろうか。
いや、私はそんなのを見たことがないので、きっと結斗がどこかおかしいのだろう。
それを犬のように喜んでしまう私もおかしい。尻尾があったら、もっと分かりやすく、私はぶんぶん振っていたに違いない。
「うん。ありがとう」
「じゃあな」
「うん」
そして、すぐに垂れ下げただろう。
人間にも尻尾があったらいいのに。
そうすれば、言葉が伝わらなくても、気持ちが伝わるのに。
バイバイは嫌いな言葉だ。だから、物心ついてから嫌いな人にしか使ったことがない。
私はそれを足さずに、結斗の背中を見送ると、自分のクラスに戻った。
その気持ちを寂しいと表現することに気付いたのは、いつだったろう。
言葉では知っていても、その意味も表面上は分かっていても、やはり経験がなければ腑に落ちるとまではいかないものだ。
そうして初めて、人はその言葉の理解に至ると言える。
これが寂しい、なんだ。
私は寂しがっている。
寂しいのは、嫌いだ。




