12. 『自分騙し』
合格発表の日も同じ高校を受けた者同士で朝からバスを使い、電車を使って、途中緊張で嘔吐するやつの世話なんかもしたりしつつ、志望校に着くと、校舎の前庭に高々と掲げられたホワイトボードを見上げた。
そして、合格を知って飛び回るやつと、そうでないやつとに別れ、そこからは前者が後者をひたすら励ましたり、慰めたりしながら、学校に行って報告するという前日以前から想像していた通りの流れになったのだが、けれど頭の中のキャンバスに描いたままというわけには、やっぱりいかなかった。
やっぱり、というからにはそう、俺自身もそれとなく気づき始めている。
織姫がいみじくも言ったこと。
——七夕の織姫と彦星みたいだね。
それは残りの364日を待ちかねたという恋しい気持ちの表現だったのか、それとも、そんな風に364日を細々と離れていくような、既にして末期を悟った恋人たちの気持ちの表現だったのか。
この時、俺はもう気づき始めている。
天の河に分たれたみたいに、俺と織姫とは、365日を共に過ごす運命にないということに。
灰色の掲示板の上に自分の番号を見つけたとき、どちらかというと信じられないというか、困惑の気持ちの方が強くて、すぐには喜べなかった。
神様の気まぐれか、あるいはその先で突き落とすつもりの悪魔の仕業かもしれない。
そもそも大事なのは、その高校に受かるというよりも、織姫と同じ高校に受かること。織姫も受かっていなければ、そこに自分の番号があろうが、それ自体に意味はない。
そうして織姫の横顔を伺う時の方が、なぜか緊張した。
悪魔の仕業だとすれば、ここだろうと思った。経験則から染み付いた思考的退避行動のようなもので、だから、その時も、梯子を外されるんじゃないかと疑ったのだ。
前庭の木々の、舞い散る小さな葉を浴びながら、その頬に涙が伝うのが見えた。一瞬、最悪の結果も想像したが、そうではなくて、それは歓喜の涙のように見えて、俺は小さく尋ねる。
「……あった?」
「うん……」
彼女の口からそこまで聞いて、初めて、俺は安堵した。だって、それ以上に信頼のおけるソースなんて、俺にとってはこの世にない。
織姫が否定していれば、絶望に突き落とされていただろうが、しかし肯定したのなら、それは神にだって覆せない絶対的な確定事項だ。
そして、織姫は肯定した。やっと報われたのだ。安心していいんだ。もう世界にだって裏切られることはないんだと、思った。
けれども、神は更に巧妙である。
俺が次に何か言うよりも早く、視界の外から別の合格した女生徒がやってきて、織姫にその気持ちのまま飛びついて、おめでとうを繰り返す。
俺も気持ちは同じだったから、抱きつきはしないけど、同じくらい破顔して、自分の番をゆっくり待つことにして、その様子を見ていた。
織姫も俺を見て、それを察していたと思う。
しかし、その女生徒が次に放った言葉が、俺を硬直させた。
「やったね!! これで、あの先輩と同じ高校いけるじゃん!! 水瀬さん、本当におめでとう!!」
その瞬間、そしてその後も、俺がどんな顔で不合格者を励まし、慰め、どんな顔で織姫と応対できたのか、よく覚えていない。
頭は真っ白で、もしかしたら聴き間違えか何かの勘違いではとも思うのだけど、とにかく何度も、何度も、頭の中ではその一言を反芻していた。
時間は止まらない。
個人の都合で、止まってなどくれない。
動き続ける時間の世界において、たった一つの歯車だけが停止したりすることは、隣の歯車が許さないように、俺は無意識下でやはり時間に合わせて動き、世界の調和を保つために、歩きたくなどなくても、歩いた。
途中、その場に崩れ落ちることができたなら、何か、変わっただろうか。
中学に着く頃には大分落ち着いてもきて、思考の上では、冷静に考えられるようになっていた。
今度も、そういうことか、という感想が一番先にあった。
いつもそうだ。
俺の世界の神様は、願望の成就と絶望を同時にくれる。
まるでそうすることで、言い訳すらさせまいとするかのように。
ある意味ではもう慣れ親しんだ光景ではあって、そうなると俺はすごく、すごく冷静でいられたのではないかと思う。
何事もなかったように慎んで、周りを祝福できていたのではないかと思う。
そう思いたいだけかもしれない。ぎこちなさはあったかもしれないし、同行していた誰かでも、たまたますれ違っただけのサラリーマンでも、OLでも、その歩調のズレに、どこかに気付いていた人はいたかもしれない。
でも、そういうとき、人は常に一人だ。
都合良くやってきて、問題を解決してくれる人なんてのは現れない。都合良く気付いて、どうしたの? なんて優しく声をかけてくれる人なんてのは現れない。
第一、どうしろというのだ。
どうすれば、助かるのだ。
この空虚さを、どうすれば埋められる。
薄く、俯瞰して見るに、初めて死にたいと思って電車が来るのを見た。駅の階段が突然崩れて、俺をその重みでぐちゃぐちゃに潰してくれればいいのにと思った。飛び出ることを考えて車道を見た。あいにく、あまりトラックのような大型車は現れなかった。
死にたい、と言う気持ちなんて、そんくらい身近なものだと、俺は知った。思いつけば、凶器はどこにだって、あるのだ。
今日だって別に、構わない。
あの日に心中してたって、構わなかったのだ。
いや、これなら——こんな気分を味わうくらいなら、いっそのことあの日、一緒に死ぬことを選択しておけばよかったのだ。
教師に報告を済ませ、それぞれの教室に戻る廊下で、麻倉と会った。
向こうも向こうで、別の高校から戻ってきたところのようだった。
俺たちは互いに存在に気付きながらも、何も言い交わすことなく、すれ違うだけで終わった。
それから少し期間を空けた明くる日、約束してたみたいにまた、屋上で遭遇する。
「……タバコ、やめたんじゃなかったの」
「知らん。暇つぶし」
挨拶代わりにそれだけ言って、俺は麻倉の方を見向きもせずに再び煙草を咥えようとした、その時だった。麻倉はぱっとそれを奪い取って、
「あっ、なにす——!!」
見様見真似で自分の口に押し当てるようにすると、勢いよく吸い込み、盛大にむせ返って、屋上の隅に走っていったかと思えば、終いには反吐まで漏らした。
俺は呆気に取られながら立ち上がり、麻倉が見ないでと言いながら、手で距離を作ろうとするのを押し退けて、落ち着くまでその背中をさすった。
もう何年も前のことでも、俺の中にはまだ小五の時のイメージが記憶に残り続けていたのだろう。
けれど、そうして想像していたよりずっと、その背は小さくて、やわかった。
「……信じられない」
数分しても、麻倉は青白い顔のままで、正常な空気を求めるように空を仰いでいた。
一方、俺は麻倉が放り捨てた一本を見つけてきて、手で埃を払うと、躊躇いなく続きを吸い始める。
「ちょ、嘘でしょ?! 信じられない! あんた、マジで?!」
「高いんだぞ。勿体ねーだろ」
麻倉が力無く首を振る。
「……うーわーありえねー。それもありえねーし、高い金払って、よくそんなもん吸う気になるね。いや割とマジで引くわー、脳に絶対! なんか問題あると思うわー」
「……で、何しにきたんだよ」
俺がイライラして聞くのと、予鈴が鳴るのはほぼ同時だった。
「おら、行けよ。鳴ったぞ」
「白上は行かないんでしょ」
「別にもう授業とか関係ないじゃん」
「そういうこと。私にももう関係ないじゃん」
そう言いながら居直すのをみて、俺はもう何も言う気にもなれず、ため息で返事をする。
次いで、麻倉が再び言った。
「なんか、言ってやろうと思ってきたんだけどさ——」
「あ?」
「さっきので全部忘れた。……あー、そうそう。合格、おめでとう」
「あー、ありがとうございますー。麻倉もな」
「良かったじゃん。これでまたもう一ラウンド踏ん張れる」
「……本気で言ってんのか」
「諦められないんでしょ?」
俺は純粋に驚いて、麻倉を見た。
思えば、麻倉の顔をこんなに近くで見たのも随分と久しぶりのことだった。
やっぱりそれは記憶にあったものよりもずっと、ずっと可愛らしく、微笑んだ女の子らしい表情だった。
「大丈夫だよ。白上ならやれる。今度こそ上手くやれよ。幼馴染の意地、見せてやれ——」
しかし、そうは言っても、きっともう心は折れていたのだ。
それを折れてないように言い聞かせて、見せかけていただけで。
次は上手くいく。
それがダメならその次は。
それもダメならそのまた次は。
そうしてあと何度、心を折れば、俺の気持ちは織姫に届くのだろう?
そんな繰り返しに俺はもう——とっくに折れていたのだ。




