9. 二人で過ごす日
※この話はR15程度の親密な描写を含みます。
苦手な方はご注意ください。
マルタたちが帰国した後も、アルドの一日は大きく変わらなかった。王城へ出向き、書類を読み、相談を持ちかけられれば話を聞く。ただ一つ変わったのは、頼まれたことをその場で引き受けるのではなく、自分の予定を確かめるようになったことだった。
「その日は先約があるので、翌日でも構いませんか」
そう答えた時、相手はあっさり頷いた。断れば困らせると思っていた用事も、日をずらせば済むものは多い。空いたところへ仕事を詰め込まなくても、誰かが困るわけではなかった。
その日の先約は、セドリックと二人で出かけることだった。以前話に出た店で昼食を取り、その後は王家にも本を納めている書店へ寄る。どちらもアルドから持ちかけた予定だった。
当日の朝、支度を終えたセドリックが上着を二着持ってアルドの部屋へ現れた。
「どっちがいいと思う?」
突然尋ねられ、アルドは二着を見比べる。
「こちらが似合うと思う」
「君はこっちが好き?」
「ああ」
答えると、セドリックは迷うことなくもう片方を戻し、選んだ上着へ袖を通した。
「そんなにすぐ決めるのか」
「君が選んでくれたから」
当然のように返され、妙にくすぐったくなる。着終えたセドリックが改めてこちらへ身体を向けたので見ると、襟元が少しずれていた。
「そこ、曲がってる」
「本当?」
アルドは目の前へ立ち、指先で襟を整えた。その間、セドリックは大人しくしていたが、すぐに終わって手を下ろそうとすると、そのまま指を取られる。
「どう?」
「似合ってる」
「よかった」
たった一言なのに、セドリックの目元が柔らかく緩んだ。
好きだと伝え合ってから、こうして触れることが増えた。以前なら手を取るにも何か理由が必要だったのに、今はその理由を探さなくてもいい。
「行こうか」
「ああ」
屋敷を出る頃には、馬車と護衛の支度も整っていた。
人目のある場所では自然と距離を取ったものの、二人で馬車へ乗り込むと、向かいへ座るより先にセドリックが自分の隣を示した。アルドも何も言わずそこへ腰を下ろす。
馬車が動き出し、窓の外の人影が遠ざかっていく。座面の上へ置いた指先に隣からそっと手が触れ、顔を向けるとセドリックもこちらを見ていた。
アルドはその手を取った。
絡んだ指の薬指同士が触れ、指輪が小さく当たる。何度も繋いだ手のはずなのに、恋人として触れているのだと思うと、それだけで口元が緩んだ。
◇
昼食の店では、奥の個室へ案内された。王族が訪れることもある店らしく、人目を避けて出入りできるようになっている。扉が閉まり、護衛も外へ下がると、ようやく二人きりになった。
セドリックが以前食べた料理をいくつか教えてくれたので、アルドはその中から一つを選ぶ。料理が運ばれてくると、向かいの皿が気になった。セドリックも同じだったらしく、アルドが一口食べたところでこちらの料理へ視線を向けている。
「そっちは?」
「美味しいよ。君のも気になるな」
「食べてみるか?」
皿を少し寄せると、セドリックも自分の皿をこちらへ近づけた。
「今度はそっちにしてみようかな」
「なら俺は別のものを頼もう。また分ければいい」
「もう次の話をしてくれるんだ」
「嫌なのか?」
「まさか」
嬉しそうに返され、アルドも笑った。
少し前まで、自分から次の約束を口にすることなどなかった。今日一緒にいられればそれで十分だと思おうとしていたし、その先まで望むのは欲張りな気がしていた。
今は、また来たいと思えばそう言える。相手も同じように、この先のことを考えてくれている。その当たり前のようなやり取りが、思っていた以上に心地よかった。
食後は馬車で書店へ向かった。
目的の書店には、奥に人目を気にせず本を見られる閲覧室も用意されていた。護衛を入口へ残し、二人で棚を見ていると、セドリックが一冊の本を持って近づいてくる。
「君も読むと思って」
開かれた頁には、以前二人で話した川沿いの古い城塞が載っていた。
「これか」
「今度、近くまで行くから、先に見ておこうかと思って」
隣から覗き込むと肩が触れる。セドリックは避けるどころか、アルドにも見やすいよう少し身体を寄せた。
頁を押さえようと伸ばした指先が重なった。二人とも一度そこへ目を落としたが、セドリックが先に口元を緩めたので、アルドも手を引かなかった。そのまま二人の指で同じ頁を押さえる。
「買う?」
「ああ。帰ったら一緒に読もう」
その一冊を買い、二人は屋敷へ戻った。
◇
夕食を終えると、セドリックは残っている仕事を片づけるため書斎へ向かった。
「少しだけで終わると思う」
「分かった」
一度は居間へ向かったものの、昼間買った本が目に入り、アルドは足を止めた。
以前なら、仕事中に用もなく訪ねることを遠慮しただろう。会いたくても理由を探し、用がないなら邪魔になると思っていた。
今は、ここにいたいというだけでも構わないのだと分かっている。
本を手に取り、そのまま書斎へ向かった。
扉を叩くとすぐに返事があり、中へ入ったアルドを見て、机に向かっていたセドリックが顔を上げる。
「どうしたの?」
「ここで読んでもいいか」
本を見せると、その表情が緩んだ。
「もちろん。そっちだと暗いね」
「それくらい自分でやる。だから仕事に集中してくれ……終わったら一緒に見るんだろ」
「そうだった」
セドリックは笑って机へ戻り、アルドも灯りを寄せて本を開いた。
部屋には頁をめくる音と、ペンが紙を擦る音だけが続く。話をしているわけでも、触れ合っているわけでもないが、同じ部屋にいるだけで落ち着いた。
城塞の図を眺めながら、後で尋ねたい場所へ栞を挟んでいると、ふと視線を感じた。顔を上げれば、机に向かっていたはずのセドリックがこちらを見ている。
「何だ?」
「いや。いるなと思って」
「いるだろう」
「うん」
それだけで満足したように書類へ視線を戻したので、アルドも少し口元を緩めて本へ目を落とした。
書類を重ねる音がして顔を上げると、セドリックがペンを置いていた。
「終わったのか?」
「うん。待たせたね」
「本を読んでいただけだ」
「でも、待っててくれたでしょう」
否定する必要はなかった。
「ああ」
素直に答えると、セドリックの表情がまた柔らかくなる。
二人で居間へ戻り、お茶を用意してもらった。買ってきた本を卓へ広げ、昼間見ていた城塞の頁から一緒に眺める。
話しているうちに何気なく笑うと、隣からじっと見られていることに気づいた。
「どうした?」
「いや。嬉しくて」
「何がだ」
「君が、僕といる時によく笑うようになってくれたから」
そう言われると急に意識してしまう。それでも以前のように目を逸らすだけでは終わりたくなくて、アルドは卓の上に置かれていたセドリックの手へ自分から指を重ねた。
「俺も、こうしているのが好きだ」
すぐに指が絡み、握り返される。
話を続けているうちに、セドリックが小さく息を吐き、肩から力を抜いた。
「疲れたのか?」
「少しだけ」
「なら、こっちへ来ればいい」
口にしてから少し恥ずかしくなったが、取り消すつもりはなかった。
セドリックは身体を寄せ、アルドの肩へ頭を預ける。重くないかと尋ねられ、大丈夫だと答えながら肩へ腕を回した。
いつもはアルドの様子ばかり気にしている人が、今は安心したように身体を預けている。そのことが嬉しくて、額へ落ちた髪を指で払うと、セドリックは目を閉じたまま、その手へ少し頭を寄せた。
「もう少しして」
頼まれるまま髪を撫でる。指の間を柔らかな髪が通るたび、肩へ預けられた重みも少しずつ増していった。
「眠いか?」
「……でも、まだここにいたい」
以前、自分も同じようなことを言ったのを思い出し、アルドは肩を抱く腕へ少し力を込めた。そのままセドリックのこめかみへ軽く口づける。
顔を上げたセドリックと目が合った。
「嫌だったか」
「逆だよ」
頬へ手が添えられ、今度は唇へ口づけられる。
最初は短かった。離れかけたところでアルドが袖をつかむと、その手へ一度目を落としたセドリックが、すぐ近くから尋ねた。
「もう少し?」
「ああ」
今度は少し長く唇が重なった。
離れるのを惜しいと思ったところで、部屋の時計が鳴る。いつの間にか、ずいぶん遅い時間になっていた。
「そろそろ支度をした方がいいな」
「うん」
そう答えたセドリックもすぐには離れようとせず、頬へ添えた手を残したままだった。アルドも取った手を放せずにいる。
今夜別れても、明日にはまた会える。少し前なら、それで十分だと思おうとしたはずだった。
今夜は、それでは足りなかった。
「……支度が済んだら、また来てもいいか」
セドリックの目が少し見開かれる。一瞬返事がなかったことが不安になり、アルドが言葉を足しかけた。
「迷惑なら――」
「来て」
重なるように返され、握られた手へ力がこもった。
「待ってる」
その顔を見て、アルドもようやく立ち上がった。
◇
自分の部屋へ戻ると、湯を使って寝支度を済ませた。夜着の上へ薄手のガウンを羽織り、タオルで髪に残った水気を取りながら鏡の前へ立つ。
行くかどうか迷っているわけではない。もう行くと決めているのに、鏡に映った自分はいつもより頬が熱を持っているように見えた。
居間で交わした口づけを思い出す。離れようとしたセドリックの袖をつかんだのも、もう少しと答えたのも自分だった。それでも足りないと思ったから、支度が済んだらまた来てもいいかと尋ねたのだ。
セドリックも、その意味が分からないわけではないだろう。そう考えるほど落ち着かなさは増していくのに、戻ろうとは思わなかった。
髪に残った水気をもう一度タオルで取り、手で軽く整える。寝るためだけなら、そんなところまで気にしなかったはずだと思うと、自分でも少し可笑しくなった。
屋敷はすっかり静かになっていた。自室を出て、居間を横切るだけの短い距離にもかかわらず、今夜は自分の足音までやけに耳につく。
扉の前で一度だけ息を整え、手を上げた。
叩くと、ほとんど待たないうちに扉が開く。
「……早かったな」
「待ってたから」
セドリックも寝支度を済ませていた。昼間はきちんと整えられていた淡い灰金色の髪が少し湿り、額へ柔らかく落ちている。
何度も見ている姿のはずなのに、今夜は首元へ視線が向いただけで妙に目の置き場に困った。
一方のセドリックは、アルドを見るなり言葉を止めた。
「……何だ」
「いや」
返事が一拍遅れ、視線がガウンへ落ちてから顔へ戻る。
「似合ってる」
「夜着だぞ」
「うん。それでも」
また見られていることが気恥ずかしくなり、アルドは先に部屋へ入った。
「入って」
「もう入ってる」
「そうだったね」
少し浮ついた返事に振り返ると、セドリックは何でもないような顔をしようとしているくせに、口元が緩んでいた。
「……嬉しそうだな」
「君が来てくれたから」
あまりに素直に返され、それ以上は何も言えなくなった。
背後で扉が閉じる。
ここで眠ったことはあるし、同じ寝台で手を繋ぎ、そのまま朝を迎えたこともあった。それなのに今夜は、扉一枚が閉じただけで二人きりになったことを強く意識する。
セドリックも少し緊張しているらしい。困ったように笑って寝台の端へ腰を下ろし、隣を空けた。
「こっちに来る?」
アルドは頷き、その隣へ座った。肩が触れそうな距離で、少し動けば膝も当たりそうだった。立って向き合っていた時より近く感じられ、膝の上へ置いた手を無意識に握ると、そこへセドリックの指がそっと触れてくる。
「まだ緊張してる?」
「……少し」
誤魔化す気にはなれなかった。
握っていた指をゆっくり解かれ、その間へセドリックの指が入り込む。何度もしたはずの手の繋ぎ方なのに、今夜は一本ずつ触れていく指先まで意識した。
掌が重なったところで、薬指にはめた指輪が小さく触れる。セドリックの親指がその縁をゆっくりなぞり、金属の上から指の付け根へ滑って、また指輪へ戻ってきた。くすぐったいだけのはずなのに、触れられている場所へばかり意識が集まる。
アルドも真似るように親指を動かし、セドリックの指輪へ触れた。そのすぐ下をそっと撫でると、絡んでいた指へわずかに力がこもる。
その反応が気になって顔を上げれば、青灰色の目がこちらを見ていた。ただ手を繋いでいるだけなのに、先ほどより互いの距離が近くなったように感じる。
「アルド」
「何だ」
「今夜は、ここで眠るだけでもいいんだよ」
「分かってる」
「僕に合わせて来たわけじゃない?」
「違う」
答えるまでに迷いはなかった。繋いだ手へ力を込めながら、きちんと言葉にする。
「俺が来たかった。ここにいたい」
セドリックの目元がわずかに緩んだものの、すぐには近づいてこない。
「途中で気が変わったら教えて」
「ああ」
「嫌なことも」
「分かった」
返事を聞いても待っている。その意味が分かり、アルドは自分から少し身体を寄せた。
触れた唇はほんの一瞬で離れたが、互いの顔は近いままだった。頬へ添えられた手のひらが温かく、親指が肌を一度撫でて止まる。
アルドが目を逸らさずにいると、もう一度唇が重なった。
今度はすぐには離れない。触れたまま少しずつ角度が変わり、先ほどとは違う近さになっていく。
「……っ」
思わず息を飲んだ。
そのわずかな反応だけでセドリックの動きが止まったため、離れてしまう前に、アルドは頬へ添えられた手へ自分の手を重ねる。止まってほしいわけではないと伝えるように自分から唇を寄せると、セドリックが一瞬息を止めた。
その反応が分かってしまったことに胸の内側が熱くなり、アルドは繋いだ手を握り直す。
深くなる口づけに息を継ぐタイミングを失い、アルドは繋いだ手へ力を込める。指と指の間がさらに近くなり、薬指の指輪がまた触れた。
ようやく息を継ぐために少し離れると、すぐ近くでセドリックも呼吸を整えていた。いつもは余裕があるように見える人が、自分と同じように息を乱している。それが妙に嬉しかった。
絡めた指をわずかに動かすと、セドリックの親指が掌へ触れ、そのままゆっくりと撫でていく。指の付け根をなぞられるたび、くすぐったさに指先が縮んだ。
「くすぐったい?」
「……少し」
「やめる?」
「そこまでは言ってない」
答えると、セドリックの口元が緩む。
アルドも親指で相手の掌を撫で返した。真似をしただけのつもりだったのに、セドリックの指がわずかに強く絡み、返事をするように指先が動く。
指輪へ触れて、掌へ触れ、また指を絡め直す。どちらが先に触れたのか分からなくなっていくうちに、ただ手を繋いでいるだけなのに、口づけとは違うところから落ち着かなくなってきた。
セドリックが繋いだ手を持ち上げ、薬指へ唇を寄せる。触れたのは、指輪のすぐ横だった。
結婚式の日、この指へ同じ人から指輪を通された時には、こんなふうにその手を絡めながら口づけられることなど考えてもいなかった。
アルドは息を止めたまま顔を上げ、目が合った瞬間、自分から繋いだ手を引いた。近づいてきたセドリックへ唇を重ねる。
先ほどより迷いはなかった。
口づけが深くなるにつれてセドリックの腕が背中へ回り、アルドも肩へ腕を回して身体を寄せる。少し離れて息を整えている間も、繋いだ指だけは離れなかった。
頬に触れていた指が髪へ移り、まだ少し湿り気の残る毛先をすくう。そのまま髪を耳へ掛けるだけかと思えば、指先が耳の後ろをなぞり、アルドはくすぐったさにわずかに肩を竦めた。
「ここ、苦手?」
「苦手というほどじゃない」
答えると、確かめるようにもう一度同じ場所へ触れられる。
「……だから、何度もするな」
「嫌ではない?」
「嫌だとは言ってない」
言った途端、青灰色の目が柔らかく細められた。
アルドが嫌がらないと分かるたび、セドリックの手は少しずつ触れる場所を増やしていった。髪を撫で、耳へ触れ、頬を包み、肩から腕へと手が移る。それでも触れ方そのものは急がず、アルドがわずかに身体を強張らせれば、すぐに動きを止めた。
だからこそ、次にどこへ触れられるのかを待っている自分にも気づいてしまう。
セドリックの手が背中へ回ったところで、アルドもその顔へ手を伸ばした。頬へ触れ、そのまま指先を髪へ滑らせる。
ほんの思いつきだったのに、額へ落ちていた淡い灰金色の髪を掻き上げた瞬間、セドリックの動きが止まった。
「……何だ」
「いや」
触れられている側になったセドリックが、少し戸惑ったように瞬きをする。その反応が妙に可笑しくて、アルドは頬をもう一度撫でた。
「セドリック」
「……うん」
「嬉しそうだな」
「君に触ってもらってるからね」
間を置かず返され、今度はアルドが黙ることになった。
頬へ置いていた手を下ろそうとすると、その指先へセドリックの指が絡む。
「もう終わり?」
「そんな顔をするな」
「どんな顔?」
「知らない」
答えながらも、アルドは手を引かなかった。絡んだ指をそのまま引き寄せ、近づいてきたセドリックへ自分から口づける。
触れた途端、背中へ回っていた腕に力が入る。それが嬉しくてアルドも肩へ腕を回し、離れた後もそのまま額を寄せた。
乱れた呼吸がすぐ近くにあり、その息が耳へ触れるだけでまた肩が竦む。
そこへ唇が触れた。
「……っ」
驚いて顔を向けると、セドリックはすぐに離れた。
「嫌だった?」
「違う……」
そう答えると、張っていた目元が緩んだ。
「……本当に分かりやすいな」
「今は隠す必要ないでしょう?」
そう言われてしまえば返す言葉もなく、アルドは代わりにセドリックの肩を引き寄せた。
口づけを重ねるうちに、互いの身体は自然と向き合っていた。アルドが肩へ回した腕に力を込め、背中を支える手へ身体を預けるように後ろへ傾くと、セドリックもその動きを追いながら一緒に寝台へ身を沈める。
背中へシーツが触れた瞬間、急に今の体勢を意識した。
すぐ上にはセドリックがいて、少し顔を上げれば唇が届くほど近い。青灰色の目に見下ろされ、行き場を失った手は反射的にシーツをつかんでいた。
その動きを見たセドリックは、近づくより先に身体を止める。
「嫌だった?」
「違う」
体勢が変わったことに驚いただけで、離れてほしいわけではない。そう伝えるようにシーツから手を離し、代わりにセドリックの夜着をつかんだ。
「このままでいい」
答えると、張っていた表情が和らいだ。
頬へ手が触れ、親指が肌を撫でる。髪を耳へ掛け、額やこめかみへ何度も軽い口づけを落とされた。肩へ触れていた手も腕をゆっくり下り、指先まで辿り着くと、また手を取って指を絡めてくる。
寝台へ移ってからも、セドリックは急がなかった。頬や髪へ触れた後、肩から背中へ手を移し、夜着越しに脇腹へ触れたところで一度動きを止める。アルドが小さく頷くと、ようやくその手が再び動いた。
許されるたびに目元が緩むのを見ていると、恥ずかしいのに嫌ではなかった。むしろ、自分へ触れたくて仕方がなかったのだと思うと、胸の奥がくすぐったくなる。
「そんなに触りたかったのか」
口にした途端、セドリックの手が止まった。
「……言わせる?」
「聞いただけだ」
「触りたかったよ」
あっさり認められ、アルドは思わず目を逸らした。
「ずっと我慢してた」
続けて落とされた声は、さっきまでより少し低かった。
その一言だけで顔が熱くなり、返事を探す代わりに繋いだ手へ力を込める。目を逸らしていても、その手だけは離れなかった。
次に触れた手がガウンの上から腰へ回り、身体を引き寄せる。距離がさらに縮まると、アルドも離れないように肩へ腕を回した。
これだけ触れられているのに、まだ近づきたいと思う。そのことに自分でも驚きながら、アルドはもう少しだけ身体を寄せた。
その動きに気づいたセドリックが、そこで手を止める。
先ほどまで髪や頬へ触れていた指が、ガウンの結び目へ届いたところで動かなくなった。
「脱がしてもいい?」
声が少し低かった。
アルドは答える前に、その手へ目を落とした。あれほど触れたがっていたのに、ここだけは勝手に進もうとしない。結び目へ触れているだけで、解こうともせず、自分の返事を待っている。
「……ああ」
答えると、セドリックは一度だけアルドの表情を確かめてから、ようやく結び目を解いた。
衣擦れの音が、静かな部屋では思っていたより大きく聞こえる。薄い生地が肩から少しずつ滑り、片方ずつ腕が抜けていった。途中からアルドも自分で腕を動かし、最後に残った袖が指先を離れる。
脱がされたガウンは寝台の脇へ丁寧に置かれた。
夜着一枚になっただけなのに、さっきまでよりひどく心許なく感じる。
セドリックも今までのようには触れてこず、アルドへ視線を向けたまま手を伸ばそうとしなかった。
先ほどまであれほど触れていた人が急に慎重になったことに気づき、アルドは少し迷ってから、その手を取った。
「……触らないのか」
口にしてから、自分で何を言ったのか分かり、顔が一気に熱くなる。
セドリックも一瞬動きを止めた。
「触っていいの?」
アルドはもう返事を言葉にできず、取った手を離さないまま自分の方へ少し引いた。
それだけで十分伝わったらしい。
頬へ触れた手は先ほどまでより慎重だった。髪へ指を通し、耳の後ろを撫で、首筋へ触れる。そこから肩へ移った手が、夜着の上から背中をゆっくりと辿っていく。
腰へ届くより前に動きが止まった。
触れた手はそのままに、セドリックがアルドの反応を待っている。
嫌ではなかった。
アルドは逃げる代わりに、肩へ回していた腕へ少し力を込めた。すると背中に留まっていた手も再び動き、身体を包むように引き寄せられる。
近づいた分だけ、視線も逃れられないほど近くなった。
見られていることを意識すると、反射的に胸元を隠そうとして手が上がった。
隠してしまう前に、手首へ指が触れる。
強い力ではない。引こうと思えば簡単に離せる程度に触れたまま、セドリックは動かなかった。
止められているのではなく、どうするのかを待たれている。
そう気づくと、余計に恥ずかしくなった。見られたくないわけではない。むしろ少し前には、自分だけを見てほしいと思っていた。それなのに実際にその視線を向けられると落ち着かず、逃げたくなるような気持ちと、逸らしてほしくない気持ちが同時に湧いてくる。
アルドは一度浅く息を吐き、自分から腕の力を抜いた。それが答えだと分かったのか、手首を包んでいた指もすぐに離れる。
もう隠さなかった。
セドリックの視線がこちらへ戻ってくる。
「……そんなに見られると、困る」
思っていたより小さな声になった。
セドリックの喉がわずかに動く。
「ごめん」
「謝ってほしいわけじゃない」
そこまで言って、自分で何を許しているのか意識してしまい、余計に顔が熱くなった。
目を逸らしかけたところで頬へ唇が触れ、短い口づけがもう一度重なる。そのまま顎へ、首筋へと触れる場所がゆっくり移っていく間も、繋いだ手は離れなかった。
アルドが指に力を込めると、同じ強さが返ってくる。
首筋へ触れた唇が、それまでより少し長く留まった。
「……ぁ」
声が漏れた瞬間、自分でも驚いて身体が固まった。セドリックの動きも止まり、名前を呼ぶ声が近くで聞こえる。
「アルド」
「……聞くな」
「何も聞いてないよ」
「なら、その顔をするな」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、セドリックの呼吸も先ほどより浅くなっている。余裕を失っているのは自分だけではないのだと分かると、恥ずかしさの中へ少しだけ安心が混じった。
アルドは繋いだ手を引き、近づいてきたセドリックへ自分から唇を重ねる。
一瞬だけ相手の身体が止まったあと、背中へ回った腕に力が入り、こちらが驚くほど強く抱き寄せられた。その反応が嬉しくて、アルドも肩へ回した腕に力を込める。
返された口づけは、先ほどまでより深かった。
わずかに開いた唇の間へ触れられ、アルドは驚いて息を飲んだ。それでも離れようとは思わず、肩を抱く腕へさらに力を込める。近づいてくる熱を受け入れるように唇を重ね直すと、セドリックの呼吸もわずかに乱れた。
息を継ぐために離れた時にも、互いの顔はまだ触れそうなほど近い。背中へ回った腕も離れず、アルドの指には繋いだ手の力がそのまま残っていた。
以前なら、どう応えればいいのか考えていたはずだった。今は触れたいと思った方へ、身体が自然に動く。
絡めた指にも、口づけと同じように力が入る。離れそうになるたび、どちらからともなく握り直し、そのたびに薬指の指輪が小さく触れた。
結婚するために交わしたはずのものが、今は互いを求めるたびにそこにある。
そのことが、嬉しかった。
アルドは繋いだ手を引き寄せ、空いた手でセドリックの頬へ触れた。指先を頬から首筋へゆっくり滑らせると、今度はセドリックの呼吸がわずかに止まる。
触れられる側になった時の反応を確かめながら、アルドは自分から口づけた。
もう触れてほしい気持ちを隠す必要はないのだと思えた。
唇が離れても、セドリックは次へ進まず、アルドの反応を待っている。
何を待っているのかは、もう分かっていた。
アルドは絡めた指を握り直した。
「……続けて」
言った後も、今度は目を逸らさなかった。
◇
朝、目を覚ますと、すぐ近くから規則正しい寝息が聞こえた。視線を上げればセドリックの顔があり、腰へ回された腕もそのままで、少し身体を動かせば脚まで触れる。
昨夜のことが一気に蘇り、アルドは枕へ顔を戻した。思い出すほど顔が熱くなる。
今日は王城へ行く予定がある。いつまでもこうしているわけにはいかないと思い、そっと身体を起こそうとしたところで、いつもとは違う重さに動きが鈍った。
寝不足だけとは違う気だるさが残っていて、起き上がるだけなのに普段より時間がかかる。
「……アルド?」
眠そうな声がして、腰へ回っていた腕に少し力が入った。
「起こしたか」
「今起きた」
セドリックもゆっくり目を開ける。
目が合っただけで、昨夜のことを思い出したのは向こうも同じだと分かった。先に困ったように笑ったセドリックが、いつもと同じ声で挨拶をする。
「おはよう」
「……おはよう」
同じ言葉を返しただけなのに、妙に落ち着かなかった。
もう一度身体を起こそうとすると、動きの鈍さに気づいたセドリックの表情が変わる。
「大丈夫?」
「ああ」
「つらいところはない?」
「ない。ただ……少し身体が重いだけだ」
答えた途端、申し訳なさそうな顔をされた。
「無理させた?」
「違う」
アルドはすぐに否定した。
昨夜、自分から何度も引き留めたことまで思い出し、また顔が熱くなる。
「嫌ではなかった。だから、そんな顔をするな」
それを聞いたセドリックはようやく表情を緩め、安心したように息をついた。
「よかった」
額へ短く口づけられる。
朝から触れられることにはまだ慣れない。それでも逃げる気にはならず、そのまま受けていると、腰へ回った腕はなかなか離れなかった。
「本当は、もう少しこうしていたいけど」
「王城へ行く」
「そうだったね」
口では納得しているくせに、腕はそのままだ。
アルドも、すぐに離してほしいとは思わなかった。
「……あと少しだけだぞ」
「うん」
返事だけはやけに早く、嬉しそうに抱き寄せられたので、アルドも諦めたようにもう一度身体の力を抜いた。
◇
結局、身支度を始めたのは予定していた時間より少し遅くなった。
湯を使い、鏡の前でシャツのボタンを留めていく。襟を整えたところで首元に薄い赤みが残っていることに気づき、アルドは手を止めた。
指先で触れると、昨夜そこへ唇が触れた時のことまで鮮明に蘇る。
「どうしたの?」
背後から声をかけられ、反射的に襟を引き上げた。
「……何でもない」
鏡越しにセドリックと目が合う。その視線がアルドの首元へ移った途端、今度は向こうが固まった。
「……ごめん」
「嫌ではなかったと言っただろう」
「でも、見えるところに残すつもりはなかったんだ」
アルドは襟を少し動かして確認した。
「隠れるから問題ない」
「そういう問題かな」
「では、次から気をつけてくれ」
言ってから、自分で何を口にしたのか気づいた。
セドリックの表情が一気に明るくなる。
「次もあるんだ」
ここで否定しても意味がない。
アルドは少しだけ考えてから、鏡越しにセドリックを見た。
「……ないと思っていたのか?」
今度はセドリックが黙る。
耳が赤くなったのを見て、少しだけ気分がよくなった。
「そろそろ支度をしよう。今度こそ遅れる」
「うん」
まだ嬉しそうなセドリックを残し、アルドは外套へ腕を通した。
背後から襟を整えられる。昨夜と同じ指が首筋へ触れ、少しくすぐったかったが、今度は避けなかった。
「ありがとう」
振り返ると、額へ短く口づけられた。
「いってらっしゃい」
「昼には戻る」
「待ってる」
その言葉を聞くと、出かけるところだというのに、もう帰ってきたくなった。
アルドはセドリックの袖を軽くつかみ、自分から頬へ口づける。
「いってくる」
扉を出てからも、背後から聞こえた「いってらっしゃい」の声がしばらく耳に残っていた。




