10. 『ライフゴーズオン』
麻倉の言う通りだった。
その上級生や、飯島と四組の奴らがアホみたいな話で駄弁ってる感じ、麻倉のいるこの言ってしまえば動物園のように騒がしい空間が、俺は決して嫌いではなかった。
二組やその他の空気と違いがあるとすれば、俺が思うにたぶん、ここは気楽だ。
成績とか、付き合うとか、人に言葉で優劣をつけようとするものがいない。いつからか人はそうなる。
中学に入って、初めて落ち着けたという気さえした。
夜には外したが、その日の後の時間は、俺の手には大袈裟な包帯が巻かれることになり、また別の日、別のタイミングで、たまたま時間があった時……というか、本人の言ったことが本当なら、そういう時間を伺ってたんだろうけど……麻倉は喧嘩の時の続きを、前置きなしにそのまま話し始めた。
「そういうもんでしょ。仕方ないじゃん。毛色が違えばさ、過ごす空間も一緒にいる人も違って当然。たぶん、これから何度だってあるよ。それが嫌ならさ、もう付き合っちゃえば? 公言してさ、そしたら、ああいう連中も黙るでしょ」
「それで? どうなる?」
「どうって……」
「付き合ったって、アイツはもうそれこそ遊ぶ時間なんてないだろ。俺はともかく。知ってるか? アイツの習い事の量。両親は本気なんだ。中学からもう大学まで見据えてる。俺たちのことなんか見ちゃいない。それで付き合ったって、何も変わんなくね?」
「そういえばアンタ、携帯は?」
「持ってる。けど、それも同じだろ」
「そうかなぁ」
「じゃあ聞くけど、麻倉はこのやりとりがメールとか電話なら、満足いくか? ……それで日常でもこうして会えてるから、お前とはいられてんだ。飯島とはこの間話せたけど、葛西なんか全然話さなくなったし。それで、つながりをギリギリ保つとか、そんなの、余計、虚しくなるだけだろ」
「私は……私は別に、好きな人の声とか? 聞ければそれでイケる気するけど」
「俺も、そんで織姫も、違うんだよ。そうすると、もっと寂しくなるタイプなんだ。だから……だから、アイツ……」
南側校舎のベランダからでは、周辺の団地か、あるいは部活で外周を走っている生徒たちくらいしか見えなかった。
ここは南側校舎三階、一年二組のベランダ。ベランダには教室間の敷居がなく、外周を一面で繋いでいる。三階の一番奥、角の教室は音楽室で、今は部活中だった。
吹奏楽の演奏の音がまばらに聞こえてきていた。
つまり、このベランダの端まで行けば、その窓からは吹奏楽部で部活中の織姫が見られるはずだ。けれど、行こうとも思わないし、向こうからばったりやってくることも、通りがかるということもない。
「ねぇ。遊園地でさ……なにした? それに、あの後、何があった?」
麻倉が唐突に切り出して、俺はやや考えて答えた。
「……聞いてどうすんの」
「……なんとなく」
「遊園地は、想像通りじゃね? たぶん。麻倉の思ってることしたよ……うん。で、あの後は……」
一瞬迷う。
どこまで言えばいいか。
父親と一つ間違えば翌朝の一面に載りかねない喧嘩をしたこと。俺が負けたこと。それから、その次の日、織姫と最後にもう一日だけ遊んだこと。
この期に及んで麻倉を信頼していないわけじゃなかったが、それにしてもあまりに重すぎると思って、俺はそこだけ曖昧に言った。
「……要は、フラれたよ」
「それは嘘」
俺は即座に聞き返す。
「なんで、分かる?」
「水瀬さんがアンタのことフるわけないじゃん」
麻倉が言ったことは決して間違いじゃない。
俺たちはずっと、誰よりも互いのことを必要としている。その事も確認しあった。しかし、それだからこそ、生きていくには、どうにもならないこともある。
例えば、まさに、今が、そうだ。
このベランダの先には織姫がいる、走って行けばすぐにも会える。けれど俺はその演奏の音でしかその実在を確認できない。
行けば、その演奏を止めることになるからだ。
生きるためには、それくらいの距離を保たねばならないのだ。
子供みたいに、ずっと一緒にはいられない。
俺はまた少し考えて言った。
「思い出にしたいんだとさ。それがあれば一人でも生きていけるってさ」
「思い出……あー、それは……それはちょっと……や、めっちゃ分かっちゃうな……なるほどね……」
麻倉は何か噛み締めるように一人でしばらくうんうん言っていたが、ふと黙り、ちょっとしてから切り出した。
「あのさ、ずっと黙ってたんだけど。葛西とか飯島は悪くなくて、私が口止めしてたことがあるんだけど……」
「なに?」
俺は怒るでも笑うでもなく言う。
麻倉はけれど、心配そうに話した。
「あの運動会の時ね。白上、覚えてないだろうけど、ちょっとパニックだったんだ」
「……え?」
「アンタ、須藤に突っ込んでって、騎馬から落ちて、頭打って、失神してさ。意識戻らなくて、そしたら、水瀬さん……なんていうか、見たこともないくらい動揺したっていうか……あー、半狂乱でさ」
俺は目を丸くする。瞳孔が開いていたかもしれない。
「織姫が……?」
「そう。たぶん……たぶん、死んだと思ったんだよ。それも、私のせいだって大分落ち込んでて。それからもずっと悩んでたみたい」
「何で隠した?」
「葛西と飯島は何度か言おうとしたの。実際二人ちょっと気まずくなってたし、このままじゃ良くないって。でも……でも、ごめん。私が……私がね、言ってもしょうがないし、余計こじれると思って……そっとしとけって言って、黙らせてた……本当にごめん!! ごめん……」
「……知ってたわけだ。皆して。なるほどな」
それ自体は裏切られた気持ちもあった。けど、それより俺はやっと真実を知れてスッキリしたという思いの方が大きくて、そのまま口にする。
「なんだよ……そんくらい。言えよ……別に今、死んでないんだし」
「でも、分かんないじゃん! 人間、いつ死ぬかなんて。それで……怖くなっちゃったんじゃないかな。実際、私もちょっと、怖かったし、あの時」
思い当たる節は往々にしてあった。
でも、そんなこと気にしてたら、それこそ生きてなんていられなくないか? とも思う。
でも、いつかは必ず死ぬ、というどうにもならない現実がある以上、永遠には誰もいられないから。だから、その現実の前に、ならそれこそ本当に、人は、好きに死ぬか、忘れて生きていくしかないのだとも思う。
——本当の私。子供で、わがままな私。
俺に忘れてほしくて、でも本当に忘れられるのは辛いから、だから、最後に思い出をほしがったんだ。
俺は目元を覆う、泣きたかったけれど、涙は出てこなかった。
「バカだろ……アイツも。俺たちも。俺たちさ、ほんと、何やってんだよ……」
「ごめん」
「いいよ。もう。全部、分かった。むしろ、なんか悪かったな、気遣わせちまって」
「ううん。私たちは全然……だけどさ……」
未だ後ろめたそうな麻倉の背を軽く叩いて、俺は笑いかける。
「なんで、お前の方が落ち込んでんだよ」
「お、落ち込んでなんか……」
「なんか不思議だよな。お前とこんな話するなんて、小五の時は思いもしなかったよ」
麻倉は高学年の時に比べると大分、大人しく……っていうか、しおらしくなった気がする。俺もたぶん、似たようなことを葛西や飯島や高橋や麻倉に思わせているんだろう。何かの歌詞にもある、腑抜けたサイダーみたいな。
そうして誰もが大人にならざるを得なくなっていくんだろう。それでも、生きていくために。
色んなことを忘れながら。
麻倉は気を取り直したみたいに顔を上げて言った。
「そう……そうだよね。なんか、白上がこんな女々しいこと考えてる奴だとは思ってなかった」
「俺、最初から、そんな男らしい奴じゃないだろ」
「そう?」
「ないよ。少なくとも、俺はそう思ったことない。もしそんな風に見えてたとしたら、それはアイツがいたからだ。アイツの前だから、強がってただけなんだ」
「白上……」
「あーもうやめやめ。しょうがねー。しょうがねーよ。相手は死とか、何なら世界の仕組みだぜ? そんなん一人のこんなガキが、敵うわけないだろ」
俺は手のひらを返して顔を上げると、麻倉の頭の上に手を乗っけていた。
「麻倉も、織姫の言ったことなんか忘れろよ。俺にももう構うな。お前も浮いちゃうだろ」
「……白上。白上、私……私さ!」
俺は頭を強めに撫でることで、それを遮った。
気がつけば、麻倉の頭は想像よりもずっと小さくなっていた。それだけ俺も大きくなっていた。
「忘れろって。な?」
その時の麻倉の表情は筆舌に尽くし難い。
思えば、織姫から始まり、俺はそうして麻倉に同じことをしているんだと思った。
そうして誰もが幸せになんかなれないのだ。
命に限りがある限り。
生きていこうと思う限り。
でも、その反対こそ、本当の悲劇だろう?
そう思えば、少しだけ、楽にもなった。
そう信じたかった。
「もう終わりなんだよ、子供の話は。じゃあな」
俺はそう言って、ベランダを後にした。
吹奏楽の演奏が、程よく鳴り止んだタイミングだった。
◯
そうして、段々、段々と同クラスの奴らとは疎遠になっていき、一学期が終わる頃には、俺はもうまともに授業にも出ず、他のクラスの同級や上級生の悪い奴に混ざって煙草をやり始め、夏休みに入ると、ガスにも手を出した。
葛西や飯島との付き合いは続いているが、たまに廊下で会ったときに、うぇーいの挨拶をするくらいで、一方で奇妙なことに、小五のときはライバルであった須藤は例の騎馬戦のことをよく覚えていて、それがきっかけで、良き先輩後輩として仲良くなっていた。
学校は俺たちヤンキーがイキるための場で、俺たちはどこでもこれ見よがしに煙草を吹かし、行け好かない教師と喧嘩しては殴り込んで授業を妨害し、我が物顔で廊下を歩いては、小さくなる同性の生徒らを威嚇してまわった。
要は弱い自分に決別したかったのだ。
習い事や勉強やその他のことがうまくいかなかったから、別のことで目立ちたかった。
群れからはぐれた、狼の遠吠えのような、それが、俺の生存報告みたいなものだった。
◯
今、私を殺すか、忘れるか、選んで。
あの日、織姫はそう言った。
俺の部屋に通すと、織姫の平静を保った仮面は瞬く間に崩れて、俺の両肩を硬く掴んだまま、子供みたいに泣きじゃくった。
父のことも問題だが、一番は自分なんだと、織姫は話した。
人を好きになると、その人を壊してしまう。
違う、人を好きになるって、本来そういうことだ。そうしてその人を自分の所有物のように独り占めにしたくなる感情こそが、原始的な縄張り意識にも似た、私たちの好きという気持ちの正体だ。
最初は麻倉が邪魔者なのだと思った。けど、本当にはそれが自分だと気付いた。
想像してみて? 私が初めからいなかったら、貴方は小四で転校してきたその子と仲良くなって、今頃どうしていたか。
織姫は続けた。
麻倉さんだって、幼馴染でしょ?
私の方が異物だったんだ。なぜなら、その為にもう結斗は二度も命を落としかけている。
小五の時のことも、自分が麻倉を唆したのだと白状した。麻倉が俺のことを好きだ、とらないで、と言うから、試しに自分が適当な人を好きだと言ってみなよ、と唆し、焚きつけたのだという。
織姫の中にも、そんなあの夜の父のような黒い気持ちがあって、それが俺といると際限なく噴き出してしまう。歯止めが効かなくなる。今度はそうして、私が貴方を束縛してしまうと。
だから、生きていくには、互いに忘れるしかない。好きだったこと、一番大好きだったその人のことを忘れて、違う、二番目以降の誰かを私たちは選ぶのだ。
そして世界が終わるまで。
私たちはずっと、このままなのだと。
それが嫌ならば、好きという感情に溺れたまま、今ここで命を断つしかない。
そのどちらかを選べと、織姫は言った。
俺はそして、世界が終わる日に、それを続けていく方を選んだ。
物語の主人公やヒロインのようにはなれない。
たとえ一つの物語が終わったとしても、現実は続いていくから。
人生は今だけじゃない。きっとその選択が、いつか、報われる日が来ることを信じて。
浅はかで大人ぶった自分に見て見ぬ振りをして。




