3. 『晴子とニキビの化身』
私の意味深な白昼夢も犬飼くんとのコミュニケーションも、じっくり、それからほぼ一年、なんの音沙汰もなかった。
だから、私は実際すっかり忘れていたし、私の視点においては、音沙汰がないかのように思われるのだけど、晴子の言う通り、始まりは間違いなく、この日だったのだ。
事態というものは沸き立つようには起こらない。
感染拡大する病原菌や遠目に見る津波のように、ゆるゆると進行して、気付くと、避けようもないものになっているものだから。
私の視点で、再び火がついたように見えたのは、この一年後、六月の最初の木曜日だった、というだけのこと。
その日、私はいつものように晴子と並んで、坂を登り、学校への道筋を通って、校舎に入り、晴子とは同じ教室であるから、そのまま二年四組の教室に入った。
私は彼女より二つ前、黒板に向かって一つ左で、教室のほぼ中央にあたる自分の席について、その日もゆっくり過ぎる時間に、若干の苦痛を感じながら、先生を待っていた。
すると、その日、最後に入ってきたのは二人だった。先生と、それに連れられた男子が一人。
見覚えのない顔つき。
金髪だが、不良っぽいわけじゃない。
優しい顔立ちだが、決して臆病そうには見えない。
その時も堂々とした振る舞いだった。
そんな、そこはかとなく正体の見えない感じが、
ほんの少しだけ、気になって私は見ていた。
「華藤 猿彦です。金髪だけど、突然変異によるものなので、ヤンキーでは全然ないです。だから、気にせず仲良くしてくれたら幸いです。よろしくお願いします」
(………? え……いま——)
彼がそうして頭を下げるとクラス内から喝采が上がる。
けど、私は、そんなクラスメイトたちの反応を含め、前述に感じた以上の違和感を覚えてしまって、即座に居た堪れない気持ちでいっぱいになった。
猿彦……と、もうネタバレのように呼んでしまうけれど、華藤くんとも言いにくいので、便宜上、猿彦で通すつもりである。
猿彦の席は当初、窓際一番前の席で、私にとってはとっても観察しやすく、授業中の良い暇潰しができたというところだったが、やはりどうにも、気になって仕方がない……。
突っ込みたい……。
私の中の悪魔が既にブルペンに上がって、投球練習を始めている。ピッチャー、物凄い気迫です。かなりやる気があるみたいですねー。これは期待できそうです。なんて、悪魔に留まらず、実況、解説まで満を持してスタンバイしている。
さて、休み時間になるとさっそく猿彦の席はフランクなクラスメイトたちで囲まれ、それどころか教室中がにわかに活気付いているようでさえあった。
生粋の逆張り人間もとい、人間の皮を被った自他共に認める厄介勢である私は、そうして耳を大っきくしながら、さりとてその盛り上がりを意図して視界から外し、晴子を振り返って、わざと適当なコミュニケーションを取る。
あ、今日、転校生、来てたの? ごんめー、寝てて気付かなかったわー、ごんめー。え、何々の何くんっていうの? の伝説の構えである。
もちろん嫌ってるとかそんなわけではないのだが、しかし、そうすると、なんか負ける気がした。
欲を言えば、自然な流れでそうしたいのである。
例えば何かの作業中、一緒のことをするとか、そういうきっかけが望ましい。
それで、ひとまず私は晴子を連れ立ってお花摘みに行くことにする——、
と、教室から出たところで、フランクなクラスメイトからあぶれた跳ねっ返り男子の一人、柴田が追いかけてきた。
「あれ。千歳は興味なし?」
「うーん。特には」
私は短くひんやりと返して、やり過ごす気まんまんでいたのだが、そんな北風である私に対する太陽のような柴田は、ニヒルに鼻を鳴らすと、馴れ馴れしく私たちの後についてくる。
「ま、あんま千歳のタイプって感じじゃなさそうだしな。ちょっと安心だわ——いや、俺の敵じゃあないけどな?」
「…………」
コイツに私のタイプを話したことはないし、さっきのは、特にあなたに話すことではないという意味である。
そして既に、初登場のそのセリフからして噛ませ感が漂って余りある、完膚なきまでに哀れな男であった。
「柴田は行かないでいいの?」
私の気分を悟ってか、晴子が間を取り持つように言うと、柴田は気前良く私の後頭部に顎を向けて、続けた。
「その前に、気になんだろ? 変な虫になるんだったら、仲良くはできねぇし。それからでも遅くねーだろ?」
私は短く嘆息して言った。
「安心されても、アンタとは付き合う気ないから、安心してー。それに、変な虫なら自分で払えます。今とか。しっしっ」
「ひっで。俺、そこまで言ってねぇじゃん。今日は」
「明日、言われないようにさ。それよか、どこまで来る気?」
私がいよいよ全身で振り返り、渾身のジト目で、そのオレンジ色の頭をしてニキビが程よく乗った如何にもな男を睨み返すと、柴田は恭しく手振りを添えて頭を下げた。
「どこまでもお供します。マドマーゼル?」
「…………」
正直嫌いではない——、
が……(咳払い)……晴子や諸々の手前、私にも体裁というものがあって、
「あー鬱陶しいー」
私はあからさまに顔をしかめると、柴田の身体を押し返すようにして、教室の方に追いやった。
柴田は中学の頃からの知り合いで、日頃からこうして中身のないコミュニケーションを押し付けてくるペラ田チャラ男であった。
私も本気で抵抗しないからいけないことは分かっているのだが、それが高二病とかいう重い流行病の症状の一つに過ぎないこともよく知っている。
よって、そんな男子の太鼓持ちも、お世話も、してあげる気はさらさらないのである。
ほしかったら、もっと、ほら? 本気を見せてごらん? ボウヤ。
と、こういうわけだ。
そもそも、そんなのの相手は、プロだってペイがなければしないのだから、ましてや一般人である私たちには、それ以上の献金なりあっていいはずだ。
従って、まずスパチャなりドンペリなり、相応の誠意を、金目のものか甘いものをよこせと言いたい。それなら、この私だって、微笑んでみせるくらいのことはするだろう。
それが女子生物界における本気の意味である。本気とは金である。私の辞書には載っている。載っていないのなら、お前の辞書はもう死んでいる。
さて、それは冗談としても、柴田には、だから、私にその気がないことも口頭で何度も伝えてある。
しかし、そうするとこの頃は余計に喜ぶのである。
どうしてそんな変態になってしまったのか。
けれども、それで柴田が幸せになるなら、下手に詰んで望みを絶ってしまうよりも、まだ平和的だと思い、私も強く出れずにいるのだった。
それに、この時私には、それら以上に急き立つ思いがあった。
もちろん、猿彦の件である。
トイレの洗面台に向かい、目元の綻びを直しながら、改めて平静を装った心構えで、私は尋ねる。
「ねぇ、晴子?」
「んー?」
晴子は晴子で髪を結び直している。晴子は髪が長いので、それを通常は後ろで留めている。漆塗りで、古風な飾りのついた朱いかんざしが今日も口に咥えられていた。
「猿藤くんだっけ……」
「華藤だっつの……千歳」
「なんか混ざった。とにかくさ、あれ、どう思った?」
「あれってー?」
「あれだよ、華藤くんのあれといえばさ……」
一瞬の沈黙の後、見つめあう私たちの回答は重なった。
「突然変異ってなに?」
直後、私たちの笑い声がオペラ歌手の発声のようにトイレに反響する。
「それ!! 私も思った!!」
「と、突然変異……? 突然変異って?! 普通に、私が朝目を覚ましたら毒虫になってたレベルの超常現象じゃん!! なんで皆スルーしてんの?! 懐広すぎだろ!!」
「それだけじゃないよ、千歳。もし、もしだよ? あれが真面目な華藤くんの渾身のギャグのつもりだったとしたら?!」
「や、やめて、晴子!! 私、もう、彼の顔をまともに見れなくなる!! 転校初日の掴みのためだけに脱色までして……イメチェンですかー? って美容師さんとお話ししてきて……そんなの、健気すぎるから……」
通りすがりの女子生徒に怪訝な顔で見られながらも、それが女子畜生では恐るるにたらず。
私は脇目も振らずに一頻り笑い、けれど次の晴子の言葉に耳をすませた。
「でもさ、まぁ」
「……ん?」
「普通にイケメンだよね……」
「え……」
「…………」
「あー、あぁ……そう、ね。うん。確かに」
確かにその通りなのである。
顔立ちはそれこそ某アイドルグループ事務所最大手にいてもおかしくないほどの見目麗しき優男であるし、それは突然変異のことはさておいても、お釣りが来るくらいのイケメンであると言えた。
私は柴田じゃないけど、晴子の動向が気になってきた。
再度、尋ねてみる。
「え、ひょっとしてさ……晴子、気になってたり、する?」
「千歳。それ、こっちのセリフ」
晴子は髪留めを再開しながら、にべもなく言う。
私は面食らってしまう。
「柴田に嘘つくしさ。もう確定ってか……」
「え……」
「いつか話してくれた、夢の人のイメージまんまじゃん、彼。私の方が——だから、びっくりしたよ。それで呼び出したのかと思った。……違うの?」
晴子は、私よりも私のことを分かっている。
正確すぎて、時々、本音を見透かされてやしないか、怖くなるくらいに。
さまざまな想いを抱えつつ、若干アンニュイな気持ちで教室に戻ると、柴田が周囲のフランクなクラスメイトに混じり……もとい押しのけ、猿彦に話しかけているところで、ふと私と目が合うと、またそうして気安く手を挙げてくる。
私が多少淑やかめに手を振り返すと、この時、猿彦も同じようにこちらを向いて、柴田との話を続けるので、私は全てを察した。
どうやら私にとっての都合の良い自己紹介の機会は、奴の余計な一手間で、無事頓挫してしまったらしいことを。
私は机に向かうと、中から柴田くん人形を取り出し、まち針を突き刺してやった。
そんなものは持ってないが、妄想でやった。




