14. 『犬飼くん、再び』
そんな時だった。
またしても晴子のいない帰り道——というより最近はめっきりそれがスタンダードになっているが——ちょうど良い気晴らしの機会を得たと思い、今度こそ乙女が一人下校絵巻を完遂してやろうと画策していたところ、狙いすましたかのように、またしても奴の声がかかった。
そう、最近猿彦に隠れて出番の少なかったニキビの権化、オレンジ頭の大魔王こと、柴田である。
夏休みが近くなり、半日授業が続く今日この頃、むしろ太陽が最も照り輝く時間帯でクーラーの効いた教室から締め出され、下校を余儀なくされる生徒らの群れを外れ、私は奴に呼びつけられ、校舎二階は図書室の前、日陰の伸びた廊下の端で、柴田と相対する。
「悪いな、急に」
「ううん、別に平気」
前述の下校絵巻はさておき、今の機嫌は悪くもない。私は気軽に促す。
「どうした?」
いつぞや公園に寄った日のことが、なんだか嫌に懐かしく思えていると、柴田は対照的に珍しく真面目ぶった男らしい顔つきで切り出した。
「あのさ、千歳にちょっと聞きたいことあんだけど」
「うん、なに?」
またあれか? 匂いがどうとか、そういう話でもしたいのか——なんて、楽観視していた私は救いようのないアホであり、次の瞬間、表情を凍り付かせることになる。
「ごめんってなに?」
「——え?」
「猫丸の墓参りの時。ごめんって、言ったろ? お前。あれ、結局なんだったの?」
久しく見る柴田の男前に、机に肘をついて手を組み、そこに顎を乗せ、厳粛に身構えていた頭の中の議員らの間で、どよめきが走った。
面食らう私を前に、柴田は落ち着きなく視線を右往左往させ、頭をかいたり、時折、妙に色っぽく流し目をしてから、私を再度真正面に捉えると、続けた。
「あのさ。はっきり言うわ。——お前、猿彦となんかあった?」
「…………」
とっさに応えることができない——、
だが、応える義務が確かに私にはあるし、その覚悟もつけたからこその猿彦とのあの日だったはずだ。
時計の針を進める覚悟。
立ち止まらない、選び続ける覚悟を。
なのに、今になって、改められると、往生際悪く、言葉が出てこない。
「あ——え、えっと……」
即答を渋る私に、柴田がそれなりに深いため息を漏らした。
しかし、それはそれでいいのでは? それで柴田の方から私ごとき畜生に三行半を突きつけてくれれば……それだ、そうすれば——。
議員から即座にブーイングが上がるような私の逃げの思考も、すぐに遮って、
「千歳——」
柴田は言い、その呼びかけに反射して顔を上げた私に、キスしていた。
議員らが息を呑む。
いや私も同じだ。
あまりに呆気に取られて、何が起きたか、頭を整理する必要に駆られた。そのため、実際に気がついたのは唇が離れてからである。
そうして初めて、自覚が芽生えた。
今、何が起こったかの。
ゆっくりと顔を離す柴田のニキビ面を斜め四十五度ほどに見上げ、次第に目を見開くや——、
私は腕を思いっきりその頭に打ち下ろしていた。
指先がおでこをかすり、パチっとわりかし良い音が鳴る。
「……ってぇ!!」
「なにしとんねん!! このドアホ!!」
「はぁ?!」
「な、ななな、今、柴田、お前——!!」
思い返すだに、そこにきてはっきり明々寥々としてその唇の感触が思い起こされて、私はますます赤面する。
柴田は反面、短く吹き出しながら、どこか不貞腐れたように言った。
「なんで……俺じゃ悪いかよ」
私はとっさに気遣った。柴田を傷付けるのはまったく本意ではない。
「あ、いや……えっと」
待て。千歳。
議員でもあり心の中の私でもある。
その声が言った。
それがいけないんじゃあないのか。
柴田を傷付けたくない?
何を今更言ってんだ、私は?
そうだ——、
そうじゃないか。
もっと早くにこうしておくべきだった。
私は死ぬんだ。死ぬつもりなんだ。この好きな人と満足に生きていけない世界で、生きていこうとは初めから思っていない。
積極的に死にたかったわけではない。けど、積極的に生きようとしてたわけでもない。
柴田みたいな良いやつを、そんな女に拘わせてはいけない。
だから、私などを忘れてとっとと晴子と出来上がればいい。
ずっと、そう思ってきたじゃないか——。
私は意を固めると、切り出した。
「そうだよ……ごめんって、そういうこと」
「……は、マジで?」
「柴田にされても——」
議員が固唾を飲んで見守っている。
きっと傷付けてしまう——、
けれども、ずっとこうして、止まった時の中でいるよりは良い。
動き出したんだ……そのはずなんだ。けれども、その一言を発するのには清水の寺から飛び降りるような逡巡が必要だった。
けれども、進むなら今しかない。
今しか、ないんだ。
私はあえて梯子を外すように心の中で思って、いよいよはっきりと口に出した。
「——困るだけだから」
時間にしてどれくらい経ったか。
数秒だったかもしれないし、数分だったかもしれない。
柴田が突然、俯きかけていた顔をあげて言った。
「そっか。もういいんだな」
「え」
え、という一言だけの私の聞き返しにも、きっと言葉にならない、文字として書き記すことのできない妙——表情というものがある。
私は……私は。
この時、私は、この期に及んで、さりとて、柴田に縋るような発音をしていたのだ。
私は、柴田のなんだったのだ?
柴田は、私のなんだったのだ?
その関係が終わる——。
柴田は私の頭に手を乗せた。
何も言わないけれど、柴田の言おうとすることが手に取るように私にはわかる。
いつかどこかで、似たようなことがあった気がした。それはもしかしたら、誰かの口から聞きかじったことだったかもしれない。
行かないで!
離さないで!
間違いなく、私の脳髄に一枚の絵が走った。
走って、消えた。
これもまたデジャヴだ。どこかの私が、私に伝えようとした、何かだ。
今、捕まえなければ、本当に消えてしまう——!!
「——柴田ぁっ!!」
引き留めるように私は言った。
「お前が幸せなら、それでいい。いつもそれだけなんだ。俺たち男の考えてることなんか」
柴田はそう続けた。
ばさっと鳥の羽音のような雑音がして、二人して振り向くと、そこに犬飼くんがいた。
学級委員なのか、残り少なくなったプリント束を胸に抱えるような体勢で、私たちと同じように止まっている。残りの大量のプリントが階段の踊り場、足元に散らばっていた。
「てめえ、見せ物じゃねーぞ!」
「ひっ」
柴田が威嚇するようにいうと、犬飼くんはとっさに屈み込んで、今しがた落としたプリントの束を新たに拾い出した——、
が、動揺してるのか、手元が震えていて、拾い直した先からまたリノリウムの床に落としてしまう。
「ちょ、ちょっと柴田! やめなよ!」
私は言うと、間もなく犬飼くんに駆け寄って、プリントを拾い集めていく。後ろからため息が聞こえて、柴田もそれに加わった。
二人して集めた分を、そうして犬飼くんに渡す。
「はい。……ごめん。なんか驚かせちゃって」
「ううん、ありがとう——」
犬飼くんは言いながら、けれど鋭く柴田の方を見た。その身長差は私と同じくらいだったので、若干見上げる形になる。
「——なんだぁ?」
「もう、柴田!」
再び柴田が威圧して、私がたしなめると、柴田は弁解した。
「いやだって、今のは確実にコイツが……」
「あんまり、乱暴なの良くないと思う」
その矢先、犬飼くんが呟くように言っていた。
私は——柴田もそうだったろう——思わず、脳が麻痺したような感覚で息を漏らした。
「は?」
「松原さんが嫌がってるじゃないか!!」
一瞬、時間が止まったような気さえした。
犬飼くんは見たこともないような鋭い目つきをして、今にも柴田に飛びかからんばかりの体勢でいて、その呆気に取られる迫力と、真っ白な沈黙のあと、私は両手を犬飼くんの方に広げた。
「え……っと、いや違う。犬飼くん」
「え?」
犬飼くんが私を仰ぎ見る。実際の状況がそうだが、その顔はまるで助けに来た姫に見限られた王子のように筆舌に尽くし難く、困惑したものだった。
「あ、じゃあ、やっぱりあの噂——」
その瞬間にも、柴田の手がその胸ぐらを掴んでいた。
「あぁ?! てめっ、喧嘩売ってんなぁ?!」
「ちょ、柴田……ダメだって!!」
私の仲介を、しかし柴田は反対の手で遮ると、犬飼くんを片手でほとんど持ち上げたまま言う。
「ビビってんじゃん……怖えーだろ」
「こ、こわいよ……で、でも」
「ん? 言ってみろよ」
「インポ野郎にはなりたくない……から」
それを聞くと、しばらくして柴田の口角が上がった。
柴田はおもむろに吹き出して、犬飼くんを地面に下ろすと、胸ぐらを掴んでいた手を今度はその肩に回して、ぽんぽん叩いた。
「お前、すげぇじゃん。千歳、おい、今の、聞いたか?」
「……う、うん」
「名前、なんだっけ? 知らなかったよ。こんな奴がいるなんて。何組?」
「犬飼 安磁」
犬飼くんがまだ喉を苦しげにさすりながら、珍しく即答する。
フルネームは私も初めて聞いた気がした。
「安磁? あんじ?! カッケェじゃん!! やっべぇ。羨ましいわー。何組?」
「一組」
「そっかそっか。安磁。俺、柴田 勝之。勝之でいいよ。仲良くしようぜ」
もはや柴田の目に私は映っておらなんだ。
二人は仲睦まじく肩を組み合い、廊下を連れ立っていく。
そうして柴田に新しい友達ができたのだった。
◯
終業式の日。ホームルームを終えた教室前には既に犬飼くんがスタンバイしていた。
あの日以来、柴田は恋人ができたように犬飼くんを連れ回すようになっていて、どちらかというと日陰組であった犬飼くんも頼もしいボディーガードが出来たことから、同級生の間でのカーストランキングも上がり、彼自身、日に日に明るくなっていくようだった。
だから、その時も柴田待ちだろうと思い、私は久しぶりに晴子と下校できる期待に胸を躍らせ、彼女に声をかけ、連れ立って廊下に出た。その時である。
「あ、あの、松原さん!」
あろうことか、その目的は私だった。
哀れなる柴田は、私に引き続き、犬飼くんにまで振られたことになるのではないか。
それはさておき、私は当惑して、不覚にも返答が遅れた。
「……はい?」
「来週、あそこの土手で花火大会あるよね」
「はい」
「よかったら、一緒に行かない?」
「ほう」
遂に犬飼くんは女の子を面と向かってデートに誘えるまでに成長した。私は感慨深いものを覚えて、どこかカイゼル髭を生やした評論家のような口振りであった。
「ど、どうかな?」
けれど、二人で、というのはちょっとまだ恥ずかしいし、正直話が持つかどうかの不安もある。
とんとんとんとん。
頭の中の議員総員で腕を組んで悩ませること約一秒。
いや待て——、
もしかしたら、これ、私の方が変に意識して緊張しているのではあるまいか。
まさか、犬飼くんに遅れをとる日が来ようとは。
「あー……えっと」
私はちらっと隣の晴子を見る。
晴子の中の犬飼くん像は変わらないようで、いつぞやと寸分違わぬ、顔の各部位をめちゃくちゃな配置にされた福笑いのような、アンニュイな表情をして、やりとりを見守っていた。
けれど、私は彼の成長ぶりに応えたい。その気持ちが素直に口をついて出ていた。
「うん。いいよ。——でも、二人ってのはちょっとまだ恥ずいから、彼女——晴子も連れてっていい?」
「え?!」
晴子が私の隣で飛び上がる勢いで仰天している。私は続けて、犬飼くんの脇から聞き耳を立てている妖怪ニキビ男を見る。
「——で、そこの柴田も」
「は? 何で俺も?」
「どうせ暇だろ。で、花火大会なんて絶対来るじゃん。アンタ。……それなら皆で行こうよ」
初め、それは悪巧みに等しい思いつきだった。
しかし口に出して言ってみると、まるで心の底から湧いた素直な気持ちのように言葉が出た。




