フライングソーサラー
「どう? どこかおかしいところないかな?」
「とっても素敵よ。ホンモノの隼よりずっと素敵なくらい」
隼になってしまったジャックを前にアイジュマルは心にもないお世辞を言った。そもそも、おかしいところないかって、全部おかしいし。
ユータの真似をすると常日頃言っていたジャックだから、遅かれ早かれこんなふうになるのは仕方のないことなのだろう。でも、実際に目の前で隼になったジャックに話しかけられたら、けっこうくるものがある。
そんなアイジュマルの気持ちを知ってか知らずか。ハヤブサは軽く毛づくろいすると、大きな扇風機を横倒しにしたような装置の上に飛び出した。
本来は、羽ばたいて揚力を生み出すのだが、ジャックは回転翼が生み出す上昇気流を使った。羽ばたくのに慣れていないから、最初のうちは補助が必要なのだ。
うまく上昇気流に乗ったジャックは羽を広げて滑空する。少々危なっかしいハヤブサを、アイジュマルは切ない気持ちで見つめていた。
シノノメは西京味噌のたっぷり入った味噌壺と格闘している。
どうもユータは、魚が苦手らしい、との噂だ。
そう言えば、サワラも銀ダラも、最近ではピラルクも、あまり箸が進まなかったような気がする。
ーーそれなら、そうと、はっきり言えばいいのに
まあ、苦手なものを無理強いするのは良くない。
ということで、シノノメはコマチ先生に牛モツを貰ってきた。
牛モツの場合は、魚と違って、下ごしらえが少し面倒ではある。
塩揉みしたモツを冷水でさらし、水を切ったあと、ネギの青いところと生姜、ニンニク、唐辛子を一鞘入れて茹でこぼす。
それから綺麗に脂をとって、もう一煮立ちさせてザルにあけて冷ます。
ーーま、こんなもんでしょう
牛モツください、とコマチ先生に言ったら、どうして、とか訊くので、西京焼きにしてユータに食べさせると言うと、何故か目を潤ませて、やっとわかってくれたのね、先生も応援するから、とかよくわからないことを言う。
ひとりで出来るから手伝いは要らないです、と言ったら、もちろんよ、新鮮なモツ用意する、がんばって、などと言うし、本当にわからない。
もちろん、良いモツを用意してもらえるのはありがたいのだが、何を喜んでいるのか、そこのところがわからない。
母とは別の次元でわかりにくい人だ。
脳が膨れる病気だから、情緒が不安定なのかもしれない。病気なら、あれこれ口を挟むのは可哀想だ。
モツを漬け込んで、壺口の表面をならした。モツだし少し長めに漬け込むほうがいいよねえ。
ふと顔を上げるとアイジュマルと目が合った。
パントリーの入り口でじっとこちらを見ている。
「西京漬に興味がおありですか?」
アイジュマルは、驚いて首をふるふると真横に振った。
「遠慮しなくていいですよ」シノノメは味噌壺にふたをしながら言う「ベッコウも豚ロースの西京焼きを試してみたいと言うので、西京味噌を分けてあげたんです。初めは漬け込まなくても、味噌を塗って焼くだけでも風味を楽しめますから」
「味噌はともかく、豚はちょっと…」
「豚じゃない? じゃあ野菜なんかどうです? これは試しに漬けてみたエシャロットですが」
「あら、美味しい…、違う、違うの…、相談したいことがあるの」
相談? シノノメは味噌壺の並ぶパントリーを見渡した「ここじゃ、何ですから…、談話室に行きましょう」
「これは?」
「葛切りです。お口に合わないようでしたら、アイスもあります」
「いえ、いいです、いいんです。いただきます」
冷茶でいいですか? とシノノメが言うので、アイジュマルはぶんぶんとうなずく。
あきらかに年下の娘さんにおもてなしされるというのは気恥ずかしい。
実態はどうあれ、ということだが。
ーーそれにしても
アイジュマルは葛切りに集中している振りでシノノメの顔をこっそり見ていた。きめ細かで透けるように白い肌に切れ長の目と薄い眉。紅く引かれた唇は、本当に日本人形のようだ。いっそ、お人形です、と言われるほうが納得する。
「それで、ご相談というのは?」
あわててアイジュマルは葛切りの小鉢にフォークを戻した。
「ジャックが隼になってしまったの」
駄目だ、アイジュマルは思った。自分で言ったものの、こんな言い方では誰も何もわからない。
「ジャックはハヤブサが好きですものね。タイ空軍時代の愛機が戦場の隼でしたし」
「何でそんなこと知ってるの」
「大抵のことは知ってますよ」シノノメは気のない返事だ「吉祥の当代なんかやってましたからね。そう言えば、父があげた天体望遠鏡、ヒスパニオラに持ってこなかったのは何故です? あまり気に入りませんでしたか」
「そんな」アイジュマルは絶句した「アレはトルクメニスタン政府のものだし…」
「日本トルクメニスタン共創プロジェクトなんてものに、そんなお金ありませんよ。アレは父が面倒くさくなったからポケットマネーで勝手に帳尻合わせただけだと思います。父のポケットマネーって、結局は吉祥財団のお金ですからね。父はあなたにあげたつもりじゃないかと思います。だから、持ってきちゃっても特に問題なかったと思いますよ」
そういうものなのか? アイジュマルは面食らうばかりで、考えがまったく追いつかない。
「ま、それはそれとして」シノノメは斜め上に視線をあげ、何か考えている風な仕草をした「アマツバメですかね」
「は?」
「アマツバメです」シノノメは繰り返した「ハヤブサは鳥類飛行速度で最速を誇ります。地面を走るならダチョウ、水中最速はジェンツーペンギンですが、アマツバメも滑空速度とダイブではハヤブサに引けは取りません。何かの理由でアイジュマルがハヤブサが苦手なのであれば、飛んでいるジャックに追いつくには、アマツバメぐらいしかないと思いますが…」
「アマツバメ…、か」
実際に口に出してみると、なんとなくイケそうな気もする。アイジュマルはもういちど、アマツバメ、と声に出して言ってみた。
「ありがとうシノノメ、なんとかなりそうな気がする」
アイジュマルは不意に立ち上がると部屋の外に駆け出した。その後ろ姿を見つつ、大丈夫かな、と、ひとごとながらシノノメはアイジュマルが心配になった。
空を飛ぶハヤブサ。
やっと飛ぶのに慣れた。
頭を空っぽにして風にのる。
空はどこまでも青く、眼下の校舎がとても小さく見えた。
ひとりで空を行くジャックは、大きくゆったりと弧を描いて、校舎のほうに向きを変える。
その時、
不意に横を行く鳥がいた。追い越していった鳥は尾羽を震わせる。
羽ばたいて速度を上げ、ハヤブサは前方をいく鳥を追う。
真横にならんだ。
水色のツバメは、頭の部分だけ色が違う。
昔、アイジュマルの着けていたヒジャブの色に似ている気がした。
ツバメは、ひらりと身を翻し、ふたたびハヤブサの前に出る。
二羽の鳥は、抜きつ抜かれつ、晴れ渡った空をどこまでも上りつめていった。
「おいしい、おかわり」
「はい、どうぞ、いっぱい食べてくださいね」
トロモツの西京焼きを口いっぱいに頬張るユータを見て、やっぱりモツ漬けにしてよかった、とシノノメは思う。
「ユータはお魚よりお肉のほうが好きなんですね」
「あ…、いや…、うん」
曖昧にうなずいたユータは、でも、やっぱりそうなのかな、と、しぶしぶ肯定した。
「魚の骨がさ、のどに刺さるから、苦手」
「え? でも、シノノメは切り身しか出さないし、小骨も抜いてますよ」
「あ、うん、そうだね。だからシノノメの魚は食べてるじゃない」
そういうことか、シノノメは思った。何でも訊いてみるもんだな。魚のほうが面倒もないし、食べてくれるんなら魚も元通り出そう。でも、こんな食べるんなら、トロモツ、また作ってもいいかも。




