13. 『やる気スイッチ』
家に帰り着いたのは朝方六時すぎのことだった。
うっすらと朝日が照りつけ、影の伸びる家の前で出社しようとしているおじさまと、その見送りに出ていた母と遭遇して、大変驚かれた。
二人はそこで初めて私が一夜の逃避行に出掛けていたことに気がついたらしい。
殊におじさまなんかは私の傍にいる猿彦を険しい顔で見るや、一丁前に眉間に皺を寄せて凄んだ。
「おう、彼氏。今、何時だと思ってんだ?」
おじさまが混乱している母の手前にそれらしく腕をあげ、開口一番にそう言うと、猿彦は変哲ないような仕草で、手元の腕時計を見る。
内側に向けてつけているから、まるで女の子みたいな手つきだった。
「六時……四分過ぎですね——それが?」
言うが早いか、おじさまの鉄拳が猿彦の顔面目がけて飛んだ——が、猿彦は揚々として腕を振り切らせると、その伸び切ったところを担ぎ、次の瞬間にはおじさまを背負い投げていた。
私と母は呆気に取られていたが、あまりに自然な流れだったので、ひょっとしたらおじさまでさえ気持ちよかったのでは? と思えた。
しかし、猿彦は腕を持ったまま、更におじさまの身体をひっくり返し(私の目にはそうなるよう、おじさまが協力したようにさえ見えたが、実際は骨の角度からそうならざるを得ない方向に持っていった、が正しいのだろう)、背中を跨ぐと腕をひねり上げ、顔のすぐ目の前の地面を踏みつけて言った。
「あと三ミリズラせば関節が外れます。筋が伸びるのは結構痛いし、俺は好きな音なんですが、試してみます?」
「さ、猿彦……」
私はそこでふと気がついて、二人に近寄った。猿彦が尚も平然と続ける。
「うーん。千歳、どうする? やっぱ朝ごはん、うちで食べなよ。制服と鞄だけ取ってきてさ」
「え」
「言っちゃ悪いけど、こんなとこじゃ落ち着かないだろ? 食事の時は救われていなければいけない。こんな雰囲気で食べたってまずいだけだし、それは食べられる側にとっても良くないと思うんだけど」
猿彦の家……朝食……手料理? そして同じ家からの仲睦まじい登校……だと?!
正直言って悩ましいお誘いではあったが、しかし流石にもう既にお腹いっぱいの心境でもある。
採決をとると、やはり、議員らも満場一致だった。議員は眠気にひどく弱い性質があるようだ。ガベルが鳴る。
「あー、流石に大丈夫……かな。これだけ懲らしめてくれたら、うん、たぶん、平気だから」
「そう? じゃあ、また後で学校で」
猿彦は腕を離すと、反対の手で私の頭の前の方をふんわり一撫でし、朝の散歩の続きに戻るかのように家の方角に帰っていった。
その姿を見送り、玄関から出てきた母が、用意していた小言の全てを忘れ果てたように言った。
「……あ、あの子、友達?」
「え、会ったことなかったっけ? 猿彦。そこの裏に引っ越してきた……」
「き、聞いてないわよ……」
「私の前世からの恋人らしいよ」
「は?」
「——あー疲れた。シャワー入るけど、おじさん、私の後、入らないでもらっていい?」
私は捨て台詞のように言って、長い一日と夜間の逃避行を終えた。
◯
その朝、私は校門前で思いがけない再会を果たした。
犬飼くんである。
その姿を目にするだけで再会と呼ぶのなら、これまで何度も校内やらそこここで見掛けているし、時折挨拶も交わすくらいだったが、はっきりと時間を使うコミュニケーションを取ったのは、去年の夏以来になる。
その時も彼はまた、登校する生徒の流れに逆らって、いつか選挙ポスターのあった場所で突っ立っていた。
「どうしたの? 犬飼くんには掲示板が見えてるの? それ」
以前とは正反対に、私がそうやって顔を覗くように声をかけると、彼は幾分か早くなった応答速度でもって言った。
「えーーっと……あ、松原さん。おはよう」
「うん。おはよう」
「いや、何も見えないけど」
「だよね。何してるの? 教室行かないの?」
「……行きます。これから」
「あー、じゃ、一緒に行くか」
「え」
「いや?」
「嫌じゃないです……けど」
「じゃあ、行こ。ほら」
私は軽く肩を叩いて、歩行を促す。それはさながら起動スイッチのようでちょっと面白い。
そうして並んで歩き始めて間もなく、私は大きく欠伸をついた。
「……寝てないんですか? ひょっとして」
「うん。あ、あとなんで敬語?」
「え」
「同級生じゃん」
「そうですけど。なんとなく」
「うん」
私は素直に白状した。
「実はさー昨日の夜、色々ありすぎて」
「はぁ。夜更かしした?」
「そもそも寝てない。——あ、ちょっとだけ、数十分くらい」
「何があった?」
私は思わず笑ってしまう。犬飼くんの返事はまるで外国人のカタコトのようである。
「ごめん。なんか犬飼くんって、ちょっと面白い」
「え!」
「そう、なんか色々ありすぎて……だから全然違う奴と話して——リフレッシュしたいのか、私は」
私が自問自答するように言うと、犬飼くんも応答した。
「そ、そうなんだ」
「うん。そうみたい」
犬飼くんは別のクラスだから、二年四組の教室前までそんなやりとりが続いて、去り際また去年のように、けれど今回はもう少し控えめに、言うなれば自然に言った。
「あ、あの、松原さんがよければ、俺、リフレッシュに使っていいから。いつでも」
けれど元々のぎこちなさから言えば、大進歩だと思うと嬉しくもなる。
「なんかそれも面白いね」
「そ、そう?」
「うん。あれ、ほら、空気清浄機みたいな?」
「それでもいいよ」
「……まぁ、ありがとね」
議事堂の皆も、犬飼くんが相手だと大抵鼻の指掃除に取り掛かっていたり、器用に長机を囲んでUNOに興じていたり、イヤフォンで音楽を聴いていたりと、てんでばらばら、網膜の映像を気にする素振りがなかったが、一人だけ注意深く眺めるものもいた。
教室に入るととたん、私を見つけた柴田が話し込んでくる。
「あ! おい、千歳。お前、大丈夫かよ?」
「なにがぁ?」
私は欠伸まじりに答えると、柴田が私の机に手をついて、極めて深刻な顔つきで言う。
「昨日の夜さ、不審者が現れたらしいぜ。それが……しかも、お前んちの方向なんだよ」
「……ほ、ほう?」
「最初に獣みたいな咆哮があって、それから死ねー死ねー火をつけてやるーーーうおおおーーーってずっと、恨みがましく叫んでたんだってよ!! マジヤバくね? ガチ気狂いじゃん、深夜にそんなの。ここらも物騒になったよな」
「……そ、そうだね。あー、一限目なんだっけ?」
「びびって飛び出した奴が遠目に見た姿は悪魔みたいに笑ってたらしいぜ。伝説に残るなこれ。お前も気をつけろよ? なんかあったらすぐ俺を呼べよ?」
「あー、一限目……一限目、なんだっけ?!」
私はまたしても汗まみれだった。
◯
あれだけのことがあったのだから、何か特別な……例えば屋上での金髪の転校生との蜜月とか、体育館の内ベランダで隠れてとか……そんな毎日が始まるんじゃないかと思いきや、まるでそんなことはなく、普段と変わりない退屈な日々が続いた。
トイレ行って晴子と笑って、教室に戻って机にしがみついて、授業という名の、教師が黒板にチョークで書きつけるASMR、またはバイノーラル雑学を堪能し、その間の強烈な睡魔と戦い続け、部活はあれど私はやっぱり顔を出さず、家に帰って、ご飯を食べてシャワーを浴びて、何事もなく寝に着く毎日がすぎる。
繰り返し、繰り返し。
そう思えば、私たちは何にも気付くことなく、またそれを疑問にも思わず、同じことをずっと繰り返してきた気がしてくる。
朝起きて軽く顔を洗い、歯を磨いてシャワーを浴び、上がると朝ごはんはトーストに目玉焼き、たまにオムレツ、レタスとキュウリにハム、トマトのサラダ。自分で作ったりもする。
パンというのは美味しい時には美味しいのだけど、特にそうでもない時にはどうしてこうも野暮ったく、口の中で溶けもせず、なかなか喉に通りにくい食感をしているのだろうと、何度となくもふもふ考え、玄関に座り、一日の始まりにため息をこぼしながら、革靴の踵に指を挿して履き、家を出る。
暑さにうんざりしたり、汗を押し退けたり、それが冬季なら寒さに嫌気を催しながら、ぎこちない筋肉をそれでも動かして、一歩一歩、懸命に道を進む。
お気に入りとはいえ聞き流しすぎて、飽き飽きする音楽をイヤフォンを通して耳に流し、毎度おなじみの風景を家から見れば、プラスの方向に進んで、階段や坂があれば面倒に思いながら一段一段上がり、帰りには降り、少しずつ、少しずつ、今は学校へ向かう。
段々と人気が増えていき、たまに晴子や柴田や猿彦といった顔見知りと合流しつつ、他愛のないやり取りをかわし、いつも通りの教室につき、同じ席に着いて、鞄をかける。
それからは前述のようなトイレと教室の行ったり来たりを繰り返して、時間が来れば、また朝来た道を逆にたどって、朝のルーティンを巻き戻すように玄関で靴を脱ぎ、キッチンテーブルで夕食を済ませ、間に自室で寛いだりを挟みつつ、シャワーを浴びて、布団の中に戻り、眠る。
そしてまた、朝に戻る。
時々途中の登場人物やイベントや道筋に変化は見られるものの、基本的な流れは変わらない。
この流れを休みを除いた約二百四十五日繰り返し、就学前の分を除いて、私はもうおよそ十年ほど、毎日、続けてきている。
この先の十年も同じように続けていくのだろう……か?
しかし、その一歩一歩の繰り返しが、得てして大きな川のような流れとなって、私たちの生きてきた人生となる。
しかし、成ったからといってなんなんだ?
さながら、それは回し車を回すハムスターのようだ。
彼らはあれで多いときには日に20kmの距離を旅した気になっているのだが、時々カゴの外を見て「あれ……? え、ちょっと待って。もしかするとこれ……進んでなくね?」と深淵を覗いてしまった個体は現れないのだろうか。
毎度同じ飼い主の手のひらが現れることには、なんら疑問を抱かないのだろうか?
もしそれが実はよくあることだったとしても、彼らの愛くるしい黒々粒々した瞳の裏で、鼻をすんすんしながら、何を考えているのかを探り当てる術を私たちは知らない。だから、何も変わらないし、きっと彼らもピーピー鳴いてるうちに忘れてしまって、今日もずんぐりお餅みたいなお尻で座りながらキャベツを頬張るのだろう。可愛い。
私たちがトーストに飽きながらも頬張り、毎朝、牛乳で喉に流し込むのと同じように。
いや待て——。
私は恐るべき真理の源泉に不用意に近づいてしまった自分の視座に凍りついて、パタリと思考を止めた。
と、するとだ……もしかすると、それを可愛いと思って観察している誰かがいるのか?
私たちにも?
そもそも、可愛い、でいいではないか?
一瞬でもそうして、心動かされることがあるのなら、その一瞬こそが生きる意味になる——?
意義を感じない他の時間を費やして、それを得るために生きる。時には、アトランダムな状況に自分の身をやってまで。
お酒飲みが仕事から帰ってきて、つまみをテーブル中に広げ、缶をぷしゅって開け、喉をごくごく鳴らしながら氷のように冷えたアルコールを食道に流し込み、ぷはーっとため息をつくその瞬間のために生きてるようなものと気持ちよさげに漏らすのと、同じ。
もしかしたら、その瞬間さえ感じられれば——それでいいのか。
人生なんて。
一瞬が終わってしまったのなら、また次の心踊る一瞬を探せばいい。
猿彦は今でも蓋然性の仕掛けのために、あそこで、その日を——そして覚悟して丘を登ってくる私を、毎日待ち続けているのだろうか。
それとも、私の言動の端々から虎視眈々とその気を窺っているのか。
学級委員の仕事で坂東とともに甲斐甲斐しく教師に給仕する姿からでは、その内情は何も計り知ることはできなかったが、想像するにそれは、ひどく物悲しい光景だった。
前世の記憶を呼び覚ました少年が望むことはこの世からの永久的な解脱だった。
この輪廻転生の理からの解放。
それだけが彼を地獄から救いうる。
理屈では私も分かる。そうなれたら、私もどれほど気が休まることだろう。
けれど、あの時感じた彼の寂しさは、本当にそれを望むものか。あの時同時に目覚めた私の母性が、相反して鎌首をもたげるのである。
私の内側から何やら懸命に声をあげるのである。
そのため、私の頭の中の議事堂は今や毎日、乱闘騒ぎであった。
意見は真っ二つに分かれて、両陣営とも殴り合い、瞼を腫らし、鼻に赤い筋を作って、ティッシュで栓をし、日々忙しくあーでもないこーでもないと苛烈な討論を繰り広げている。
私のやる気スイッチはどこにある?
今こそ、見つけなければ——、
そして、押さなければならない時なのかもしれない。




