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10. あなたのもとへ帰る日

 それから少し経った頃、姉に会いに帰る予定を立てた。今度は公務を伴わない短い滞在で、セドリックも勧めてくれた。


「もう少し長くてもいいんだよ」

「姉さんたちも忙しい。これくらいで大丈夫だ」


 旅程を見せると、セドリックは日付を確かめて頷いた。それで話が終わりそうになり、アルドは紙の端を押さえる。


「それに、あまり長いと……俺が寂しい」


 セドリックが顔を上げた。


 言わなければ分からないと教わったのだから、今度はきちんと伝えたかった。目を逸らさずに待っていると、紙に置いていた手へ指が重なる。


「僕も。戻る日は空けておくね」


 そのまま手を握られ、指が絡む。数日離れるだけで、戻る日も決まっている。会えなくなるわけでもないのに、出発が近づくほど名残惜しさは増していた。


 アルドが繋いだ手へ少し力を込めると、セドリックも同じように握り返した。その感触にあの夜を思い出し、一瞬だけ指先が止まる。


 けれど手を離す気にはならなかった。むしろもう一度深く絡め直し、その手を握り込む。


「……行く前に」


 それだけ言えば伝わったらしい。


 セドリックが顔を寄せ、唇が触れる。短い口づけが離れかけたところで、アルドは頬へ手を添えた。


「もう一度」


 二度目は少しだけ長かった。


 近いところで互いの呼吸を感じながら、アルドは絡めた指へ力を込める。やがて唇が離れると、セドリックは額を寄せたまま小さく笑った。


「この先は、帰ってきてからね」

「……分かった」

「待ってる」

「ああ」


 指を絡めたまま、最後にもう一度だけ握り合う。


 その約束をして、アルドは出発した。


◇


 城に残していた自室は、そのままだった。使っていた机も、棚へ置いていった本もある。荷物を下ろしていると、マルタが顔を出した。


「夕食の時間までどうするの?」

「訓練場を見てくる。皆にも挨拶したい」

「剣を持たされても、食事には遅れないでね」


 以前と同じことを言われ、アルドは頷いた。


 訓練場では昔の部下に囲まれたが、少し相手をしたところで続きは明日にしようと切り上げた。夕食にはきちんと間に合い、姉の夫も交えた席で、屋敷の庭のことやセドリックと出かけた店の話をする。


 ニコに手紙を書く約束をしたと言うと、マルタは何を知らせてほしいと言われたのか尋ねた。


「馬を見たか知らせてほしいそうだ」

「それなら明日は厩へ行かなくてはね」


 食事を終え、食後のお茶が運ばれてきたところで、仕事のことを一つも話していないことに気づいた。


 姉の夫が昔よく乗った馬の名を挙げ、今もいるのかと尋ねる。アルドは明日確かめてくると答えた。


 姉の夫が先に席を外すと、マルタはカップを置いた。


「それで」

「何の話だ」

「セドリック殿下とはどうなの? 仲良くできてる?」

「してる」


 即答すると、姉の眉が少し上がった。


「手は繋いだ?」

「姉さん」

「口づけは?」

「姉さん」

「同じ部屋で眠ったことは?」


 アルドは返事をせず、お茶を飲んだ。向かいでマルタの眉がさらに上がる。


「……何だ、その顔は」

「何も言ってないでしょう」

「言ってるのと同じだ」

「私は質問しただけよ」


 楽しそうに笑う姉から目を逸らした。これ以上聞かれても答えるつもりはない。


「手紙には、そういうことは全然書いてくれなかったもの」

「そんなこと、手紙に書くわけないだろう」

「そうじゃなくて」


 マルタは少し笑い、それからアルドを見た。


「殿下によくしてもらっているとか、庭へ行ったとか、一緒に出かけたとか。そういうことはたくさん書いてくれたでしょう」

「ああ」

「でも、あなたがどう思っているのかは、ほとんど書かなかった」


 アルドはカップを持ったまま黙った。


「楽しかったとも、会いたいとも、寂しいとも書かないんだもの……ずっとそうだったわね」


 責めている様子はなかった。


 アルドは自分が送った手紙の内容を思い返した。庭の話も、水門へ行った日のことも、街へ出かけたことも書いた。それが楽しかったことや、次も一緒に行きたいと思ったことまでは、確かに一度も書いていない。


「だから、向こうでも同じことをしているんじゃないかと思ってた」

「今はしてない」


 思ったより早く答えていた。マルタが少し目を見開き、それから笑う。


「ならよかった」


 そこで話は終わるかと思ったが、マルタはアルドを見たまま、少し声を落とした。


「愛されてるのね」


 アルドは姉を見た。


 よくしてもらっていると答えかけ、出発前にセドリックと交わした約束を思い出す。寂しいと伝えても困らせることはなく、同じ気持ちだと返してくれた。戻る日は、自分のために空けて待ってくれている。


「ああ」


 今度は迷わなかった。


「愛されてる」


 口にすると、まだ少しくすぐったい。セドリックは何度も、自分がいいのだと言ってくれた。その時の顔を思い浮かべながらカップを卓へ戻すと、マルタは目元を緩めた。


「そう。それを聞きたかったの」

「手紙じゃ駄目だったのか」

「手紙でも嬉しいわ。でも、あなたは肝心なところを書かないでしょう」

「……そうだったな」


 つい先ほど指摘されたばかりだった。アルドが頷くと、姉はまた笑う。


「あなたが、自分は愛されているって言えるようになったことが一番嬉しい」


 昔から自分を見てきた姉にそう言われると、照れくさかった。


 少し前までは、幸せかと尋ねられても答えられなかった。その時も目の前にいた姉が、今は嬉しそうにこちらを見ている。


「……俺も嬉しい」

「よかった」

「ああ」


 今度の返事も、すぐに出た。


◇


 寝室へ戻り、持ってきた紙を広げた。


 ニコへの手紙は明日書くことにして、先にセドリックへ一通書く。無事に着いたことと、姉たちが元気なことを書いたところで、ペンが止まった。


 まだ一日しか経っていないのに、寝る前に話す相手がいないと落ち着かない。今日はどこへ行って、何を食べたのか。読みかけの本の続きをもう読んだのか。そんなことを聞きたい自分に気づき、少し考えてから、早く会いたいと書いた。


 帰る日を変えるつもりはない。それでも、そう思っていることまで隠す必要はなかった。


 書いた一文を読み返し、そのまま手紙を畳んだ。


◇


 滞在の半ば、マルタの執務室へ呼ばれた。


 以前の癖で仕事の話だと思い、控えの間で待っている間も何を尋ねられるのか考えていたが、中へ入ると机の手前に小さな箱が置かれていた。


「これも持っていく?」


 中には、子どもの頃に遊んでいた木彫りの馬が入っていた。脚の一本が折れて直した跡も、そのままだった。


「まだあったのか」

「あなたが捨てないでくれと言ったでしょう」


 言われてみれば、そんなことを頼んだ覚えがある。


 父が削ってくれたもので、王家へ迎えられた時に持ってきたものの一つだった。幼い頃には寝台のそばへ置いていたが、剣を習い始めた頃に箱へしまった。


 手に取ると、記憶にあるよりずいぶん小さい。腹の辺りには、何度も指で擦った跡が残っていた。折れた脚を避けて持つ手つきだけは、今でも身体が覚えている。


「持って帰る」

「そう?」

「ああ。セドリックにも見せたい」


 マルタは頷き、傷めないよう折れた脚の周りへ布を当ててくれた。その手を見ているうちに、アルドは口を開いた。


「姉さんの弟になれてよかった」


 布を折っていた指が止まる。


 マルタは黙ったまま馬を箱へ収め、それから蓋を閉じた。


「私も、あなたが弟でよかったわ」


 差し出された箱を受け取っても、姉はすぐには手を離さなかった。アルドもそのまま顔を見つめ、少ししてから箱を手元へ引き寄せた。


 子どもの頃のものを持ち帰ることになるとは、最初にこの城を発った時には考えてもいなかった。


 屋敷の寝室の棚に置けば、セドリックはきっと誰が作ったのか尋ねる。父のことも、脚が折れても手放せなかったこの馬のことも、まだ話していない。


「明日は予定通り戻るのね」

「ああ」

「寄り道をするなら先に知らせなさいよ」


 頷いて部屋を出た。


 荷造りをしていると、机の隅に置かれた本が目に入る。婚姻のために発つ前、マルタに旅の間に読むかと尋ねられた本だった。すでに読んだからと置いていったまま、場所も変わっていない。


 手に取って開くと、城や砦の図が並んでいた。セドリックと買った本より図は少ないが、こちらの国の城について詳しく載っている。


 一緒に見たくなり、そのまま鞄へ入れた。木彫りの馬を収めた箱も、隣へ詰める。


◇


 屋敷へ戻る朝、マルタはまたアルドの外套の襟へ手を伸ばした。けれど今回は途中で止め、代わりに襟元を指した。


「少し曲がってる」

「ああ」


 アルドが自分で直すと、マルタは満足そうに頷いた。


「次は二人で来なさい」

「ああ。セドリックも来たがっていた」

「あなたが剣を振っていた場所を見たいそうよ」

「本人から聞いたのか」

「手紙をいただいたもの」


 いつの間にやり取りしていたのか、戻ったら尋ねなければならない。


「変なことを教えていないだろうな」

「何を心配しているの?」

「昔の話だ」

「それなら、したわ」


 何を話したのか尋ねても、マルタは答えなかった。


 そこへ姉の夫から、そろそろ出発の時間だと声をかけられる。アルドは二人に手を振り、馬車へ乗り込んだ。


 窓の外で城が少しずつ遠ざかっていく。


 初めてここを発った日は、ずっと背筋を伸ばして座っていた。今度は座席へ深く腰を下ろし、足元の荷物を確かめる。


 次はセドリックと来る。その時は厩も訓練場も見せたいし、よく歩いた中庭も案内したい。姉から昔の話を聞かされれば、しばらくからかわれるかもしれない。


 そんなことを考えながら鞄へ手を置き、アルドは目を閉じた。


◇


 屋敷の前へ着くと、玄関の扉が開き、セドリックが階段を下りてきた。


 アルドが馬車から降りると、すぐそばまで来て手を差し出す。


「おかえり」


 差し出された手を取った途端、旅の間に話そうと思っていたことが、うまく出てこなくなった。


「会いたかった」

「手紙を読んだよ。僕も」


 引き寄せられ、そのまま抱き締められた。


 荷物を運ぶ使用人がそばを通っていったが、すぐに離れる気にはなれない。アルドもセドリックの背へ腕を回し、ようやく息をついた。


 少しして身体を離すと、セドリックの手が頬へ触れた。見上げた青灰色の目は、出発前と何も変わらない。それなのに、ほんの数日見なかっただけでひどく懐かしかった。


 アルドは周りを気にするより先に、自分から少し顔を寄せた。


 意図を察したセドリックが目を細め、そのまま短く唇が重なる。ほんの一度触れただけだったが、離れた時にはようやく帰ってきたのだと実感した。


「マルタ陛下たちは元気だった?」

「ああ。次は二人で来いと言われた」

「じゃあ予定を考えよう」


 身体を離しても、手は繋いだままだった。


 今日は君の好きな料理を用意してあると言われ、何を作ってもらったのか尋ねる。セドリックは食卓で見てほしいと笑って、先に扉を開けた。


 中へ入ると、庭へ通じる廊下も、夜に二人で座る居間も目に入る。


 持ち帰った本は、後で隣に座って渡そう。木彫りの馬は、母の裁縫箱のそばへ置きたい。寝室の棚には、まだ空いている場所があった。


 夕食の後、今日は早く休もうと言われたら、もう少し話していたいと伝えればいい。聞きたいことも、聞いてほしいこともたくさんある。


 アルドは繋いだ手を握り直した。セドリックが振り返る。


 その顔を見て、帰って最初に言うつもりだった言葉を、ようやく口にした。


「ただいま」

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


役目や恩返しを優先していたアルドが、自分の気持ちで「帰りたい場所」を選ぶまでのお話でした。

セドリックとアルドの二人を、最後まで見届けていただけたなら嬉しいです。


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