15. 『麻倉とのこと』
「私、まだ処女なんだけどさ……いる?」
麻倉がそう言うと、俺は正直嬉しくなった。
観念的な話はともかく、身の回りにいる気の置けない異性に、こんなはっきりアプローチされて、嬉しくならない奴はいないだろう。
と、同時にやはり引け目も覚えたのは事実である。
嬉しくなっていいのか。俺は散々この子に甘えてきた。今更……手のひらを返したみたいに、その好意を受け取って良いのか。
そんなこの期に及んで具にもつかない気持ちが、次の言葉に顕れた。
「ちょっと、考えさせて」
そもそも今、この場で受け取るというわけにもいかない。そんな気持ちもあったが、麻倉はおそらくそれを消極的に判断した。すぐに返ってきた小さな言葉からも、俺はそれが分かった。
それが嫌だった。
「うん……ご、ごめん。節操なさすぎだな、私も」
「違うって」
「ううん、いいよ。分かってるから」
いいや、麻倉はまだ分かっていないのだ。それはもちろん伝えあぐねてきたこの数年間の俺の態度にも原因がある。
良い具合に決着がついた日だ。俺もはっきりさせよう。
そして気持ちが反転する。
自分ではない。麻倉に笑顔でいてほしい。
今日は、そんな数年分、待ちかねた幸せな気持ちになって、安心しながら眠りについてほしい。
その事に照準が定まる。
心の中で決めた。
「織姫の名前出すと、いつもそんな顔するよな。お前さ、自分がアイツより下だとかつまんねーこと思ってんだろ? 言っとくけど、全然、そんなことねーからな」
「……いいからさ!」
今度は少々食い気味に、麻倉は言った。
「分かってるから。言わないでよ」
「分かってねぇよ……」
「じゃあなに? 今だって、本当は水瀬さんの方が良いくせに。本当は水瀬さんが良かったって思ってるでしょ? ——分かってるから。白上がどれだけ水瀬さんのこと好きかくらい。私はそれでもいいんだって。だから、もうこれ以上傷付けないでよ……」
「なら、俺の性格も分かるだろ? 中坊の頃から、並び立つくらい大切だから、お前の言うことは聞いてたんだろ」
麻倉が少し目を見開いて、こちらを見た。
俺は笑う。
「あのさ。中学の時、屋上に来てたじゃん? 俺、それを追い払ったりしてないだろ。つか、本当に嫌だったら、そもそも屋上通わないから」
麻倉はしばらく硬直したのち、強く訴えるように言った。
「……したじゃん!!」
「え?」
「したでしょ! 何度も、うっぜーみたいな顔して、私が来るとつまんなそうな顔した!!」
「……いや、でも追い払ったり」
「したよ!! 一人でいてーの、って!! 横に座ったら、露骨に避けたりもした!! 私、あれ本気で傷付いたんだからね!!」
「ま、待てって。本気ではやってないだろ?」
「本気……本気って?」
麻倉はもうその目に涙を滲ませている。俺は想定外のことに困惑する。
「え、だから……本気なら、殴ってでも踊り場に戻したりするだろ? あとは、そうだな、お前が来たら屋上から中に戻るとか。そもそも屋上行かなくなるとか、そういうことするだろ? 俺、そこまでしてないだろ?」
「……じゃあ、なに? 本気じゃなかったってこと?」
「そう……そうだよ?」
「どういうこと? ……もう訳わかんない」
終いにはそうして顔を覆って泣き出してしまった。
俺も混乱している。
なんでこうなる。そうじゃない。
俺は額に人差し指を突いてしかめる思いで考えて、考えたのち、改めて意を固めると、その肩に触れた。
頭に手を乗せるのは、流石に勇気が出なかった。
俺は言う。
「悪い。すまねぇって」
「アンタがはっきりしないからいけないんじゃん……」
「本当、その通りだ。悪かった」
「どういうこと……?」
俺は今度は眉間を指先で強く押すような心境で、一言一言、慎重に言葉を選んで答える。
「俺さ、お前の渋々付き合うみたいな、そんな顔が好きだったんだよ。仕方なく世話してやってる、みたいなさ、そんな関係が好きだったんだ。一年の時、手やったときも、二年になって屋上に来るようになった時も、お前だったから、良かったんだよ。だから、本当は全部、嬉しかったんだ。甘えてたんだ、俺、お前に」
「じゃあ、水瀬さんは?」
「織姫は……もう既に遠いとこにいたからな。あとは俺が踏ん切りをつけるだけだった。けど、そうしたら、麻倉とのこんな繋がりも終わると思った。奇妙な縁ってのかな、屋上でさ、二人でいるの、本当に好きだった」
「……つまり。え、白上、私にベタ惚れだったってこと?」
「……そう。煙草吸って、吐いた時あったろ?」
「うん」
「あん時、本当はめっちゃ興奮してた」
「……それは普通に引くわ」
言葉ほど麻倉は嫌そうではなく、口元も緩んでいたが、俺は慌てて続ける。
「吐いたことじゃねーよ、背中撫でたとき! すんごい女の子を感じたっつーか……」
「分かってるって! 言わなくていいから、はずいなもう」
麻倉は一度視線を外に逸らして、短く深呼吸をすると、鋭く真芯を捉えるように、俺の目を見上げる。
「ねぇ、今もしたい?」
「したい」
「うん。じゃあ……して」
俺は言われるがまま、その背に腕を回す。二秒くらいのラグがあって、麻倉もゆっくり馴染むように俺の身体を抱き止める。
温かい。のちに全裸でこれを共有した時も思うのだが、人肌の温もりは気持ちに作用できる唯一の医療手段だと感じる。
触れること。指先であれ、大切なことはそれだ。
手を治療された時もそうだった。
その瞬間、俺はもう麻倉のことが愛おしくてしょうがなかった。痛烈に思う。でも、言葉の妙だとも思う。俺は愛おしいと感じると同時に、この子をめちゃくちゃにしたがってもいるのだ。
それはつまり、殺す、ということにも果てには通じている感情だろう。
愛すること。殺すこと。
それはきっと同じ色をしている。
誰しも自分のものではないけれど、きっとどこかで、誰もがそうして、そうされたいと思いあっている。
殺しても構わない。殺されても構わない。
その至った気持ちこそが、愛することの正体なのだ。
生きることとは正反対の刹那的な情況。ただ生かされているだけの人には一生、見つけられない、無垢なる魂の見せる真理の光景。それだからこそ、人は一方で愛を嫌うのだ。覚めない子供は、頭でっかちのバカばっかだから。
生きることがそんなに大事か?
命がそんなに惜しいか。
どうせ最後は等しく皆、息絶えるのに、そんなにいつまでも生きていたいと思っているのかよ。
虚しすぎる感傷だと思った。
そしてこの世界はそれをばかり推し進めてくるから、それに負けてしまう人もいる。
けれど、麻倉はそれをさせてくれる。
俺のために。
それだけのために。
そんな女の子を愛おしく思わないわけがない。
人だって動物だ。
大人になろうなんて思うな。
管理なんて似合わない。
命尽きるまで誰かを愛せ。
人間なんて、それだけでいいんだ。
俺はその身体をキツく抱きしめていた。細胞の一つから鳴り喚くような本能は、紙一重のところで堪えているだけだ。俺はもう押し付けている。
「麻倉……」
「凛って呼んで」
「凛」
「なぁに、結斗」
「処女ほしい。つか、人生ごと全部、俺にくれよ、凛。そんで俺の子供産んで? ずっと隣にいて」
麻倉が笑う。
「飛びすぎだろ……まぁ、いいけど」
「マジかよ。超嬉しい」
「……えっろ」
「知らなかった?」
麻倉は少し身体を離すと、俺を見上げる。
「……ううん。知ってた」
そう言って、唇を重ねる。少しして離すと、息の届くところで凛は妖艶に笑って言った。
「嘘つき。でも、そんなところが嬉しい。ありがとう」




