11. 『冬のある夜』
二年にあがると後輩ができ、明らかに周囲からの注目度が、その毛色ともいうべき何かが変わる。
ヤンキーがモテるというのはどうやら本当らしく、はっきりと女子から声をかけられることが増えたし、遠巻きに見られる傾向が強くなった。
告白やラブレターを渡されることも度々あり、中には使っている鞄を交換してほしいなんて、男子からしたら謎めいた相談もあった。
それ自体は決して悪い気はしなかったけど、当初の狙いとは大分ズレている、いや多分、もしかしたら、これも織姫の狙いの一つなのかもしれない。
こうして自分以外の誰かをさっさと見繕えと、織姫ならそう思っているかもしれない。
一方、織姫は生徒会に入り、俺とは正反対に優等生の地位を名実ともに築きつつあって、正直、俺は迷っていた。
先輩のヤンキーたちと連むのにも飽きてきて、屋上で一人、煙草を吹かす時間ばかりが増えた頃、代わりに麻倉がよくやってくるようになっていた。
屋上へのドアは鍵がかかっていて開かないようになっているのだけど、俺は鍵の壊れた踊り場の窓を知っていて、以前そこを通り抜けるところを見つけられてからというもの、煙草を吹かしていると決まって麻倉が現れるのである。
「またいた」
「なに? なんか用?」
ペントハウスの壁にもたれて座り込む俺の、嫌気を隠そうともしないつれない返答は無視して、麻倉は辺りに散乱する吸い殻と、空き缶を巧みに避けながら、辿々しく近づいてくる。
「うわ、酒もやってんの?」
「……シカトかよ」
「まだ残ってる? ……ちょっとちょーだい」
「飲みたきゃテメーで買ってこいよ」
麻倉が正面に突っ立ったままなので、俺は顔を逸らしながらそう返して、副流煙を撒き散らしたが、高層をよく流れるビル風で、紫煙は色がついたとたんに吹き消されていく。
その気流と混ざるように、麻倉がため息をつく。
「タバコってそんな美味いの?」
「知らん。暇つぶし」
「ふーん」
俺がつまらなさそうに言うと、麻倉もつまらなさそうに返しながら、ちょこんと隣に腰掛ける。
俺は警戒して、腰を浮かせて少し離れながら、再度尋ねる。
「——なに?」
「そんな、嫌がんなくてもいいじゃん。流石に、ちょっと傷付くわ……」
「嫌だよ。一人でいてーの。だから、ここにいんの。分からない?」
「なんで?」
理由は自分でも分かっている。けど、それをコイツに話す義理はない……いや、あるだろう……十分すぎるくらいあるだろうけど、俺は少し考えた後、また煙草を咥える。吹かす。
「……分かんね」
「はぁ?」
「分かんないからここにいんの」
「意味不明。……バカ?」
「うるせぇなぁ。喧嘩売ってんのか。今、機嫌わりぃんだどっか行けよ」
「別にここ、アンタの場所ってわけじゃないし」
「あのさ」
俺は気怠く項垂れた首を持ち上げると、いつも同性の生意気な奴にするように麻倉を睨めつけて、煙草の火をその顔に向ける。
「女だからって何もされないと思ってる?」
俺は一度起き上がって、その目の前に座り込むと、バンと勢いよく麻倉の顔の直ぐそばの壁面に、反対の手のひらを打ち付けた。
この一年で体格差にも大分開きがある。それだけで、麻倉はもう退路を失う。
麻倉は少し怯んだあと、潤んだ目で、俺の目をじっと見上げた。
「…………」
俺は人差し指と親指で画家が筆を持つように煙草を摘んで持ち上げ、眺めながら説明する。
「たしか千度近くあるんだっけ? これ。剣山で刺されてるみてーに痛くてよ、皮膚が溶けるって感覚がわかる。で、その傷は消えねー。教えてやるよ。お前、ムカつくし」
「やったことあんの?」
「見て分かんねー?」
変わったのは体格や髪の色ばかりではない。俺の手の甲や腕周りには根性焼きと呼ばれるその痕が明々にして点々とついていた。
自傷癖みたいなものだ。腹の立ってどうしようもない時や、時には周囲への威嚇のために、実に愚かな行為だが、自分で何度となくつけた。
ふと麻倉の、色白な細い手足に視線を落とすと、それが少し震え出しているのを見て、俺は小気味良く笑う——、
と、壁につけた手を退け、煙草を人差し指と中指の間に持ち直した。
「ビビってんじゃん。クソだせぇ。アホか。つけるわけねーだ——」
「ねぇ、それ、水瀬さんはなんて言った?」
麻倉の切り返しは的確だった。
俺は即座に笑うのをやめて、ただ目の前のクソ女を再度睨みつけた。
今度は本当に、火をつけてやろうかと思案した。
麻倉はさっきまで震えてたのが嘘みたいに、しれっとして顔を逸らした。
「……すげえ顔だな。今にも泣きそうに見えるわ」
「……やめろ」
俺が唸るようにして、さっきまでと同じように彼女の隣の壁に背中をつけ、腰を落ち着けると、麻倉はあらぬ方を見たまま言った。
「悪い。ひょっとしたら、と思ったんだけど、言いすぎた」
「…………」
結局のところ、そう、麻倉の言う通りだ。
俺はそうして織姫を殺せず、かといって忘れることもできずに宙ぶらりんでいる。
あの日から、選択なんて、何一つ、していないままなのだ。
目の前の、こんな俺に今なお構ってくれる女の子に対してさえ——。
そのことにずっと苛ついて、だから、ずっと苦しいのだ。
長い沈黙のあとで、麻倉は大きくため息をつくと、立ち上がる。俺は来た時と同様、視界に気を遣って目の前を見たまま、すかさず言った。
「あのさ。お前、それ、男子の前ではあんますんなよ。見えるぞ」
麻倉は俺の発言は無視して、言った。
「水瀬さん、○○校受けるって」
俺は今度こそ、そちらに振り向いて、きちんと見据えた。
「……は?」
体操着のハーフパンツをスカートの下に履いた麻倉が、俺の顔を見下ろしながら悪戯っぽく笑う。
「白上次第だよ。それだけ。大人ぶってさ、だらだらこんなん——」
麻倉は言いながら、足元のチューハイの缶を蹴り飛ばした。
「——やってんなよ!! 似合わねーっつーの!!」
俺は釣られるようにして、久しぶりに笑った。
けれどチューハイの缶はあまり持ち上がらず、少し跳ねて、辺りにアルコールの液体と、その臭いをまきちらしただけだった。
「うわっ、全然飲んでないじゃん!! めちゃかかったー!!」
「これから飲むとこだったんだよ!!」
「無理して飲んでんじゃん、絶対!! あ、待って。え、もしかしてさ、機嫌わりぃってそういう……」
麻倉の表情は真剣だった。
そして、俺はバカで単純だった。
◯
やることは決まった。その日から俺は勉強を再開した。
といっても、最初はもうどこから手をつけたらいいか分からなくて、部屋の押し入れを引っ掻き回して、引っ張り出してきた小学生のドリルからやり直した。
担任に頭を下げて、同級のインポ野郎に笑われたりもしたが、真剣さが伝わったのか、放課後、個人的に観てもらうこともした。そのうちにクラスメイトも少しずつ手伝ってくれるようになって、
携帯端末も普及していたから、家ではそれも使って、分からないことは何でも調べ、頭を抱えながら理解できるまで何度となく読み込み、年度ごとのテストも取り寄せて、レベルごと出来を確認した。
ちなみに俺のそんな姿を見て、初めて母が泣いた。
煙草を吸う時間や悪友と遊びまわる時間が減っていく一方で、一人、机に向かう時間が圧倒的に増えて、気分転換はピアノで済ませるようになった。
元々音楽は好きだったし、これだけは……手放したら何もかも失ってしまうようで、続けていた。
二年の二学期末になると、内申のために髪の色も黒く戻し、年が明けて、三年に上がる頃には、俺は付き合う友達からして変わっていた。
最初はその年の担任や生活指導の望塚と頭を下げて回ったが、内申のため、部活にもまた顔を出すようになり、当たり前の学生生活の一員にすっかり馴染んできた。
そうしてみれば、こんな生活も悪くない。
気が弱いと思っていた同級の生徒は、その分仲間意識が強くて、一度その輪に入れてもらえればとても良くしてくれたし、内容が理解できてくれば、テストはその力試しとして楽しくなり、授業や実習の分からないところを教え合ったり、筋肉的な意味合いで力の足りない部分を俺が補ったりすることもまた楽しかった。
久しぶりにやったスマブラはもう世代が変わっていて、画面が綺麗になったのに加え、キャラが多く、俺はボコボコにされた。
◯
中学校の校舎は反L字型の建築物で、折れ曲がった内角の部分は一階が昇降口、二階、三階は広い何もない空間になっていて、それぞれの学級の教室に面した廊下に繋がっている。いわゆるピロティという広場だ。
何かのイベントがあるとここで支度をするようになっているのだが、この三階にはたまに音楽室から運び出されたグランドピアノが置かれていて、俺は見掛けると演奏をして気分転換をしていた。
家にある古いアップライトでは出ない音が楽しめるし、こんなグランドピアノなんて弾ける機会は滅多にない俺にとっては大変有り難く、中学生活で染み付いた習慣みたいなものである。
年齢相応な拙い演奏だが、たまに観客も寄り付いた。
その日もそれなりの数がいて、男女比は1:3くらい、大抵は同級の知り合いが暇潰しか冷やかしに寄ってく程度だが、そうして集まり出すと、その中に混じって遠巻きから眺める別の学級生も見かけた。次第に、演奏を始めるとどこかから聴きつけてきて、毎度最後まで聞いてく二、三人のグループなんかも現れる。聞くところによれば、別学級では小さな囲いのつながりが出来ているらしい。
そう思うと、俺はいつかの須藤先輩のような態度でいるのかもしれない。他の男子には殺意を抱かれたりもしてるんだろう。それが少し笑えた。
演奏を終えると、控えめな拍手が上がり、囁くような声が周囲に木霊する。
そこに俺がほしい声が遂に聞こえたことはなかったが、でもなんとなく、俺がここでピアノを弾いている間、この校舎のどこかで、織姫は作業の手を止め、聴いている……そんな気がして、止められなかった。
そうして気がつけば冬。
受験がいよいよ迫ってきて、気持ちからして薄暗く、寒くなり、帰り道の自動販売機のホットの缶コーヒーが有り難くなる頃、地元のサッカークラブと合同で、夜間に学校のグラウンドを使ってフットサルの野試合をやった。
久しぶりに全力で駆け回り、良い気持ちの切り替えができたのを見計らうように、町内会か何かのおばちゃんたちが豚汁を振る舞ってくれて、俺は秒でそれを食べきり、なんとはなしに片付けられた朝礼台に腰掛けて、別の試合を眺めていると、その九十度側面に、ふと、織姫が座った。
何を思っていたか、自分でも知れない。
また、優しくしていいのか。
それも自分から。今なお選択しきれていないこのおれに、その資格があるのか——。
俺はいつかの時のように、雷に打たれたように硬直し、しばらく気付いていないふりをしていると、
「来てたんだ。声もかけてくれないなんて、ちょっと酷いんじゃない?」
「え、あ……悪い。気付かなかったわけじゃ、ないんだけどさ」
「なんて、嘘。ごめん。私もそうだったし……」
「…………」
あれほど。
あれほど聞きたかった声を聞くことができたのに、その人はすぐ傍まで来ているのに、俺はまた馬鹿みたいに、あの小五の最初の頃に戻ったみたいに固くなって、うまく喋れずにいた。
情けねぇ……なんて思って沈黙を続けているうちに、織姫から切り出した。
「結斗、変わったよね」
「え……あー……そ、そうか?」
「きっと、強くなったよね」
確認するみたいに言われて、俺はしみじみと話す。
「それは、どうかな。迷うことだらけで、正直進んでる気はしねーよ。お前は……すげー強くなったように見えるけど」
「……ううん。そんなことないよ。私も一緒だよ。迷ったり、悩んだり、そんな……そんなことばっかりだった」
織姫はいつかのようにクスッと笑う。
「でも、良かった。一時期はどうなっちゃうかと思ってたから」
「あー……ね。すまん。若気の至りってやつで、一つ」
「なんで謝るの?」
「なんでだろう。脅かしちゃったかな……とか?」
「なにそれ。そんなわけないじゃん。変なの」
俺の中の印象は同じなようで、きっと全然違った。
切ないくらいに時間が経った。その中でも、織姫の印象はまるで、これっぽっちも変わっていない。
クスクスと耳障りの良さを意識してるような優しい笑い方も、からかうような口振りも、良い匂いを散らしながらスポットライトに煌めく長い髪も、赤みが差した頬のきめ細やかさも、忙しなく動く唇の色っぽさも。
それぞれが少しずつ、少しずつ、大人になって、どんどん綺麗になっていて、そこは間違いなく変わったと表現できるのだけど、交わしている会話やその中身は、あの頃のままな気がした。
「そういえばさ、番号、交換してなかったよね」
そうして可愛らしい端末を取り出すのも、
「うん。金髪より黒髪の方が似合ってる。ていうか、金髪、似合ってなかったよ?」
といって、さりげなく髪を触ろうとしてくるのも、
「高校どこ受けるの?」
と心配そうに伺う顔つきも、
その一つ一つがやっぱり俺は、どうしようもなく好きだった。
ちょっと途中は違っちゃったかもしれないけど、この三年間は全部、この人とこの日、こうして話す時間のためだけにあったような、そんな気がした。
「そうだったんだ……」
少しクスクスと笑った後、織姫はどこか物憂げそうな遠い目つきで、何気なく言った。
「ねぇ。……前から思ってたこと、あるんだけど、聞いてもらえる?」
「ん、なに? 何でも話せよ」
「うん。私たちさ、幼馴染なのに、いつも一緒にいるわけじゃないし、互いのことよく知ってるのに、今回もまた随分久しぶりだし、小学生の頃もそうでさ、私はよく思ってたんだけど……」
「うん」
「再会しては別れて、離れ離れになってはまたこんな風に再会して、私たちって、何だか——何だか、七夕の織姫と彦星みたいだね——」
◯
年明け早々。
けど、今回の織姫の予想は外れて、俺たちはまたすぐに再会する。
同じ高校を受けるから当然なんだけど、試験会場の高校に行くまでの間、他の生徒らと一緒に覚え忘れがないかとか面接の回答とかを確認しながら、その時こうして傍にいられているこの一年半が少しだけ誇らしくて、俺に何か、見えない力を与えてくれているようだった。
これまではそうだったかもしれない。けど、これからは違う。もう間違えない。
こうしてこれからは、少しずつ、少しずつ、辿々しかったあの頃を取り返していけるんだと、俺は疑いもなく思っていた。




