4. 『浅野事件・前』
けど、そんな楽しいことばかりでいられたのも、小二までだった。
そこで私たちは初めての離別を経験する。
小一〜小二までは同じクラスにいられて、私は特に考えることもなかったのだけど、小三、小五の節目にはクラス替えがあったのだ。
単刀直入に私は納得がいかなかった。そのクラス表が貼り出された廊下の壁を見上げながら、私はあまりの衝撃に頭が真っ白になり、気を失いそうにさえなった。
「織姫?」
隣で結斗が私の顔を伺う。
私はまた失うのだ。嫌だけど、この世界のそうした在り方には、お姫様の私だって抗えないのだ。そのことは、幼少の頃に脳髄の深くまで既に刻み込まれている。
積極的な消極的動作とでもいうように、私は離れたくないのと諦めるしかないの相反する気持ちを、彼の服を掴むことで示していた。
「どうしよう……どうしよう……結斗、私たち、離れ離れになっちゃう……」
「え……あ、いやさ、これは……」
「やだ。絶対に嫌……なんでぇ」
しかし、どうすることもできないのは結斗にだって分かっているのだ。
結斗は何も言わず、けれどそのまま、廊下に立ちすくんで一歩も動けなくなった私の傍に、一緒に立ち続けていてくれた。
やがて中年の女教師が現れ、事情を伺ってきて、呆れるようにため息をついた。
そんな態度の一つ一つに心の底から腹が立った。
「なぁにわがままいってんの。そういう決まりなんだから、ほら、白上くんは二組行って、もういいから。水瀬さんはさっさと教室に入る」
「……というわけだから、織姫。な?」
大人たちはいつもこうだ。
こっちはまるで何も分かっていないのだとばかりにそこにある確かな知性を無視して強行する。なぁなぁにして、それで済ませようとする。
ムカつく、ムカつく、ムカつく!!
沸点は臨界を突き抜けて、鋭く言葉に変わった。
私の頭の中でゴングは鳴っていた。
「なんで好きな人と一緒のクラスじゃいけないんですか」
「え、水瀬さん、今のもしかして告白?」
「ふざけないでください。小一から二年間、培った友情を遠ざけてまで、クラス替えを強行する理由って何ですか?」
「あのねぇ、そんなことに文句言う子はいないの」
「答えられないんですか。教師のくせに」
私の怒気と女教師の大きくなる口調に、異変に気付いたクラスメイトたちが続々と廊下を覗きにくる。
「……水瀬さん。じゃあ、言うけど、仲の良すぎる子たちを離れさせることもクラス替えの意図なの。そうして、知らない人とのコミュニケーションを経験させるためにね。私たちだって、考えなしに友達をバラけさせているんじゃないのよ。分かった?」
詭弁だ。要は自分たちが面倒臭いから放ったらかしにしてましたというだけのくせに、さも理路整然であるかのように宣う。
あるいは慣らしだろう。感情を殺して、規則に従うことに慣らし、社会に都合の良いように順応させるトレーニングをさせられている。
それはもう教育じゃない、洗脳だ。
この国の大人はそうして子供たちを都合よく洗脳している。
○ねクズ大人。と想う気持ちを、大人用に変換するのに苦労した。
「知らない人とのコミュニケーションを図らせることと、仲の良い人たちを別けることは相反しないと思います。むしろ、こうしてみだりに引き裂く方がよっぽど侵害になるわ。海外では授業は選択式だと聞きました。そもそもクラスなんて単位がないとも。子供の知性、自主性を早くから尊んで、教育に取り入れている。だって、成長の速度なんて千差万別だと分かっているから。それぞれに合った環境を自分で選ぶことができる。それに対して、日本はこうして意図も告げずに、決まりだからってそれを押しつけてお終いにしようとする。そこにはまるで知性も自主性もないみたいに。本当に考えなしにしてるんじゃないって言うなら、手前勝手な言い訳なんかしてないで、もっと考えて、早く実行に移してもらえませんか? 今の世界を作り変えられるのは、今の大人しかいないんだから。貴方たちはそうやって、ただ手間を惜しんでいるだけじゃない!! だから、日本の教育は遅れてるって言われてるのに!!」
「水瀬さん……言わせておけば貴方ね!! ——じゃあ、貴方はもう日本にいない方がいいわね。海外にでも留学すればいいじゃない。どうぞ、どこへともお行きなさいな」
「そうやって考えの違うものを外へ追い出そうとするのが貴方の掲げる教育なんですか? まったく、成長の見込めない人なんですね。まず、最初の質問に答えてもらえませんか? どうして好きな人と同じ授業ではいけないんですか? それを私たちは選ばせてもらえないんですか? 内容はどうせ同じものですよね。学校単位だって変わらないわ。違うならメソッドの方に問題があることになる。それに仲の良い人と学んだ方がずっと楽しく学べるわ。これに対する反論を。できないんですか。子供心にも理不尽だと思われるような現場に何年いるんですか。その間、貴方は何をしてきたっていうの? 教師が神様にでもなったつもり? 考えなしにしてないって? ふざけないでよ!! そうやって日々凡々と何もしてこなかった貴方たちの考えなしのために、なんで私たちが割を食わなきゃいけないの? 貴方たちは実験か何かのつもりで、人の運命を弄ぶ現代の生ける悪魔よ!! 日本の子供たちがまっすぐに生きていけないのは、そんなお前ら、何も変えようとしないクズ大人のせいだ!!」
殴られる前から、鼻血は垂れていた。
産まれて初めての弁論だったが、私は脳のリソースの全てを最大限に……いや時に、リミッターを外して上限を超えるような速度で、捲し立てられたと思った。
年増女教師のくだらない反論は、それが口に出されるずっと以前から、いくつかのパターンを形成して、脳裏に浮かび、同時に私はそれに対する反論を自在に呼び起こせた。
才能、というものがあるなら、私はあまり興味はなかったが、検事とか弁護士に向いていたのかもしれない。父は大学に勤務している助教授で、日頃から私にディベートを教えるように接するのが癖の理屈屋だった、ということも原因の一つにはあったかもしれない。
何にせよ、私は鼻血が出るほど、思考を回転させていた。ボクシング等の格闘技でもあることだという、興奮時におけるアドレナリンの過大な分泌が引き起こす超感覚でもって、その場の全てを支配できる気さえしていた。
私はまだまだ続けられる。
どこまでだってやってやるぞ。
どうだ。
そうして今しがた顔面に渾身のストレートを叩き込んでやったみたいに、しかし私は大きく肩で息をつき、その中年の女教師は、足元からぐらぐらと覚束ないように震え出して、その震えを抑え込もうと身構えた末に、私の頬を物理的に強く叩いた。
結斗はそれを目の前で見ていた。動転していた。
遠巻きに見ていた誰かが、あー!! と一際大きな声を上げて、直後に静まり返る中、別の教室からも続々と生徒、教師が出てきて、一気に事態が発覚して、それらの群衆が、立ちはだかる壁のように私たちを取り囲み、その中から進みでた比較的まだ若い教師の男女が、一方は私を、もう一方が中年の方の面倒を見て、ビルのように背の高い別の男の教師が他の生徒たちに大声を張り上げ、混乱するその場の指揮をとり、生徒たちは教室へ連れ戻され、若い二人の教師は私と、結斗だけを、それぞれ保健室へと連れ立った。
その間、私はずっと、ずっと中年の女教師を睨みつけていた。
許せなかった。そして、私は遂に見つけた気がしていたのだ。
七夕の織姫と彦星を引き裂いた神様のような、この世の傲慢さの源、私たちの世界がこうなっている元凶を。
あんなのが頭の上に蔓延っているからいけない。
あれを全て叩き潰したい。
そうしなければ、私たちはずっとこのままだ。
ずっと、七夕の二人のままだ。
私はずっと夢中でいたい。
夢中でいられなくするものが許容されてるこの大人の論理の世界はおかしい。
そのために、この障害は征服しなければならない関門の一つに過ぎない。
受けて立ってやる。
そして全て潰して、私は二人の永遠を手に入れる。
それが私の一つの目標になった瞬間だった。
このことは中年の女教師の名前から、当校の、主に同級生の間で、浅野事件としてしばらく話題にされ、次第に触れてはいけない迷宮のように、誰も口にしなくなっていった。




