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『そして世界が終わるまで 〜繰り返される恋の、その先へ〜』  作者: 白雛
現代編

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4.『——もしくはすべて記憶』




「あ……」


 しかしである。


 妙な縁が、強引にも機会を設けたみたいであった。


 その帰り、日の暮れかけた校門のところで、私は彼、猿彦当人に呼び止められていた。


「ええと、あー、松原さん?」


 私は、歯軋りこそしないものの、出来立ての二足歩行型ロボットのようなぎこちない動きで振り返ったと思う。


 その日私は部活で、なんとはなしに絵を描いてきたばかりである。嘘だ。

 

 実は題材にしているものの表現を迷っていて、なかなか筆が進まず、こりゃ頭をリセットしなければどうにもならんと逃げ出してきたところだった。


 だから、その日、晴子はいない。たぶんバイト先のファミレスで水汲んでる。


 内心で遠い彼女に救助を乞う想いが、実際の状況と渾然一体となって、私の口をついて出た。


「は、はひぃ……」

「え、なんて?」

「いや——なんでも——ないです——」


 困った。


 もしも私が男なら——。


 どうした? 転校生、人生の道にでも迷ったかい? 俺が案内してやろうか? この辺は俺の庭も同然だからよ、ぶるんぶるん(バイクの音)、ヌァッハッハ——、


 などと気軽に言えたのに……、


 と、内心かなり困っていると、猿彦は自身の前髪のようにさらっと答えを示した。


「まぁいいや。松原さん、確か方面一緒でしょ? よかったら、一緒帰ろうよ。案内がてら」

「え、なんで私?」

「え、そんなに嫌?」


 突然始まってしまった直球の投げ合いに、私はとっさに返球が遅れてしまう。


「い、嫌じゃないけど、ズルくない? ……その言い方」

「ごめん。人間相手のコミュニケーションってなかなか慣れてなくて」


 普段猿でも相手にしてんのか、お前は。猿彦だけに。と突っ込みたいけど、堪えた。


 まだ彼の前では、無垢な乙女を貫きたい。


「いや、まぁ……別に、いいけど」


 そうして猿彦と帰ることになった。


 歩き出して間もなく、猿彦が言った。


「空気がおいしいね」

「あ、やっぱり、そう思うもの?」

「うん。一番に感じたよ。というか、初めて自分たちのいたとこがガス臭いんだって気付いたっていうか」

「あ、都会なんだっけ」

「っても、然程でもないけど。ほら、ここだって、電車乗ればすぐ街に出れるじゃん? そんなもんだよ、どこも」

「結構、転校とか多いの?」

「うん。まー親父の仕事上、しょうがないっていうか」


 親父って言うんだ……としみじみ思う。


「お父さん、何してる人なの?」

「研究者。考古学の分野なんだけど、色んなところに顔が効くみたい。何冊か本も出してる。で、何か珍しいものが見つかると、すぐに飛んじゃうの」

「それはまた……大変だね」

「でしょ? ずっと振り回されっぱなしだよ、こっちは。松原さんは、地元?」

「ううん。実はね、私も小学生の頃、こっちに来たんだ」

「へぇ。どうして?」


 不思議だった。

 研究者の息子だからだろうか。

 そうして尋ねるその目にはまるで雑念がない。

 純然たる好奇心だけが、目の奥でキラキラしてる。


 子供のようなくりくりの目をして、こちらの内心を覗き込んでくるような眼差し。


 あまり見ていると、引き込まれてしまいそうだと思い、すぐに前に逸らした。


 口は自然と、白状していた。

 心拍にも澱みはない。頬も赤みを差していない。

 いたって平和なやりとり——初めて会話を交わすにも関わらず——であった。


「離婚したんだ。うちの両親。小学生の時ね。……で、私はお母さんとここに来た。お母さんの地元なの、ここ」

「そっか」

「うん」

「お父さんのこと、好きだった?」


 今度は、怖い、と思った。


 直球すぎる。


 まるでこの人は何もかも知っていて、誘導しているのではないか。


 有り得ないけど、そんなふうに思った。


 だから、また嘘をついた。心拍に少し変動がある。頬は赤みを差すどころか、やや青ざめていたかもしれない。


「うーん、どうかな。実はあんまり、そこまで覚えてもいないんだ」

「……そっか。ごめんね、根掘り葉掘り聞いちゃった」

「ううん、それは大丈夫。変に気を回されるよりそっちの方がいい——、って華藤くんも分かるでしょ? 転校多いなら……」

「——猿彦」

「え……」

「名前で呼んでほしい。俺も千歳って呼びたいから」

「…………」


 突然、夢から覚めるように、私は正気に返っていた。


 いやいやいやいや、いきなり近すぎね?


 この手のタイプは初めてだったが、底にある柴田以上のモンスターが透けて見えるかのようだ。


「いや、華藤くんで」

「えー、まだダメかー……」


 まだってなんだ。まだって。

 私の目測は大いに外れ、猿彦は見た目の通り、やっぱりフランクな奴で、正直私は冷めていた。


 持論だけど、知識や経験の量と言動の軽重は比例関係にあると思う。中身がぺらっぺらだからこそ、ふわふわフランクに揚がった美味しいチーズドッグみたいにカリカリふわっふわな仕上がりなのであろう。


 それなら私はまだ、犬飼くんみたいなコミュ障の方が面白い——かは別として、突いて何が返ってくるか一見して分からない百味ビーンズみたいな面白味があるとは思う。そして、何を隠そう、私はお腹が空いている。


 私が会話の中で驚いたのは二つ。


 一つは先にも話した親父さんのこと。


 で、そのもう一つが——その引っ越してきた先が、ご近所さんだったことである。


 なぜだ。

 何か妙だ。

 絶対とは言えないまでも、何かが、私たちを——。


「じゃあ、また明日」

「うん」


 ——まさかね。


 私の脳裏をよぎる邪推をさておくように、彼の態度は最後まで軽々白々そのものだった。


 誰にでもそうするように微笑み、誰にでもそうするようにおかっぱの金髪をさわさわとなびかせ、誰にでもそうするように手を振りあおぐ。


 ちなみに私の家は西側の雑木林の手前に位置する住宅地の一軒家であるが、猿彦の家は更にそこから盆地を下っていってすぐのところにあるらしい。


 つまり、私の家の前すら通る立地で、その玄関先で私たちは別れの挨拶を交わした。


 バイバイは嫌いな言葉だった。


 だから、私は物心ついてからは嫌いな人にしか使ったことがない。この時も手を振るだけで彼を見送った——。


「…………」


 この時分の、自宅、玄関というのは、夢と現実の境だ。


 そのように感じるのは私だけだろうか。


 それでも猿彦との下校は、例えおそらく、それが柴田であっても晴子であっても、まだ私に束の間の夢を見せてくれていたのだ——、


 という自覚が、玄関を跨ぐとすぐ、強烈な虚無感になって襲いかかってくる。


 奥からしわがれた初老の女性がやってくる。


 何かを言う。


 決して悪意のない出迎えのはずなのに、私はそれだけでひどく疲れてしまう。


 私は努めて傷つけまいと頬をあげるだけの笑顔を浮かべる。


 夢だけを見続けられたらいいのに。


 楽しい夢だけを……。


 ぴしゃりと、私は後ろ手に戸を閉めた。


 ◯


 そして、事はその更に明くる日に起きた。


 実に一年越しに、それが現実になった日だ。


 私はその日、いい加減、部活の作品を進めなければという一心で、裏の雑木林を通り、丘に続くちょっとした山道を登っていた。


 この日もこの日とて、日差しが首を焼き付ける。

 私はそのうち小麦色にこんがり焦げてしまうことだろう。


 どうしてそこまでするかというと、そこに山があるから——なんて常套句で返すつもりは全くなく、けれどその先に出ると、この苦労が何でもなかったというくらいの爽快な景色が見られるからである。


 この苦労でさえ、今の私には無心になれるのが有難い。木曜日から芽生えてしまったオリモノのようにベタつく余計な気持ちを払いたかった。


 そうして薄く葉の茂った林道を抜けると、一陣の風が潮の匂いを孕んで、私の全身を駆け抜ける。


 あー始まった、と思う。これである。


 私の全身を洗い流すかのような海風が、

 私の耳元をくすぐるかのような海鳥の鳴き声が、

 室内で浴びるクーラーの風よりも、風鈴の鈴音よりも、心地よく私の深層領域にさわやかな冷気を運んでくれる。


 頭の中からリセットされる感覚。


 私はそこまで行くと、それまでの疲れも忘れて、田舎娘丸出しの元気な足取りで青々とした草原を揚々として踏み越え、丘の上まで一気に登り詰める。


 すると、見渡す限りの豊かな自然が、視界の全てになった。


 視界の向こうには青く澄み切った大きな海原が右にも左にも広がって、背後にはエメラルド色の森林がどこまでも続き、その向こうに自分たちの住まう人間の居住域がまるでジオラマのように小さくなっている。


 天井はどこまでも続くサファイア色のドームのように高く、鈍足でたゆとう雲間を、その下を、白い鳥が泳ぐようにすいすいと飛んでいく。


 ここには濁った空気はない。

 雑音もしない。


 自然の音と、匂いと、私だけがいる……、

 私だけの場所——、


 のはずだった。


 ふと視界に違和感を覚えて目を凝らすと、その丘の頂上に生えた一本の大きなミズナラの麓に、誰かいるのに気付いた。


 全然別の、極めて自然的ではない色なので、すぐに分かる。


 機械で仕立てられたような白と黒と金色の誰か。


 私は近づいていくに連れ、それが見知った人間であることに気付いて、

 またほんの少しだけ、胸が高鳴るのを感じた。


 誰あろう、華藤 猿彦であった。


 彼はそうして脛を覆うくらいの高さの芝生の中に埋もれるようにして、横になっていた。


 周囲の白詰草の花が風に揺れる。

 私の気持ちと同じように。


 彼は目を閉じている。

 滑らかに息をしている。

 眠っている。


 まつ毛が長く、

 つるんと上を向いて、

 それもまた色の抜けた金色であること、


 見知った人間と言ったことと矛盾するようだけど、


 それは初めて見たような無垢な寝顔だったことに——、

 私は驚いて、おもわず息を潜めていた。


 風とさざなみの音だけが絶えず、私たちの周りにある。


 その隙間を縫うようにして、

 すぅすぅと彼の寝息が届く。


 私の高鳴り出した心臓の音は、

 どうか、どうか、お願いです。

 外に漏れ出ていないでほしい。


 この景色を汚さないでほしいと祈った。


 私はしばらくその寝顔を眺めてから、静かに鞄を置き、スケッチブックを取り出すと、その場に足を広げ、筆を取る。


 しゃっしゃっという鉛筆を画用紙に走らせる音が、それらに混ざった。


 清らかな時間だった。

 感じたこともないくらい、実感があった。


 この世に産まれてきてよかった、なんて、それは大袈裟だけど、決して大袈裟ではない感じ。


 自然と、

 私と、

 彼が、


 同じ時間、同じ感覚に調和されていくような、思考と神経とがぴたりと周囲の世界と一致して、溶け込んでいくような、素敵な高揚感。


 絶妙なタッチで刺激される私の心臓の音は今しがた息を吹き返したかのように鳴り止まず、数週間、惑っていた私の指は、まるでこの時を待っていたかのように——躊躇いもなく動き出したのだった。


 どうしてか、涙が出そうになる。

 私は鉛筆を持った手の甲でそれを拭いながら、夢中になって、筆を走らせ続けた。


 やがて、ぴくりと彼のまつ毛が震えて、間もなくして薄く目が開く。


 別の意味で心臓がバクバクした。


 なんて言えばいいか。


 ええと、ついやっちまった。わり! ……じゃ柴田みたいでぺらっぺらだし、なんかー寝顔見てたらーつい、じゃ晴子っぽい……ってか、柴田と変わんねぇ!!


 あれ? あれれ??

 私の、私の言葉ってどんなだったっけ?


 彼の唇が動いて、私はどうにも目を閉じた。


 ——南無三!


「すごく落ち着くと思ったらさ。やっぱ、君だったか……」


「……え?」


 私は再び目を開けると、まじまじと彼を見ていた。


 まだ微睡んでいるのか、猿彦はとろっとした眼差しをゆっくり細めて、上げかけた頭をまた芝生の上に落として、目も閉じる。


 それは決して私の存在を否定するようなニュアンスではないと分かる。


 むしろ、それは。


 彼はゆっくりとまた呼吸して、甘えるように言った。


「それ、なに? 何か描いてるの?」

「あ——あ、うん! ごめん! あの、私……」

「いいよ。このままでいい?」

「あ、うん——、え、いいの?」

「もちろん」


 私の問いは二、三の意味を孕んだものだけど、彼はその二、三全てを受け入れるみたいに答えた。


「だって——、俺は君にこうして描かれるために、この街に来たのかもしれないじゃん?」


 私はぽかんと口を開けていた。

 猿彦は届かない星空を掴もうとでもするように、サファイア色の天井に手を伸ばして——、


「それが来世の君との接点になるんだ」


 あの選挙のポスターを見てた時よりもずっとアホっぽく、けれど、ずっと……ずっと、痛みに胸を押さえつけたくなるくらい、ドキドキしている。


 心臓の音が鳴り止まない。止まらなかった。

 初めて動き始めたかのようだ。


 なら。


 なら、私は……。


「あ——あの、私、松原まつばら 千歳ちとせ。自己紹介さ、ちゃんとしてなかったと思うから」


 私が息せく乙女のように言うと、彼はふと目を丸くした後で、あたかも恥じらう少年のように上体を払いながら、


「じゃあ、改めて僕は華藤 猿彦。こんなので良かったら、いくらでも被写体になるよ——」


 そう言うや、悪戯っ子のように続けてこう結んだ。


「だから、名前で呼んで?」

「…………」


 私は緩やかに微笑み、平手を突き出すと、


「いえ、間に合ってるんで」


 謹んでお断りし、猿彦は残念そうに再び寝転んで言うのだった。


「あーまだダメかー」


 まだってなんだ、まだって。


 けれど、前ほど嫌な感じはなかった。

 今までの全ては、あなたを描くために、あったのかもしれない。

 もしそうなら、きっと。


 私はきっと、飛び跳ねてしまうくらいに嬉しい。


 それだけで、私は十分だ。

 そう、十分なのだ。

 言葉は複雑怪奇、奇妙奇天烈に入り乱れて——なのに、本当に伝えたい想いはなかなか形にならない。


 けれどその瞬間、私は、確かに、そう思った。

 確かに揺れた。


 その事実だけあればいい。

 その奥ゆかしさが、人間は可愛いのだ。




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