19. 『雨が雪へと変わる頃』
私のベランダ飛び降り+謎の雑草大繁殖事件は、むしろ後述の不可解さが目立って、前述の件については右から左に受け流されていく言葉にならない何かのように、やはり消えていった。
とはいえ、お母さんには怒られたし、佐久間のおじさまもそれらしい教訓をつらつら並べ、晴子やみほちにはわんわん泣かれ、珍しく柴田にもガチのトーンで叱られた。
「ノリと勢いってあるじゃん? なんかこう、振られてるな? ってきたら、答えなきゃってなる性質っていうか……」
「それで死んでたら、芸人、テレビに出るたび死傷者出ちゃうじゃん? バラエティなんか撮れないじゃん?」
と柴田。
「いや、まぁ……分かってる。分かってはいるんです。頭のここんとこでは……でも」
「でももへちまもないの。それで生きてたから良かったものの」
とこれは晴子。
「あい……すみませんでした。もうきっと二度としないと思います」
「思うじゃなくて」
「きっともいらねぇ」
私は聞き分けのない子供同然に大口をあけて白々しく放った。
「はいはい。もうしません! 死んだりしません……」
それはまだ、事件があった日の放課後。
私は教室で、柴田と晴子とみほちを中心としたいつもの面々に詰められてもううんざりしていた。さっきから同じようなことを何度となく、とにかく、確認させられている。それはもう全肯定なんちゃらの配信みたいに、繰り返し、繰り返し、念を押すように。
「けど、正直さー、分かんないじゃん。未来のことなんて。明日、豆腐の角に頭ぶつけて死ぬかも分かんない。それなのにさ——」
「よし、お前、もう豆腐食うな」
「無茶言うなし! 鍋の全盛期じゃん! これから! それは私の胃が許さない。湯豆腐の喉越しすっげー楽しみ!」
「そうした諸々の栄養分がぜんぶおっぱいにいってる結果なのかなー」
と、みほちが純粋にして鋭いナイフのような一言を無垢ゆえの他意のなさで、わけもなく口にしているところだった。
教室のドアが開いて、猿彦と坂東の二人が入ってくる。猿彦は冷めた目つきで嘆息しながら言う。
「あれ、まだやってたんだ」
「さ、さわひこきゅん……!」
「初めてのパターンだけど、佐藤さん、猿彦だから」
猿彦は坂東と委員会の仕事+謎の雑草大繁殖についての後処理云々で、一介の生徒の範疇を超えた働きを見せていた。
まず学会の権威である父に連絡して、独自の検証チームを発足、召喚。植物の突然変異体を調査するという名目で、事態の責任をチームに肩代わりさせ、当校の教師陣に先手を打って警察等々への連絡を実質的に封じせしめ、報道も抑え込んだ。
今も猿彦の父含む活きのいい研究者たちがこの教室の一階で、調査を続けているはずだ。
一足早く訪れた猿彦の父は、私たちにも息子にも目もくれず、籠車のように上手いこと形状を成した雑草のオブジェに嬉々として縋りつくと、すぐさま調査に入った。
「これは……本当に興味深い……この土地はやっぱり、時間と空間の流れが……しかしどうやって……いやいや」
そんな風に独り言を呟くのを聞いた。
猿彦の家もまたなかなかのようだと、私は皮肉混じりに笑い、猿彦の肩を優しく叩くと、教室に向かうのに促したものだ。
濡れた制服は教室に干して乾かしたが、その臭いたるや私の胸元や柴田の下半身の方が遥かにマシなほどの生臭さだったのでクリーニング屋行きは確定で、今はどちらもジャージ姿であった。
猿彦はその片手間、売店に寄って手土産を買ってきたらしく、中央の席にお菓子やらの詰まったポリ袋を乗せて、みほちや芽衣子らが食いつくのを余所に、なに変哲ない口調で切り出した。
「で? 押し問答の決着はついたのかい?」
「…………」
私たちは、私の頭の中に住まう議員らのように、皆一様に押し黙り、その沈黙を以て返答に変えた。
「だろうね。そりゃそうだろ。人が死ぬ死なないなんて、誰に決められたことでもない。俺は千歳の意見に賛成。明日——いや、そんな言葉さえ、まったく贅沢なことなんだよ、本当は」
間もなく柴田が噛み付くように言う。
「てめ。聞いてたな?」
「しょうがないじゃん。俺たち、産まれた以上、死ぬようにもできてんだもん。命ってそういうものだろ」
猿彦は平然と無視して続けた。
「自ら死を望むことは何ら不思議でもおかしいことでもない。むしろ、なんで人が死ぬだけで騒ぎ立てる人がいるのか、俺には不思議なくらいだよ。蟻だって蜘蛛だって、鶏だって豚だって魚だって懸命にその日を生きてる。けど、俺たちは何の悪気もなしにそれらの命を詰む。毎日毎日、死を目の当たりにしてるのに。人間だけが特別なわけがないだろ」
猿彦は視線を突き立てるように柴田を見た。
「勝之だっていつか必ず死ぬ。それを千歳は見たくないんだよ」
「は?」
「猿彦……」
私は少し気まずくなる。けれど、猿彦はアホな私の代弁者をやってくれているのだ。
「千歳の両親が離婚してるのは知ってるだろ。事実はどうあれ、それを千歳は自分の選択だと理解した。つまり、自分が父と別れる道を選んだのだ、とね。それからの苦渋が君に想像できるかい? 千歳は好きな誰かといながら、常にその誰かと別れる想像を……覚悟を決めながら、生きてきたんだ」
「千歳……お前」
柴田が私の酸っぱそうな顔を伺う。晴子も同じだ。
「でも、そんなん……」
「"普通"はね。気にしないで済んだろうね。けど、あいにく人格の形成は幼少の時期に依る。これを心理学用語で基本的信頼感という。"普通"なら人は基本的に味方だと思う。けど、千歳は"違う"。"そうはならなかった"。無償の愛、無条件の承認、自然体の安心感を得られなかった子供。産まれを祝福されなかった子供にとって、人は基本的に警戒すべき敵なんだ。本来守ってくれるはずの、あるべきものがないから、自分で守るしかない。防衛本能なんだよ。それが千歳なんだ。だから、認められたいと同時に、いつも裏切られることを想定して、心に一歩引いた自分を作る。いつ、そうなっても耐えられるようにと。現実の自分と本当の自分が乖離して、滅裂になる」
分かりやすく解説してくれるのはいいが、なんだか私の赤裸々な内情が素っ裸にひん剥かれていくようだ……。
「こういう子供はね、役目を与えられるとひどく喜ぶ。そして、潔癖になる。やってやらねばならない、失敗は許されない。成功してる自分しか愛されないと悟っているから。だから、自分に厳しく接し、追い込み、理想通りに出来ないと自分で激しく叱咤してしまう。自傷癖にも通じる。自分で罵倒することで、健気にバランスを保とうとするんだ。周囲にはしかし、ヒステリーを起こしたように……」
そんな羞恥をかろうじて堪えながら、私は猿彦の袖を引く。
猿彦は私と目が合うや、にっこり微笑みをくれると、再び口を開いた。
「さらに——」
「もうやめで!! もう十分だから!! 勘弁してください!! 猿彦様……それ、乙女の——乙女のトップシークレットだから!!」
「また——」
「うおおお、やめろや!! ——坂東!! お前の飼い主、どうにかしろよ、この倒錯ドS太郎!!」
「え、知らなーい。私、別に華くんのペットじゃないし」
坂東はみほちや楓らと共に、袋の中のポッキーを啄みながら言った。
「けどそれいいねー。華くん、倒錯ドS太郎だって!! 似合うー」
「どこがだよ。黙ってろよ、菜々子。後でお仕置きな」
「はい……」
その後も猿彦の正確無比な分析によって、私は嬉し恥ずかし性格診断の解答と長所短所のQ&Aを洗いざらい、一つ一つ黒板に貼り出されたかのような言葉責めに遭うのだった。
「なんだろう。人の性癖まで暴くのやめてもらっていいですか……」
その帰路、私は精神の髄まで吸い尽くされた搾りかすのようにげっそりとして訴える。猿彦は柴田や晴子に教鞭を振るうように、これまた平然と言った。
「こんくらいしないと、千歳には効かないから」
「でも、流石にちょっと可哀想……」
と晴子が控えめな笑い混じりに言うと、猿彦は即座に切り返した。
「違う違う。遠坂さん。こうして皆に知ってほしいって気持ちもあるんだよ。でも、自分の口じゃ言えないんだ。子供だから。ね? 千歳」
「ドS通り越して鬼だ……この男……」
校門の近くに来たところで、「あ、雪だ……」と、楓がハスキーな声で呟き、空に手のひらをかざした。楓は団地妻のように仕草も声色も洗練されていて、それだけでドラマのワンシーンのようだった。
「うそ? もう?!」
次いで芽衣子が言った。
私たちはぞろぞろ揃って、暗い空を見上げる。田舎とは言え、例年よりだいぶ早い気がする——、
気がするだけで、実際測ってもいないけれど。
「雨が雪へと変わったのかな……」
というみほちに坂東が答える。
「夜更け過ぎだから?」
「ん?」
「え?」
そんなやりとりの中、珍しく柴田はずっとしかめっ面をして、一人、集団の先を行っている。私は追いかけて、自転車を押して歩くその隣に並ぶ。
何事もないかのように見えて、色々あった一日だった。どういう風に話を切り出したらいいかも分からないうちに柴田は言った。
「……猿彦の親父さんたち、まだ作業してたな」
「え——あ、うん」
「普通さ、息子が通りかかったら声くらいかけるもんじゃねぇ?」
「あ——……うん」
柴田は空を見上げる——、
暗雲が立ち込めていて、雪という幻想的な要素とは裏腹に、実際はずっしり重たい雰囲気と、肌に刺す厳しい寒さが身に沁みるだけだ。
「普通? 普通ってなんだ? 千歳からすると、俺は普通?」
「うーん」
私は数秒考えてから、答えた。
「柴田は柴田」
「だよなぁ……よくわかんねぇや」
「いやだから……そういうとこが……」
「ん?」
「なんでもない」
柴田はハンドルを持ったまま、今度は氷のように冷たい地べたを見ている——、
かと思えば、突然こっちを向いた。
「よく分かんないけど、俺だって千歳が死ぬのとか、考えるの怖いから」
「え」
「だけど、怖いけど、でもさ、それでも一緒にいたい。怖くて震えてたら、毛布で包んであっためてやりたい。落ち込んでたらくすぐって笑わせてやりたい。勇気が出なかったら、出せるように背中を支えてやりたい。好きってそういうことじゃねえの?」
私は言葉を失う。
凍てつくように見えるのに、それ自体は何も変わっていないのに、なんだか、カイロを挟んだみたいに胸の中があったかくなってくる。
柴田はカイロだ。
この人に出会えて、本当に、よかった。
「柴田はー……それでいいんじゃない?」
私は呟くと、視界を外に逃した。
「え? 悪い、よく聞こえなかった」
柴田が言うと同時、後ろの方から坂東が暴走機関車みたいに突っ込んでくる。
「ねーねー。二人も来るでしょ?」
「な、なにが?」私は慌てて返す。
「闇鍋パーティー。今、皆で話しててー。私たち、なんだかんだ一緒にいるじゃん。で、今回のことでも、結構良い感じになったでしょー。で、親睦会的なー?」
「え、なにそれ。めっちゃ楽しそう」
「でしょ?」
「闇鍋とか私、やったことないんだけど」
「皆、ないよ。だから、楽しいんじゃん」
後ろの方から芽衣子の声が言った。
「あと何人か、男ほしいなー。男成分が足りない」
「したら、陸上部から連れてこようか」
私は前から挙手するように口を挟んだ。
「あ、犬飼くんは? 学校きてなくても、電話してさー」
「……千歳って犬飼好きなの?」と晴子。ナチュラルに音程が低い。
「むしろ、なんで晴子は苦手なの。面白いじゃん、犬飼くん」
そんな風に私たちの一瞬は崩れ去っていく。
「勝之」
私の預かりしれない、その場面の別のこと。
私たちが闇鍋計画で盛り上がっている最中、猿彦はひっそりと柴田に近寄っていた。
「おう? どうした」
「ううん。なんでもないけど」
「なんだ、そりゃ」
けれど、柴田は眉根を窄めながら、戯れるように言う。
「猿彦、お前はさ……」
「ん?」
何度となく千歳を見た目つきで、猿彦は柴田を見ていた。全てを見通すようなくりくりの眼差しを前に、柴田は言葉を見失う。
「あー……いや」
しかし、言葉で踏み込まずとも、猿彦には伝わっている。そういうセンサーがその眼差しには備わっている。
「俺は平気だよ。だから君には俺のことよりも、千歳のことをお願いしたい」
「え……あぁ」
「ああ見えて、さっき延々と聞かせたように、基本的信頼のない子供は不安定だ。今、楽しげでも朝起きると死にたくなっていたりする。何度となく苦しめられる」
「どうすりゃいい?」
「君がいてやればいい」
猿彦は即座に切り返した。
「いや俺、バカだから、もっと分かりやすく——」
「解法はあるんだ。非常に難しいけれど。親から無償の愛を得られなかったのなら、その代わりになるような大人から正しく得なおせばいい」
「なるほど……思ったより、簡単じゃね?」
「そう思う?」
「ああ。余裕だよ。俺、千歳のこと、愛してるもん」
猿彦は笑った——、
安心して、どこか力が抜けるような青年の笑顔だった。
「なら、頼むよ。——その代わり、千歳を泣かせるようなことがあったら、その時は絶対に俺が許さない」
「…………」
「あらゆる手を使ってでも、君と血のつながりのある全部、根絶やしにしてやるから」
「こえぇよ。やめろ」
「頼んだ……」
「……任された」
柴田は照れ隠しで耳を掻きながら言った——、
私はそんなやりとりは露知らず、その時その後ろの方で晴子や坂東や、みほちたちと戯れていた。
クリスマスに先駆けて行われた闇鍋パーティーに、残念ながら犬飼くんは来なかったけれど、代わりに晴子が陸上部の舎弟を二人連れてきて、めちゃくちゃ賑やかになった。




