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『そして世界が終わるまで 〜繰り返される恋の、その先へ〜』  作者: 白雛
現代編

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11. 『青春狂想曲と原初の味』




 バタンと勢いよくドアを閉める音。

 おじさまがお花摘みにお立ち遊ばれたのだった。


 何をどうしたら、トイレに向かう一連の動作だけで、そんなに人の神経に障るハーモニーを奏でられるのか、私には理解ができない。

 何かしらの病気なのではないかとすら疑い、嫌悪する。


 私は目尻を擦って、そこについていたものを払うと、まだ微睡の残り香があるうちにと、再び目を閉じる。しかし、それも無駄な努力であることを既にして理解している。


 叩き起こされた神経は、アイスのように睡魔を溶かし、何ならそうして寝付く前よりも冴え始めて、尚一層細かな音をも拾い始める。


 再び戸をバタンと閉める音。その衝撃で家が揺れる。頭がおかしい。今度は冷凍庫を開き、ガラガラとやかましい音を立てながら氷を漁っている。まるでわざと五月蝿(うるさ)くなるように氷をかき混ぜているかのようだ。


 それら全てが全く遠慮のない力任せの所作で行われるから、音量も最大になる。


 粗暴も粗暴、他に追随するもの見当もつかないくらい粗雑で乱暴で無神経で……一挙手一投足、口から出る言の葉の一枚にも品性が感じられない醜さに思わず、悪態が口をついて出た。


「うるせぇ……」


 時計の針が無意味に進む。

 クーラーをつけない室内の湿気がまとわりついて、全身は汗で濡れている。布団までもが湿ってひどく気持ちが悪い。


 それでも寝れていればもう朝だったのに。


 登校して、晴子や柴田や猿彦とくだらない話で盛り上がれる、あの夢の中へ行けていたのに。


 それら全てを見下すかのような笑い声が階下から響いた。そりゃあんまりですって、千草(ちぐさ)さん!! という言葉まではっきりと聞こえた。

 いわずもがな、千草とは母のことだ。


 私はばっちり目を開けた。

 眠気などカケラほどもなかった。


 そして次の瞬間、身体にかかるともなく引っかかっていただけの布団を跳ね除けると、しかし今にも盛大に吐き出されんばかりの気持ちを押し殺して、そっと、窓を開ける。


 今が何時なのかは確認しなかった。

 とにかく夜更けも夜更けのことである。


 物干し用のベランダに繋がっている引き違い窓を1/3ほど開けると、桟と框の間に身を滑らせるようにして潜り……抜けようとして、乳が引っかかったので一度立て直したのち……ベランダに出ると、手すりを飛び越え、瓦屋根から、軒庇の上に伝い、玄関先に降りた。


 耳をそば立てると、連中はまだお喋りに夢中で、まるで気付いている気配がない。そこは連中の鈍感さに感謝して。


 私は居間の大窓から外に放出される電灯の灯りを嫌い、庭に捨ててあったサンダルをひっかけながら、影に紛れるようにガレージに向かい、母のママチャリを拝借した。


(ひとよひとよにひとみごろ……)


 私はダイヤルロックを外し、車体の適当なところに括り付けると、サドルと言わずにフレームを跨いで、ペダルを漕ぎ出し、そっと家を後にした。


 夜風が寝汗にしんみり涼しく、人気のない雰囲気と、月のちょうど良いライティングと、空気を伝って耳に届く虫の合唱が、私の(ほて)った脳髄に爽やかな冷気を運んだ。


 深夜の住宅地を疾走し、裏手の雑木林に向けて畦道を辿る。


 自転車、田園、錆びたバス停の看板。朽ちた木造の待合所。


 人の住居が(まば)らになり、街灯の光さえ失って、月明かりを反射するだけの真っ黒なコンクリートの上にタイヤを転がしながら、全身で深呼吸すると——、


 私は、叫んだ。


「うあーーーーーーーーっ!!!!」


 息をついで、怒鳴り続けた。


「うっせぇよ!! うっせぇってんだよ!! どいつもこいつも!! 分かったような顔してんじゃねぇよ!! 何にも分かってねぇくせによ!! ムカつくんだよ!! やかましいんだよ!! 私だってな……私だって……何にも分かってないんじゃ、ボケェーーーーーーーっ!!!!」


 広い田んぼの上から、深緑色濃い山々の奥地まで遠く、私の声が木霊するようだった。


「死ねよ!! 火ぃ付けてまわりてぇよ、必死に堪えてんだよ!! なんで黙ってられねぇの!! なんで、分かってくれないのよ——!! 大人のくせに——私なんかより、ずっと長生きしてるくせにっ!! なんで、そんなことも分かんねぇんだよ!!」


 一言叫ぶごとに何だかずっと深いところから感情が込み上げてきて視界が滲んだ、が、気のせいだと思って、かぶりを振って払った。


 私は今、怒ってるはずなんだから。


「だから皆、死にたくなるんだろ!!!! 自殺したくなんだよ!! 弱いなら強くなれよ、皆黙ってそうしてんだよ、だから頼れねんだよ!! 邪魔なんだよ、せめて邪魔すんなってマジで!! お前の存在が冒険の邪魔なんだよ!! なんで分かんねぇんだよ!! 窮屈なんだって!! 皆、お前のせいだよ!! お前が悪い!! そんな私も、産まれてこなきゃよかったんだよ!! 人生なんかやめちまえ!! 死んじまえ!! クソがっクソがっクソがーーーーーっ!! 二度と産まれてくんな!! 死ね、死ね、死ねーーーーっ!!」


 私は息も絶え絶えになりながら、ひたすら叫び、ひたすらペダルを漕ぎ回した。


 例の丘の麓にある雑木林まで来ると、私は自転車を乗り捨て、躊躇うことなく木々の間に分け入った。


 夜中にお花摘みに起きた時の廊下より、ずっと暗い。そこは光のない、深海のような世界だった。


 しかし、恐怖はまるでない。

 身体が木立の位置を、そして足元のでこぼこを覚えている。けれど、なぜそうしたのかは自分でも分からなかった。


 あるいは本当に死ぬのなら、あの丘の上がいいと無意識に思っていたのかもしれない。


 そうして麓の林を抜け、翡翠色の草原を歩き、丘の上が見えてきた頃、私はその雲一つない真っ新な月夜の袂に、信じられないものを目にして、一度自分の頬を思い切りつねった。


 頂上の大きなミズナラの樹の根元に、金と黒と白のよく見知った人影がある。


 以前ここで会った時には制服だったが、今は私と似たようなラフな格好で白黒が上下逆である。


 彼は当たり前のような風情で片手に小さな文庫本を挟み、ミズナラの幹を背に、そこに立っていた。


 猿彦がいた。

 私はもう泣いているのか笑っているのか分からない感覚で、声を張り上げる。


「なんで、いるの?」


 猿彦は本を閉じ、こちらを見ても尚、朝の登校中にでも会っているかのような、何気ない素振りで答える。


「なんとなく。今日は荒れるんじゃないかと思った」


 私は丘を上がりながら思わず、吹き出した。


「嘘でしょ? これも……蓋然性とか言うの? 仕掛けだって? そんな——そんなの、そんなのってもうさ——もう魔法だよ……っ」

「これこそ本当に蓋然性。本当のたまたまだよ」


 昨日——既にそれは、昨日の夕方のことだ——使ったばかりのフレーズを、猿彦がなぞるように繰り返すうち、私はもう彼の目の前まで来ていた。


 あの日と同じように、丘を登り終えたばかりの荒い私の息と、猿彦のやわらかな吐息だけが、周囲の風の音に混じって聞こえる。


 金色のやわらかな髪がよく揺れ、月夜に照らされて、飴細工のように透けて見えた。よく見ればそれは金という他ないが、黒の彩度を極限まで落としたような、いわゆるトウヘッドに近いものだ。だから、よく透き通って、ともすれば光の加減によっては白にも銀にも見える、贅沢な色合いをしている。


 さっき頬をつねったばかりなのに、それでもまだ戸惑うばかりの私に、猿彦はゆっくり笑い、からかうように言う。


「それで……千歳はどうしたの? 散歩の途中——?」


 私はもう抱きついていた。

 猿彦が言い終わらないうちに、全身を彼の方に預けるように。

 猿彦は優しく私の後頭部を覆いながら、引き取るように続きを言う。


「——そう。それは、つらかったね」


 何も言っていないのにすべてを見通すように猿彦はそう言った。

 私は無言で答えた。

 猿彦も後頭部を撫で続けるだけで、それ以上は何も言わない。


 これは錯覚だろうか。

 自室の窓からベランダに出て、ふと夜景を眺めたとき、まるで世界中の生き物の寝静まった吐息が聞こえ、この世に今起きているのが自分だけであるかに思えるような——、

 荒唐無稽で泡沫な想いあがりだろうか。


 ここに永遠があるような気がした。

 止まった時の永遠ではなく、動き続ける永遠の時が——、


 この風はきっと太古から息吹いている。


 太古の匂いを乗せながら、絶えることなく、そして今に息吹いている。


 それこそ私が分泌された精液の一雫に泳ぐオタマジャクシであった頃よりも遥か以前、ずっと、ずっと、遥か悠久の彼方から、この大地の全てをそうして撫ぜ、癒やし続けてきたかのように思えてならない。


 鳥を飛ばし、草を走らせ、花を芽吹かせ虫を鳴かせ、枝を揺らし、砂を転がし、石に記憶を刻んで、今を形作り、私を優しく抱きしめている。


 私はその父のような大いなる腕に抱かれながら、子供みたいに声を上げて泣いていた。何が哀しいのかも、何が悔しいのかも、もう定かじゃない。


 どこまでも続くかのように思われる空と、海と、大地と、そこを駆け抜ける匂いを想うと、涙が止めどなく溢れて、どうすることもできず、感情的になる。


 なぜ? なぜ——?

 なぜ、私は産まれたの?

 産まれてきてしまったの?

 これは、どこまでいけば——、


 あと何度繰り返せば、終わるの?


 私たちはいつまで出会いと別れを繰り返せばいい——?


 産まれてきたって最後には皆、死に別れるだけなのにっ——!!


 人間はもういやだ。

 忘れたい。

 還りたい。

 自分がまだ、鳥や、虫や、草や、花や、自然界の一部でいられた頃に。


 声が聞こえる。

 私のではない。

 たぶん、風の、泣いているような声が——。


 もう足さなくていい。

 もう引かなくていいから。

 今が、幸せだから。

 だから神様もうもうどうか(ゆる)して。

 一瞬ではなく、永遠をください。


 神様、どうか、どうか、お願いだから——、


 足元の白詰草の花弁が、泣くように舞い上がる。それは——、

 遠いどこか、はるか昔にもあったこと。

 そこで生きた見も知らぬ少女の声と、私の今の想いとが重なって、一斉に空に響き渡るようだった。


 ——私たちをもうそっとしておいてください!!


 そんな見も知らぬ少女の悲痛な願い事が、私の慟哭と重なって、風に乗って聞こえた気がした。


 夜風と共に一挙に押し寄せた感傷は、私の脳裏には大きすぎる。

 頭がもうパンクしかけている。


 その時、猿彦の棚引いた髪が視界に入って、私は一つ謎を解いた気がした。


 突然変異とは——このことか?


 きっとそうだ。

 猿彦はこの虚無を、虚空を、絶望を、既に知っている。だから——。

 だから、こんなに私に優しいのか。


 そうして顔をあげ、彼の瞳孔をじっと見つめると、猿彦は意図を察したように首をわずかに傾けた。

 もう躊躇いはなかった。


 目を閉じる。

 絶えることのない涙が、閉じた瞼に押されて、尚勢いを増し、溢れる。

 間もなく唇に触れるものがあった。

 また熱いヴェーゼが交わされる。

 忘れたい。

 逃れたい。

 この永遠に続く回廊から。

 どうすればいい?

 私たちが何をした?

 なぜ、私たちはいつも、一番好きな人とはいられない?

 愛するなんて気持ちを抱けるようにしておいて。

 だから、神様は大嫌いだ。

 最低だ。

 最低のことを人間にした。

 生きること。

 生きねばならないこと。

 それがヒトの原罪だった。

 流れた涙が頬を伝い、重なった唇に染み込む。

 今度は私が求めた。初めから、私も舌を伸ばして彼を全霊で受け入れている。

 今なら全てを受け入れられる気がした。

 涙は潮——ナトリウムを孕んで、原初の味がした。

 それはひどく、懐かしい匂いだった。




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