12. 『そして世界が終わるまで』
「私が決めたの。お母さんと行くこと」
私は絵本を読み聞かせるように、猿彦に語る。
「その時、お母さんは私を説得するみたいに言い聞かせてて、お父さんは後ろのソファに座って、ただじっと見守ってた。私はお父さんが好きだった。それなのに、なんでかって? ——お父さんを本当に本当に愛してたからだよ。だから、離婚するなら、綺麗さっぱりこれまでのことを忘れてね、お父さん自身の幸せのためにこれからを生きてほしいって思ったの。その時、その瞬間に、私、気付いちゃったんだ。深い部分まで愛してしまえば、その人を殺してしまう。だから愛すればこそ、その人と居続けることはできない。愛するその人のために、その人といることを諦められること。それが本当に好きってことなんだって。——だから、私たちは一番好きな人を選べない。一緒にいたら、きっと、自分の愛で殺してしまうから。だから、殺さないで済むほどの、程よく体の良い、嫌ってもいいくらいの誰かを選ぶんだよ、私たち。そうしなきゃ、この世界ではうまく生きられないんだ——」
私たちは並んでミズナラの根元に腰掛けていた。
私は抱き合う代わりに、昔話をつらつらと猿彦に聞かせている。
「でも、なら、なんで……私たちは産まれたの。どうしてこんな苦しんで生きなければならないの。初めから産まれてこなければ、こんな気持ちを味わうこともなかったのに——」
そうしてふと夜空を見上げた時、そこにある星々の方を見とめ、私は思い出したかのように目を見開いた。
猿彦の肩をバンバン叩きながら、また声を張り上げる。
「——あ、そうだそうだ!! 猿彦——!!」
隣で首を傾げる猿彦に、私は息急き切って言った。まるでかつて見たみほちのようだと自分で思うけど、興奮がおさまらない。
「七夕だよ、今日!!」
私はまだぽかんとしている猿彦の顔を、終いに掴んで無理やり空に向け、指をさした。
「ここ自然しかないからよく見えるでしょ? あれがたぶん、天の河。で——もうノリ悪くない? 猿彦、天体とか興味ないの? 私、わりと好きなんだけど」
「ううん、なんか珍しいと思って」
「そりゃそうでしょ。乙女なら皆、知ってるし、誰でも一度は憧れるでしょ。あれがデネブ、アルタイル、ヴェガ、夏の大三角形!! あれが——」
なぜだろう。
その名前を口にするのは一瞬憚られた。
「あれが……織姫と、彦星なんだ……無神経な神様に引き裂かれた二人——」
それは憎悪に等しい。
「だからロミオとジュリエットのように。死による永遠を選んだ私たち、あるいは遠い昔の誰かがいたのかもしれないね」
口にすると、とたんにまた視界が滲んだ。知らず、指先に力がこもり、拳が握られている。
また、涙が溢れる。
己の意志と関係なしに口走ったことを含め、自分の気持ちの所在の見当がつかない。
さっき湧きあがったものと同じく、まるで身に覚えのない感傷だった。
「あ、れ……ご、ごめん! ちが——違うの。なんか……」
私は慌てて言葉を切り、深呼吸をする——、
なのに、身体が言うことを聞かない。気持ちを整えようと息を吸い、目元を拭いあげるほど、涙は一層大きな粒になって流れ続けた。
「なんでだろう。どうしたのかな……」
猿彦は珍しく目を見開くようにして私を見て、すぐに首を横に振る。
「気にしないほうがいい。きっと、そうだよ。千歳の言うことは当たっている。だから、何かが、漏れ出したんだろう」
猿彦は私の目元を拭い、ふっと手のひらで覆うと、またキスをした。
今度のは唇をくっつけるだけの中学生みたいに素朴なキス。
顔が離れて、目元を覆った手も退けられてから、私は言う。涙が止まってきた。
「ほんと、好きだよね。ちゅーするの」
「夢を見たんだ」
私は脈絡が分からなくて、アホみたいに尋ねる。
「……キスする?」
猿彦は再三再四、からからと笑いながら続ける。
「それもあったけど。——信託のような夢。突然舞い降りた感傷、一枚の絵を見たような気がした……」
私は猿彦の話に不思議と心当たりがあって、段々と思い出すにつれ、彼をそんな驚愕した顔で見ていた。
「マトリョーシカのように丸みを帯びた……おそらく母と父……両親の間に抱かれた赤子。おくるみに包まれた赤子も、皆、瞼まぶたを閉じて、その出逢いを噛み締めているかのような構図になっている一枚の絵……"私のたった一つの願い"。そんな想いが込められていた……」
「たった一つの願い……」
しかし、私が見たモノとはまた別なようだ。
私が見たのは絵とはいえども一瞬を切り取ったようなモノ。
入道雲や廃線となった駅舎やバス停、ペンキのはげたブランコ。木々の隙間から見える日差し。
そんなスライドショーのような抽象的なモノだ。
だから厳密に一枚とも言えない。
「その時は気がしただけだってそう思って、すぐに忘れていた。——けれど、こうして出会えた」
彼はいとも容易くおどけて言う。
「君だったんだ。その夢に出てきたの。驚いたよ。嘘かバチかと思って親父に無理言ってさ、ついてきてみたら、本当にいるんだもん」
「……は? その絵が?」
「うん。……似ている、いや、似ているというより、同じだった。生まれ変わりみたいにさ」
「それも——え、なに? 私を喜ばせようとしてる仕掛けかなにか?」
猿彦はふるふると首を振る。
「本当のことを話してるつもり。……頭、おかしいと思う?」
私は信じられないことが起こりすぎて、もうどこから突っ込めばいいのかも分からず、ぼけっと口を開けたまま、首を横に振った。
「……全然。私も見た気がするし。どうなってるの?」
「俺は……なんとなく、前世なのかなって思ってる」
「前世? まさか」
みほちの話を思い出す。よもやあの与太話が、実しやかに現実味を帯びてくるなんて。
「君がどういう夢を見たか分からないけど、俺のは長くてさ、本当に転生したのかと思うくらい、長く感じられて、全然、こんな場所じゃない、ファンタジーなものとか、SFみたいなのもあって、死ぬと場面が変わる。それが何日も何日も、何度も何度も続いて……ある日、起きたら、髪がこんな色になってた」
「それが突然変異?!」
「そう」
「それ……マジだったんだ」
私はしみじみ言いながら痛くなってきた頭を抱え込んだ。私の髪まで色が抜け落ちてってしまいそうだ。
「ほんと、どうなってんの——?」
「親父はさ、色の抜け方から、仮説を立てたよ。ほら、古代に聞く女王様が一夜にしてストレスで真っ白になったって逸話あるじゃん? それが俺たちの色味で同じように起きたら、その抜け具合がもしかしたら、ちょうどこんな色になるんじゃないかって」
私は猿彦の親父さんに感心した。そんじょそこらの親なら、相手にすらすまい。
「猿彦もそうだけどさ……親父さんも凄いね。行動力の化身っていうか」
「一応考古学博士だし。で、俺の話も信じてくれたってわけ。そもそも楽しいことしか興味ない人だから——違うな。自分が興味を持ったこと=楽しいって感じ。だから、人としては狂ってると思うよ。こんな時間に出歩いてても何も言わないし、何ならほら、そこの雑木林とか興味あって、毎晩勝手に調べて、家にいるほうが珍しいくらい」
「え、じゃあ、今は?」
「もう帰ったんじゃないかな? こっちのことなんか目にも入っちゃいないよ」
帰宅の際の私の様子がなんとなく気にかかって、今宵のフィールドワークに同行し、猿彦は飽きて別行動、手近にあったこの丘を登って暇つぶしに持ってきた文庫本を読んでたところに、たまたま泣いた私が現れた。
つまり、猿彦は気取って言ったわけでも、洒落て言ったわけでもなく、ひたすら本当のことを言っていたにすぎない。本当になんとなくで、たまたまだったらしい。
しかし、私はふと気付いた。
「そういえばさ、猿彦のお母さんって……」
「ずっと昔に死んだよ。俺は覚えてもない」
いつものように変哲ない素振りの返答がすぐに隣から返ってくる。
「幸いだったのは誰もそれを美談にしないこと。そりゃそうだろ。親が早くに死んで美談になんかなるものか。そういう奴は頭がおかしい。人の気持ちが分からないのだろうね。子供からすれば最大限の無責任だ。野放図に解き放たれるって分かってて、なぜそれでも産むという選択を強行したのか。身体が弱い自分でも、子供は産めるって自尊心を埋めたかったのか。自分が生きた証明? 下劣すぎて吐き気がする。そんなエゴのために産み落とされ、生きなければならなくなる、こちらの身にもなってみろと、俺は言いたいよ」
けれど淡々と喋る中に、強い感情が明らかに見てとれる。それは猿彦にしては非常に稀有なことだった。
彼も気付いたのか。
すぐに話を止めると猿彦は立ち上がり、私の手を取って丘の向こうに連れ出した。
端の欠けた月をライトにシャルウィーダンスでも始めるのかと思えば、猿彦がそんなロマンチックなことをするわけがなく、ただ芝生の禿げた崖先までくると、言う。
「見なよ、絶景だ」
土くれた道はそこで途切れ、足元は断崖絶壁、一面に真っ黒な海原が見える。
近隣には島の一つもなく、またよく晴れてもいるので、遥か遠くの地平線までも見渡せた。
私は生唾を飲む。
まさか、ひょっとしたら、いきなりドンってことはないよな……? 久しぶりに目を覚ました頭の中の議員たちが、寝ぼけ眼で私を見守っている。
「俺、夜の海って好きなんだよね。黒くて、どこまでも黒くて、黒くて、それに生臭い良い匂いがして、静かで、この奥には光さえ届かない場所がある。そこに呑み込まれたら、どんなに気持ちよく逝けるだろうってよく考える。だってそうだろう? 命は漏れなくあそこから産まれた。あれこそ俺たちのグレートマザー。ママ、そのものだ。海底も子宮の中もきっと同じような音がする。その腕に抱かれて逝きたいというのは生物全ての遺伝子に刻まれた、根源的な本能——いや性欲のような欲求だとさえ、俺は思う」
「猿彦……」
「だから、怖がる必要だってないんだよ。プランクトンが解してくれる。そして、母の一部に迎えてくれる。考え方一つだ。——ほら、すぐだよ。もう一歩もない。ここから落ちれば、すぐにも楽になれる」
猿彦は私の手を持ちながら、もう片足の爪先まで放り出している。
私は、けれど、躊躇する。
怖いという感情もあったが、それ以上に急速に見え始めてきた猿彦という少年の、その刹那的な魅力の根源に、私の中の何かが反応しているようなのだ。
もしかしたら、これが母性というものかもしれない。
丘の上では優しく感じられた風が、今は少しずつ背中を押してくるように伝わった。
猿彦の誘う手のように。
「俺は今だっていい」
「猿彦……あ、あのさ」
「大丈夫。豚みたいになって発見されるのは俺も一緒だし、人間本意な見方でしかないし、何より、死人にそんなの関係ないから」
「…………」
強い言葉を使えば使うほど、生き急ぐように話せば話すほど、今まであった外面的なイメージが崩れて、とたんにその内に秘められた寂しい少年の、ただの駄々っ子のような素顔が見えてくるようで。
私にしてあげられることは本当に、こんなことだろうか?
むしろ、ここで一歩踏み出してしまうことは、彼の心を闇に閉ざしたままで終わらせてしまうだけの顛末な気がしてならない。
それは、しかし——、
自殺志願者に対する自己満足だろうか?
私がしばらく押し黙っていると、猿彦は少し嘆息して、道のある方に戻った。
「ごめん。まだだったね」
「……ううん、私の方こそ、なんか……」
「とりあえず、見せておきたかったんだ。いつだって俺は構わないし、ここに来ればいつだって死ねるってことを」
再び丘に戻る道すがら、私は尋ねずにはいられない。
「猿彦はさ」
「ん?」
「なんで死にたいの?」
猿彦の目からはいつの間にか、私が初めて見た時抱いたような純真さは消え失せていて、ひたすらに影が濃く見えるようだった。
まさにさっき見た海のように。
夜のせいもあるかもしれない。
猿彦はにべもなく言った。
「質問に質問で返してもいい?」
「どうぞ」
「じゃあなぜ、千歳は生きたいの?」
「え」
「生きていたいって思う? これから先もずっと」
私はとっさに、答えることができない。
「……分からない。今、私は幸いにも良い友人たちに恵まれてさ、人に比べたらずっと幸せだと思う。だけど——でも——」
「——その幸せはずっとは続かない」
猿彦が引き取って言った。
「そう。俺もそうだよ」
「でもよく先のことは分からないとか言うでしょ? 楽しいことも喜びもあるかもしれない。ううん、生きていなければそれは味わえない」
「見つかったら、千歳はどうする?」
「どうするって——そりゃ、それを一生懸命続けて、毎日夢中になってくんじゃない?」
「千歳は今、それをできてる? 自分の一番大切だと思うものを一番大切に出来てる?」
「——!」
「奇しくもさっき君が言ったように、この世の仕組みはそれを赦さない。読んで字のごとく、それは夢の中の出来事で、現実社会の在り方からはかけ離れているからね。特例があるとすれば、それはその人が夢中になることが著しく社会の役に立つ場合だけ。もっと具体的に言うなれば、金になる場合だけ。そうして役に立つか、立たないか、それだけが社会における優位性の認め方だから。それに、もし心の底から愛するものや人が現れて、二十四時間をそれに費やせたとしたら、それはそれで今度は後悔したり、不安に駆られて消耗していくだろうね」
「なぜ?」
「それも君はよく知っている」
「永遠にはいられない、いつか必ず別れなければいけないから——?」
猿彦は頷いた。
「死ねば全て忘れてしまうんだよ、千歳。今生でどれだけかけがえがないと、愛していたモノも人も、全部失って、忘れきって、またゼロからだ。次はどんな人生かも分からない、またその人に出会えるかも、同じ時代、同じ生き物に生まれているかも分からない。思い出せないんだ。誰もが前世のことなんて。今、目の前にいる人やすれ違った人だって、前世の知り合いかも知れない、恋人かもしれない、全然知らない人かも、憎悪の果てに殺した人かも、自分をいじめてきた人がそうかも、それも分からない。目の前の現実だけが、網膜を通して、その一生の一瞬のうちだけの真実にすげ変わる。その都度変わる人生で、その都度変わる恋人を、それを選んだのが自分だと思って、最愛の人だと思って、初めての恋人だと思って、愛し、愛されて、この今がある。俺たちはずっとそうしてきている——」
私は足を止めていた。
猿彦も私を振り返り、足を止めている。
「そして世界が終わるまで——それが永遠に続く。これが始まりでも、これで終わりでもなく、俺たちはずっと、永遠に終わらない途中を生きてるんだよ」
背後に海原が、前には連綿と地平が続く。
楕円に湾曲している事実はさておき、それは実際私たちの知覚からすれば、先っぽでつながる平行線だ。
世界は果てしなく続くかに見えて、一周して、また私の背後まで戻ってきているだけ。
それが、小さな私たちの目線からすれば、果てしのないように見えているだけのこと。
果てのないことなどこそ、この世のどこにもない。
この限りある狭い空間が私たちの全てであり、私たちはその中をぐるぐるぐるぐる回り続けているに過ぎないのだ。
産まれて、死んで、また産まれて、を数限りなく繰り返して。
風と海だけが変わらず、私たちを取り巻いて、息吹いている。
私たちだけが、変わっていく——自覚もなく、そうして何もかもを忘れながら。
忘れなければ生きていけない残酷さすらも忘れながら。
「まるで出口のない魂の牢獄だ。俺たちが何をした? なぜ、いつ、生まれた? これはいつから始まったことなんだ? そしていつ終わるんだろう? 虚しいだろ。そんな世界で愛なんて語るのが馬鹿らしいだろ。だから、せめて自分で決めたいんだ。産まれが決められないのなら、せめて。自分の想う最愛の人と、最高のタイミングで、この世界の終わる日くらいは、自分で決めたい」
私は言葉もなく、猿彦の言葉を聞いていた。
「嘘ついてごめん。最初からわかってたんだ。前世の記憶を思い出してさ——、俺はそうして、今生の君と死ぬために、この街に来た」
黒い海原のような、底の知れない絶望を胸に。




