9. 『中学と保健室』
中学生になると、最初は分からなかった織姫の、祭りの時や遊園地で言っていたその言葉の意味が、次第に分かるようになっていった。
俺たちの通った中学校は、校舎が反L字になっていて、東側校舎の方が長く、その二階が三年、三階が二年の教室になっているのに対し、一年の教室は、そこから内角にあたる大広間を通った反対側の狭い南側校舎なので、全五クラスあるうちの、一組、二組が三階、残る三組から五組までが二階という配置になっている。
この隔たりは、実際字面に起こしたクラス毎の隔たりなどよりも、遥かにずっと遠く、深くて、授業や部活に追われる日常生活において、滅多なことでは別の階の、そんな接点のない同級生と親しむ時間なんかはなかった。
そして小学生で仲の良かった葛西、飯島、高橋、それから織姫と、俺たちはなんの因果か、それぞれ別のクラスになってしまったのだ。
俺と麻倉だけが同じ二組で、一組にいる高橋とはそれなりに廊下で会ったりもしたが、別の小学校から入ってきた奴らも個性的な面子が多い中、なかなか同じ小学校出身の者だけでいることは少なくなっていき、特に階下のクラスになった葛西、飯島、織姫とは過ごす空間からして、まるで別次元にいるかのように離れてしまった。
学業においても差が出始め、織姫はその持ち前のルックスや才覚を如実に発揮して間もなく頭角を顕し、反して俺は落ちこぼれだった。
初めは勉強も続けていたものの、時間が膨大に取られていくことに気付くと、俺はその最果てを見知った気になって、やめた。
つまり、いみじくも織姫の読み通りの展開だ。
勉強や部活に追われて、人間関係は変わる。どのみち次第に、今の面子ではいられなくなるだろう。
そのことを、織姫は分かっていたのだ。
可愛くて、綺麗で、その上人一倍他人の変化に敏感で、よく気の遣える奴だったから、すぐに別の小学校から来た男子たちの話題にも上がるようになって、その名前だけは頻繁に聞いていた。
それでもしばらくは、その話題は俺とセットで、俺はとかくそんな浮足だった連中の標的にされた。
「ねぇねぇ、白上」
俺はまだ名前も覚えてないその男子の、妙にニヤついた顔を見るだに全てを察して、嫌悪感を隠そうともせず、答える。
「あ?」
「五組の水瀬ってさ、お前の幼馴染なんだろ? 家も近いし、小学生の時は良い感じだったって聞いて」
……小学生の時は? その単語のチョイスが既にして、俺の神経を逆撫でる。他の男子もすぐに聞きつけて混ざってくる。
「てか、俺は付き合ってたって聞いたわ。今は? 別れたの?」
「え、マジ? それ本当?」
誰に聞いた?
と尋ねると、大抵小五、六でろくに付き合いもなかった名前が上がるのである。そのことも俺の癇癪を悪い方に刺激する。
女子も似たり寄ったりで、こちらは、不遇にも俺と同じクラスになってしまった麻倉が主に被害を受けていた。
「ねぇねぇ、麻倉さんは何か知ってる? 白上くん、ほら、顔良いしさ、いかにもヤンチャしてますって感じだし。やっぱり二人って、結構進んでたの? 皆、言ってるよ」
「ハァ? 普通に夏祭りとか行ってたくらいだけど? そんなん誰でもしてたっしょ?」
麻倉もほとんど同じ気持ちだったろう、俺と同じように辟易して受け答えするようになっていた。となると、下の階にいる葛西や飯島や、それから織姫はいったいどんな責め苦を受けていることだろう。
「別れたも何もそもそも付き合ってねーし。別にいいだろ、そんなこと」
「え?! マジ? なんだよ、じゃ何もないの?」
何もないとはなんだろう。
何かあったとして、なんでテメーごときに提供すると思ってんだ?
そもそも、付き合ってなければ何もないと思う浅はかさが、もう嫌になる。
「じゃあさじゃあさ、白上、俺が、水瀬、取っちゃってもいい?マジ、アイドル並みだし、あの可愛さ。大人になったらテレビ出てそうだし、ワンチャンさー……」
「……取れるもんなら取ってみろよ。テメーにゃ逆立ちしたってできやしねー」
俺は口走っていた。上からソイツのとぼけた返答が聞こえる。
「……あ?」
「あのさ」
俺は立ち上がると、俺の机を囲んでいた楽しそうな連中の、そう言ったやつを睨みつけた。
「なんでそんなこといちいち俺に聞くの? 聞かなきゃ何もできねーの? な? 女を取るもクソもねーだろ!!」
「わ、わるい。ごめん。なんか、え……言い過ぎ——」
一言告げるたびに追いやって、ソイツが壁を背にすると、俺は返答を待たずに胸ぐらを掴んでいた。
その挙動につられて、周囲の机と椅子がやかましく音を立て、脇に退けられる。道ができる。クラスの目線が集中する。
俺は尚も狼狽えるソイツの鼻っ柱にフック気味の右を叩きつけて、立て続けに膝で蹴り上げ、上がった顔面に更にヘッドバットをお見舞いした。黄金パターンだ。
そうして項垂れたソイツの胸ぐらを、今度は左腕で持ち上げるようにして、更に何回か右を打ち下ろした。
一発ごとに鼻血が出て、次第に飛び散り、拳の関節が擦りむける。それで出た俺の血と混ざって、判別もつかないくらいに拳が赤くベタついてきたころ、クラスの誰かがふと気付いたように軽く悲鳴を上げた。
制止する声がかかっても、手が伸びてきても、誰かが身体で間に入り、俺とソイツを引き剥がそうとしても、俺の燻りは消えなかった。むしろ、ますます猛火の如く燃え上がった。
「ムカつくんだよ!! テメーみてーなインポ野郎が、好き勝手、アイツのことくっちゃべってんの聞くとムカムカすんだよ!! どうせ何もできねーくせによ!! テメーごときが、勝手にテメーの妄想で、アイツを決めつけてんじゃねぇ!!」
「白上!! おい、落ち着けって、白上!!」
その声は、中でも一番落ち着いて、一番聞き馴染んだものだった。
それで、俺も一瞬我に返って、傍を見る。
麻倉だった。
麻倉は俺の腕に手を乗せて、ぽんぽん叩いた。まるで牛か馬にそうして宥めるようだった。
それから胸ぐらを掴まれてる奴にも向いて、平謝りする。
「ごめんねー。コイツ、水瀬さんのことになると、アホになる危ないナ○アツだと思って? ね?」
そんな、会社の中間管理職のおっさんみたいな態度も腹立たしくて、俺は凄む。
「はぁ?!」
「イキるなっつーの……ほら」
しかし、麻倉は低く脅し返すように言うと、今度は掴んだ腕を強くゆする。
俺も麻倉には手を出せない。俺はゆっくり胸ぐらを離すと、けれど代わりに手近な机を思いっきり蹴り飛ばして、教室を後にする。
すぐに麻倉が後を追いかけてきた。
「良くないって」
「なにが?」
「白上、浮くよ? こんなことしてると」
「どうでもいい。てか、無理。あんな連中とつるむの。レベルが低すぎて。バカじゃねーの、あのチ○コ野郎」
大広間の真ん中ほどまできた。
麻倉はあからさまにため息をつくと、切り札を見せるみたいに言う。
「あーあ、水瀬さんの言った通りだわ」
俺はその思惑通りに足を止めて振り返る。
「……なんでアイツが出てくんだよ」
「アンタのことお願いって言われてる。私。同じクラスだし」
「……はぁ? なんで?」
「なんで? 分かんない? 白上、アンタ、子供扱いされてんじゃん。ウケるー」
俺が近づき、食ってかかるよりも早く、麻倉は続けた。
既に軽く手のひらを広げたくらいの身長差がある。麻倉は喉を晒すようにして俺を見上げていた。
「それでいいの? いつまでも水瀬さんに心配かけて。もう小学生のガキじゃないってんなら、戻りな。で、謝って、机を直しなさい。私も一緒に行ってやるから」
「…………」
俺は舌打ちを返答とした。
麻倉と並んで、すごすごと教室に蜻蛉返りすると、畏敬か好奇の視線に晒されながら、黙って机を片付けた。
そのうちに担任が駆けつけて、俺はこってりと絞られることになったが、けど、謝ることだけは頑としてしなかった。
この一件は、その日のうちに瞬く間に学校中に広まり、通りがかりの悪そうな上級生からも顔と名前を覚えられ、昼休みには指導室行きとなった。
弁当を開ける間もなく、担任に呼びつけられ、一階の職員室の向かいにある生徒指導室へと向かう。その道すがら、入学二ヶ月で指導室は最短記録だな、などと担任に笑われた。
その担任は異様に小さく150cmあるかないかという背丈で、俺からするともう首をそれなりに曲げなければいけなかったが、わりと話のできる人のようだった。俺は小五の時の担任を思うと、偏見もあるだろうけど、男の教師の方が好意的だと感じた。
目的の場所に着くと、中で待ってなさいと言われ、俺はその部屋に入る。
指導室の中は、まさに尋問くらいにしか使い道のなさそうな小部屋だった。実験室なんかで見るようなキャビネット棚が更に間取りを狭くして、その手前に子供が使うような淡い色遣いで楕円形のテーブルがあり、丸椅子が傍らの壁際に重ねられている。奥に窓があって、今はカーテンが閉められていた。
俺に遅れること一分くらいで入ってきたサッカー部顧問兼生活指導の望塚というラピ○タの親方のような見た目の先生は、大分ヤンキーたちの指導をこなしてきたということもあって、貫禄があり、俺みたいな生徒の相手でも柔和な態度を見せた。
初対面にも関わらず挨拶は軽く、手早く自分の分の丸椅子をセットすると、昔からの知り合いのようなノリでいきなり肩を叩かれる。
「白上、お前、クラスメイト殴ったって? なんで?」
「……ウザ絡みしてきたから」
「ダハハ。そうかそうか。ま、生きてりゃ、そういうこともあるわな。手、見せてみろ」
俺が何も言わずに片手を出すと、望塚は倍はありそうなゴツい手で、甲の方を上に向けて、出来たばかりの擦り傷を触るでもなく見た。
洗いもせず、そのままだったので、俺の手の甲は血がべったりと滲んで、今は黒く変色していた。その辺の所作は鉱山のじいさんに似ていた。
「あーあ。これ、痛むか?」
望塚は断りもなしに、指を曲げ伸ばしながら言う。
「平気っす」
「骨は……大丈夫そうだな。保健室いったか?」
「いらねっす」
望塚はそこで手を離した。
「消毒くらいはしとけ。飛び火するから。みっともねぇぞ?」
「…………」
「うちにボクシング部とかありゃあな。腕っ節、自信あんだろう?」
望塚は毛皮を巻いた丸太みたいな二の腕を曲げて力瘤を作ると、逞しい口髭を大きく広げて笑いかける。まるきりドワーフかなんかのようだ。
釣られて、俺も小さく笑った。
「ダハハハ……でも、ないからなぁ。お前、サッカー部入れよ。体力余ってんだろ? それともバスケの方が好きか?」
「どっちかといえば、サッカーのが好き……です」
「じゃあ決まりだ。明日から来いよ。以上。まー無理に仲良くすることもないがな、あんまりケンカすんなよ? あと手、ちゃんと消毒しとけよ。化膿するから」
そうして生徒指導とやらはものの五分足らずで終わり、俺は解放された。
保健室は指導室を出てすぐ隣の場所にあったが、俺は無視してその前を通り抜ける。
そのまま柔道場の角を曲がり、下駄箱に向かおうとした廊下の途中で、麻倉が壁に背を預けて待ち構えていた。
麻倉はいつものしかめた面で、背を離して起き上がり、俺の前に立ちはだかる。その手には二つの弁当の包みが握られていて、俺はたまらず頭を抱えた。
「テメーは俺の保護者かよ……」
「みな……」
「分かった分かった……ったく、どいつもこいつも」
保健室では、しかし予期せぬ再会が待っていた。
入ってすぐ横のテーブルを囲んで、飯島が知らない連中と話し込んでるところで、俺は一瞬面食らってしまう。こちらに気がつき、振り向いて俺と目が合うや否や、飯島は諸手を掲げて大きな声で言った。
「うぉいおいおいおい、白上!! お前、流石に人殺しはまずいって、いきなり!!」
「してねーよ!!」
「ウッソだろお前!! 酒と煙草とガスとマリファナでラリって釘バットで二組の男子、皆殺しにしたって聞いたぞ!!」
俺はけれど、吹き出した。
久しぶりに笑った気がする。
麻倉から預かった二つの包みをテーブルに置きながら、俺は部屋を見渡すと、奥の窓際に流し場があるのを見つけて、まずそっちへ向かう。
「どんだけ尾ひれついてんだよ……今日の話だぞ」
「あははは。あ、コイツが白上。そうそう。マブ!! 良いやつ。ヤンキーっぽいけど、全然、怖くないよー? めっちゃ良いやつだから」
「飯島、お前わざとやってんだろ」
俺がそうして部屋の反対側に言い返しながら流し場で傷口を洗う間にも、麻倉はたんたんと手当の準備をしていた。
「先生ー包帯勝手に使っていい?」
「あー、麻倉? どうした? 怪我したのか?」
中央のデスクから、保健医の田村というおばちゃん先生が眠たげな声で言った。麻倉は既に部屋の端の戸棚をガチャガチャ開けている。
「白上が手、怪我してる」
「そこ、二番目に入ってるよ」
田村は気怠そうにペンを挟んだ指先を踊らせて麻倉に指示すると、くるっと椅子を回し、俺の方を向いた。ちょうど俺も手の水を払って振り返ったところで、さながら赤ん坊にでも話しかけるように言った。
「あら、これはこれは噂の白上ちゃんじゃないですか。どうしたの。殴って、手、怪我しちゃったのー?」
「……知ってんじゃねーか」
俺は田村の顔を見るともなく呟いた。
「あんまり世話焼かせないのよー?」
「…………」
いわんや、それは決して織姫のことじゃない。
田村の老獪で鋭い指摘に、俺は何も言い返せなかった。
俺は麻倉より一足先にテーブルのところに戻る。
他方ではベッドの一つに腰掛けたおそらく上級生らしき女子が、視力検査用の黒いパッドを両目につけて、グループ内で馬鹿騒ぎをしていた。
「先生ー、私、視力ヤバいんだけど!! 何も見えないんだけど!! 明日も見えない!!」
「アンタらね、それオモチャじゃないんだからね」
と田村が、再びデスクに向かいながら言う。
「自主視力検査してるのー。今、測ったらさー、両目0だと思う!! ヤバいよーどうしよう、私ー」
その隣で胡座をかいた女子が、パッドを目に当てた女子の肩をパンパン叩いて実しやかに囁いた。
「あず! あず!! ちょっと待って、私、超閃いた。これさ、一回……一回! 片方下ろしてみ? 騙されたと思って!!」
「え? こう? ……あ、見えた!! 白上くんが見えたー!! さやか、超天才!! 先生、私、やっぱ視力あった!! ちょっと間違えてた」
「ほら、ちゃんと座って」
何とはなしその騒ぎを眺めていると、視界の外から麻倉がそう言った。
麻倉は隅の棚から白い巻物とガーゼとテープとそれ用のやたらデカい鋏、それから消毒液のセットを抱えてきて、テーブルの側面に向かい合うように腰掛ける。飯島と四組の生徒らは奥に詰め、適当に場所を作ってくれた。
医療セットを机に置き、てきぱきと支度しながら麻倉が続ける。
「手、見せて」
「悪い」
「いいよ」
俺が甲側を上に向けて手を出すと、麻倉が指先を持って、消毒液を雑にぶっかけ、手当てを始める。ティッシュで傷口を軽く叩くようにして、まだ少し残る血と消毒液の水分を吸い取らせていく。
「染みる?」
「……全然。てか、なんか、ここすげぇな。いつもこんなん?」
俺は右向こうのベッドの二人を気にしながら言うと、麻倉は淡々と続けた。
「大体こんな感じ。知らなかった?」
「来たことねーし」
「でも、アンタさ、こういうの、嫌いじゃないでしょ」
ガーゼを当て、包帯をぐるぐる巻きつけながら、麻倉は人の顔を覗き込むように、にやりと笑った。俺はにわかに頬が緩み出すのを無理やり抑えながら返す。
「てか、なんで名前知られてんの俺」
「そりゃ目立つし。アンタがどう思うか知らないけど、一年の良い話は水瀬さん、悪い話はアンタ。実際そんな感じなんだよ、今」
「ふーん」
俺と麻倉はその後、そのまま保健室で昼食をとった。




