13. 『チャイルドフーズエンド』
高校に上がってから、俺はまた荒れた。
今度は普通に退学もあるが、俺は正直、もうどうでも良くなっていた。半ばそっちの方がいいんじゃないか。
すぐにそう思った。
だって、もうずっと苦しいだけだ。織姫のことを考えるのは、もはや苦行に近い。
新学期が始まって一ヶ月が勝負とはよく言ったもので、夏が来るよりずっと早く、梅雨が迫る頃には周りはもう付き合い出した連中でいっぱいだった。中学の時はあれほど敬遠されていた話題だって当然のように上がるようになる。
織姫も、その一人だった。
俺が何かするまでもなく、織姫が二年の甲斐田 奈々樹という男と付き合い出した、という話は入学して間もなく流れて、最初期こそ同級の男子も放っとかなかったのだが、それで次第に熱りも冷めていった。
甲斐田はなるほど、第一印象で気品を感じさせるような男で、真面目そうだが、堅物ではなく、しっかりとコミュニケーションもとれる、出来る優等生のお手本のような人格者だった。
おまけに家も裕福で、地盤からして俺とは何もかも違う男だ。
俺はもう織姫のことが、好きなのか、嫌いになっているのか、分からなかった。
自分がしていること、してきたこと、高校の連中の上辺だけをなぞるような会話、童貞を卒業して、とたんにイキリ始める様、それぞれ、目に映る全てにうんざりして、ひどくアホらしく感じた。中学だとか、高校だとか、そんな線引きが、けれど時間の流れに抗えない人たちには、後生大切なことなんだろう。本当にアホらしい認知の仕方だと思うが。
自分を持たないそんな何事も"普通"が基準の人の群れは、俺からすると、さながらお化けか何かだ。俺自身が思う、我を主張してきた人間とも、生き物とも違う、別の何か。
それはふとすると、あるいは幼い子供なら恐怖さえ覚える光景のようだったが、その中で、織姫は息づき、俺は孤立することでどうにか自我を保つ。
織姫は、かつてそれを演じていると、はっきりと言ったことがある。そこにいるのは本当の自分ではない、別の誰かなんだと。
つまり、彼女とて、本当は違うと感じながら、息づいているように見せかけているだけ、ということになる。
しかし、本当の本当にそうなのだろうか?
少なからず、世界は別の誰かである織姫を大いに認め、受け入れている。その事実はおそらく、その人を知る誰にとっても揺るがないものだろう。
それをひっくり返しても、顕すべき本当の自分の価値とは、何だろうか。
例えば、家と学校で、友達と恋人の前で、一人の時と誰かといる時、遊んでいる時と仕事をしている時、そうして切り替わったもう一方の人格を偽りだとして、そう思おうとする、そんな自分だって、一つの自分だろう。
そうして本来の自分を隠しながら、上手く世間を立ち回れる器用さこそが、織姫を織姫たらしめている要素に他ならないのではないか。
不器用ならば、それが本当だろうが偽りだろうが、そもそもそんな器用にはいかないものであり、そんな器用にはいかない自分をこそ、認めて、上手く世界に落とし込んでいくものだろう。
実在する世界においての、本当の自分とは。
その真価はなんだろう。
小学生以前の俺なら、そこには無尽蔵の価値があると断定して思えた。
けど、今は違う。
今、一つだけ言えるのは、それはきっと、わがままなのだということ。
成績と、内申と、顔や体型、その他幾許かの要素で、一見清廉に正された学校という社会において、
俺が俺の我を突き通すこと。
織姫が織姫のままいること。
それは、俺と織姫だけが満たされるためだけの、ひどく子供じみて、極めて独善的なわがままなのだ。
だから、織姫は大人になるために、わがままをやめた。
その決断を三年も以前に下して、自分を取り巻く世界のための自己形成に努力したのだ。
それに引き換え、俺はいったい何をしてきたんだろう?
俺は、このままでいいのか。
俺のためにも、織姫のためにも。
変わらなければならないのではないか。
中学の三年間が、織姫がそうした三年間だったとすれば、俺の三年間はさながら、そう、延命だった。
あの日終わるはずだった世界の、延命。
それはもうやめにして、選択すべきなのだ。
いい加減に生殺しみたいな生き方はやめて。
俺も、この世界も——。
◯
そんなある日、ばったりと再会して、昔年の想いが噴き出した。
何かに導かれるように何とはなしに寄った放課後の教室で、織姫は隅の壁に押し付けられるように甲斐田とべったりキスを交わしているところで、俺はそれを見止めた瞬間、目の前が真っ赤になった。
俺が鬼の形相で近づくと、二人はとっさに離れ、織姫が俺に向かって何かいう。けど、俺の耳にはもう何も聞こえない。俺はその勢いのまま、甲斐田の顔面に渾身の一撃を加えて、殴り倒すと、織姫との間に立ちはだかった。
近くに人気はなく、机が少々やかましく倒れたところで、急ぎ、駆けつけるものはいない。
俺の固く握った拳には甲斐田の鼻血がついていて、じんじんと鈍い痛みを放っていた。その足元で甲斐田が呻き声をあげる。多少、覚悟していた反撃もなかった。
パンチ一発でKO。張り合いもない、情けねぇ野郎だ。
こんなのに織姫がいつまでもついていくとは到底思えないし、所詮一過性のもので終わることはそれだけでもすぐに分かる。
けれど、何も満たされない。
殴っても、そうして倒れ伏せった男を見下ろしても、自分の身体に煙草の火を押し付けてみても、酒を煽ってみても、ヤンキーの先輩に連れ立ってみても、全部わかってて代わりに麻倉と話していても、何も、ストレスが解消されたことなんてなかった。
そりゃそうだ。
本当に殴りたいのは、こんなインポ野郎じゃない。
俺が本当に殺したいのは?
俺が本当にキレたいのは——。
「なにコイツ……ふざけんなよ、いきなりっ!!」
「うるせぇよ。どいつもこいつも、バカみたいに盛りやがって——織姫」
俺はしかし、男は無視して、振り返ると、織姫を見る。
きっと初めてだった。織姫を睨みつけるなんてことは。
織姫も何か覚悟めいたものを決めている、そんな良い面構えだった。
「歯、食いしばれ」
「…………」
織姫は何も言わず、全てを受け入れるように目を閉じ、俺は腕を振り上げた——、
「………っ」
けれど……。
けれど……、それでも、やっぱり、織姫を殴ることはできない。それだけはどうしてもできなかった。
俺の拳は力無く紐解かれると、その寸前で停止して、織姫の頬に弱々しく触れるに留まっていた。
それでも、俺は。
足掻く?
どうすれば?
無理だ。もう。
織姫の気持ちは……。
瞬間的に二、三の方向に思考が巡り、その一つを絞ろうとした時、脳裏に麻倉の声がした。
諦めないんでしょ?
大丈夫だよ。白上ならやれる。
今度こそ上手くやれよ。
幼馴染の意地、見せてやれ——。
「殴らないの?」
今度は俯いた俺の頭の上から織姫の声がした。
聞いたこともないような冷徹な声だ。
俺は震えた声で返す。
「……殴りてぇ」
「いいよ。殴りなよ。それで結斗の気持ちが済むなら。私は耐えられる」
「…………」
「強くなったと思ってた。私のこと、思い出にして、強くなってくれるって。——でも、子供みたいだね、結斗」
「…………」
「いつまでも子供みたいなことして、上手く行かなかったら駄々をこねて……そんなことばかりなんだよ、この世界。みんな、それを噛み締めながら、諦めながら、それでもどうにか理性を保って生きてるんだよ……自分が歯車の一つに過ぎないって、分かってても。そうやって世界って回ってるんだよ。楽しいことばかりじゃない、辛いことも哀しいことも踏み越えて……あぁしょうがないかって、切り替えて!! 少しでも楽になれるように探して、その辛さ、寂しさ、哀しさを忘れられるようにって、毎日、血の涙を隠しながら笑って生きる努力してるんだよ……!! 貴方だけが、その痛みを知ってるんじゃない!! 私たちだけが特別なわけないじゃん……っ!! この世界の誰も……予定調和でできた物語の、主人公でもヒロインでもないんだから」
言葉を重ねるごとに強まっていった織姫の口調、俺が聞いたこともないそれは、まるで悲鳴で、そして慟哭だ。
傷をひた隠しにして生きてきた者の、蛹のまま脱皮せざるを得なくなって、どろどろの、柔い表皮のまま羽根を与えられ、その狭間でなんとか形を保とうと——もがき続けてきた者の。
大粒の涙が、きつくしかめた双眸から止めどなく溢れて、俺を憎悪するように見つめていた。
最大にして最後の敵を前に、俺はもう為す術もなかった。
最後の敵、それは織姫そのものだった。
悪い、麻倉……。
俺は心の中で一言呟くと鼻から深呼吸。
意を決して——、
でも、安らかに力を抜いた。
「そっか。もう、いいんだな?」
「……!」
織姫の目が見開かれる。
「俺がいなくても。お前は、やっていける」
「……あ」
「お前は俺のものじゃないから。俺は……ずっと、そうであってほしかったけどさ。決めるのは、お前だ。今、お前が決めろ」
「…………」
織姫の手足が震えていた。
長い沈黙があった。
時間にして、どのくらい経ったかも知れない。
その時だけ、動き続けていた時間が止まったようにさえ思えた。
俺は待った。
やがて織姫の唇がゆっくり開いて、言った。
絞り出されたそれは、小刻みに震えていた。
世界で一番、儚い音だった。
「……うん。もう……いい……っ」
俺は目を閉じて静聴する。
それで、一言を返した。
「分かった」
「……ゆ、結斗?」
「もう気安く呼ぶな。迷うぞ。お前はお前の道を進め」
「あ……ま……ねぇ、結斗、私——!!」
俺は織姫の言葉を待たずに、その華奢な身体を抱きしめた。
抱きしめた瞬間、その柔らかさに驚いた。
細さに驚いた。
こんなやわいもん殴ってたら、きっと取り返しのつかないことになってた。
ああ、本当に殴らなくてよかった。
最後に、その気持ちを思い出せてよかった。
俺は言った。
「今までありがとう。誰よりも愛おしかった、織姫——」
さよなら。
俺はそれだけ言うと、いつの間にか入り口にできていた野次馬の、その生徒や教師らの間をすりぬけ、追随を掻き分けるようにして、その場を後にした。
教師なんかは流石に肩を掴んで止めようとするものもいたが、俺は軽く振り払うと、凄んで終わらせた。
学校なんぞより大切なことは腐るほどある。お前らが神様じゃねぇんだ。止められると思うな、クソ教員。
そう言って、俺は学校を去った。




