8. 役目ではない言葉
マルタが夫とともに屋敷を訪れたのは、彼女の婚礼からしばらく経った頃だった。
アルドは玄関で二人を迎えた。馬車から降りたマルタは挨拶より先に弟の顔を見て、すぐに眉を寄せる。
「……痩せたわね」
「もう治った」
心配されるほどではないと伝えたが、続いて馬車を降りた姉の夫まで、同じように心配そうな顔でこちらを見ていた。
王城での予定は翌日からで、その日は屋敷で過ごすことになっていた。応接室へ移ってお茶を用意してもらい、セドリックも同席した。マルタに体調のことを尋ねられたアルドが答えるより先に、セドリックが発熱してからの経過を話し始めた。
「二日目まではかなり熱が高かったんですが、三日目には下がりました。熱はもうありませんが、体力が落ちているので、医師からもまだ無理はしないように言われています」
「もう大丈夫だと言ったでしょう」
「君の大丈夫はあまり当てにならないんだよ。熱がある時も同じことを言ってたでしょう」
すぐに返され、アルドは口を閉じるしかなかった。向かい側では、マルタが口元をわずかに緩め、何か言いたげにこちらを見ていた。
熱に浮かされていた夜も、セドリックは寝台のそばにいた。目を覚ますたびに姿があり、手を握ってくれていたことも覚えている。今も以前と変わらず接してくれているのに、アルドはまだ返事ができずにいた。
しばらく四人で話した後、翌日の王城での予定について確認したいことがあるとセドリックが姉の夫へ声をかけ、二人は書斎へ移った。
二人きりになると、マルタは窓際に置かれた鉢へ目を向けた。
「後で庭を見せてくれる?」
「ああ。ニコも会いたがっていた」
「馬の話を聞きたい子でしょう。覚えているわ」
手紙に書いたことを、姉はよく覚えていた。体調を崩した時のことまで詳しく知っているところを見ると、セドリックからも聞いているらしい。
「式に行けなくて悪かった」
「もう聞いたわ。具合が悪かったのだから仕方ないでしょう」
「贈ったものは届いたか」
「ええ。二人への贈り物だと書かれていたのに、あの人が気に入って書斎に置いてるわ」
姉が夫のことを話す声は柔らかかった。指には以前はなかった指輪があり、それを見て、アルドはようやく姉の婚礼が無事に済んだことを実感した。
「無事に済んでよかった……。俺がこの国に来た甲斐があった」
何気なく口にすると、マルタの手が止まった。
「どうして……あなたがここへ来たことと結びつくの?」
「姉さんの婚礼も破談にならず、予定通りできたし、こちらでもよくしてもらってるから……これで役に立てたし、少しは恩を返せたと思ってる」
「まさか今も、恩を返すためにここにいるの?」
「そうだ。これが唯一、俺にできることだから」
アルドは姉を見たが、マルタは俯いたまま動かず、その表情を見ることはできなかった。
「……ねえ、アルド。出発する前に、私が何と言ったか覚えてる?」
「困ったことがあれば知らせてほしいと」
「その後よ」
覚えている。幸せになってほしい。帰りたくなったら、理由などなくても帰ってきていい。
「覚えてる」
そう答えると、マルタはようやく顔を上げ、真っ直ぐアルドを見た。
「あなたは今、幸せなの?」
すぐには答えられなかったが、その質問をされた瞬間、浮かんだのはセドリックの顔だった。
「……不自由はしていない。セドリック殿下も、よくしてくれてるし」
「待遇を聞いているんじゃないわ」
アルドは膝の上で指を組み直した。何と答えればいいのか分からなかった。
「私の代わりになろうとしていたことは知ってる。それでも、最後にあの方と暮らすと決めたのはあなた自身だと思ったから、私は送り出したのよ」
「俺が決めたことだ。姉さんが気にする必要はない」
「あなたが何を我慢していても、そう言えば私が安心すると思う?」
姉の声は強かったが、怒っているわけではないことは分かっていた。本気で心配されているのだと思うと、かえって返事をしにくかった。
「我慢は……してない」
「なら、幸せかと聞かれてどうして答えられないの」
好きだと言われて嬉しかった。会いに行けば喜んでくれた。話をすれば最後まで聞き、具合を崩した時には一晩中そばにいてくれた。
どれを口にしても、また「よくしてもらっている」という話になる。姉が聞きたいのは、それではない。
「恩を返さなければと思っていたのは、いつから?」
答えられずにいると、マルタはアルドの手へ目を落とした。
「あなたを弟に迎えたいと頼んだのは、いつか何かをしてもらうためじゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「俺があの城で暮らせたのは、姉さんが頼んでくれたからだ。父さんたちが亡くなって、俺だけになったから」
言い終えると、マルタはしばらく黙っていた。
「あの時、あなたを一人にしておけないと思ったのは本当よ。お父様やお母様のためにも、あなたの力になりたいと思っていたわ。でも、一緒に暮らし始めてからも、それだけだったと思っていた?」
アルドは顔を上げた。
「あなたがいつ帰るのか気になったのも、怪我をしていないか確かめたのも、あなたのお父さんとお母さんに申し訳なかったからだと思う?」
違う、とすぐに思った。
姉が自分を心配してくれていることを疑ったことはない。ただ、その優しさに甘えていいのだと、自分では思えなかった。
「何もできなかった頃のあなたを、邪魔だと思ったことはないわ。今だって、役に立つから大切にしているわけじゃない」
マルタは膝の上に置かれたアルドの手へ触れた。
「遠くへ行けば寂しいし、熱を出したと聞けば心配するの。弟なんだから」
当時十五歳だった姉は、アルドが初めて城で夜を過ごした日、眠れないアルドのそばへ椅子を寄せてくれた。食事に慣れない頃には先に口をつけ、隠していた足の怪我を見つければすぐに医師を呼んだ。
騎士になるより前から、何も返せなかった頃から、姉はずっと自分を気にかけてくれていた。
「幸せになってほしくて送り出したのよ。私への恩返しを続けるために、ここで暮らしてほしかったんじゃない」
アルドは何も言えなかった。
出発の日にも、姉は同じように帰りたくなったら帰ってきていいと言っていた。それを聞いてなお、自分は簡単には戻らないと決めていた。
「一緒に帰りましょう。話は私がするわ」
「帰りたくない」
考えるより先に言葉が出た。
マルタが少し目を見開く。
「あの人に会えなくなるのは嫌だ」
口にして初めて、自分が何を望んでいるのかがはっきりした。姉に言われたからでも、この国に残る理由が必要だったからでもない。
セドリックと離れたくなかった。
「好きだと言われた。俺も、一緒にいると嬉しい。でも……どこまで望んでいいのか分からない」
「何を望んでいるの」
問われて、アルドは少し考えた。
「会いたい。仕事が終わったら一緒に過ごしたいし、帰りが遅いなら待っていたい」
言葉にするたび、それだけではないことにも気づいていく。もっと近くにいたい。触れられた手を離したくないと思ったこともある。
そんなことを望んでいた自分に戸惑う一方で、嫌だとは思わなかった。
「それは、あの人に話した?」
「……まだ」
「では、私より先に聞いてもらわなくてはね」
マルタがアルドの手を包むように握る。
「私への返事はもう聞けたわ。あなたは、ここにいたいのね」
アルドは姉の顔を見た。
この国へ来ると決めた時とは違う。誰かの代わりでも、恩を返すためでもない。今ここに残りたいのは、自分がそう望んでいるからだ。
今度は迷わず頷いた。
「ああ。ここにいたい」
姉の手を握り返す。
その言葉は、思っていたよりずっと素直に口から出た。
マルタはしばらくアルドを見ていたが、安心したように息をついた。
「よかった」
「何が?」
「あの方が、あなたを大切にしてくださっているみたいだから」
アルドは返事に迷った。好きだと言われたことも、そばにいてほしいと言われたことも、まだ姉には話していない。
「……そうだな」
それだけ答えると、マルタは小さく笑った。
「あなたがいないと、食卓が静かよ」
「俺はそんなに話さないだろう」
「昨日はどうだったか聞く相手が一人減ったの。だから、今度の手紙には殿下と何をしたか書いてね」
「ああ」
話していないことはいくつもあった。水門へ出かけたことも、戻ってから二人でお茶を飲んだことも。セドリックが道を間違えて羊の柵を押さえていた話は、書いていいか本人に聞いた方がいいだろう。
「何か思い出した?」
「ああ。今、話してもいいか」
「もちろん」
マルタが身体をこちらへ向けたので、アルドはどこから話そうか少し考えてから、水門へ行った日のことを話し始めた。
◇
マルタとの話を終えた頃には、王城での予定を確認していた姉の夫も書斎を出て、応接室へ戻ってきた。セドリックはそのまま仕事を続けているらしい。
アルドは書斎へ向かった。姉に口にした「ここにいたい」という言葉が、まだ胸に残っている。セドリックと離れたくないと思っていることも、もう誤魔化せなかった。
仕事中なら後にしようかと考えながら書斎の前まで来たところで、足が止まる。こうして何度も迷っているうちに、ずいぶん返事を待たせてしまった。
意を決して扉を叩くと、すぐに中から返事があった。
「失礼します。今、お時間よろしいですか」
「もちろん。どうぞ」
返事を聞いて室内へ入ると、セドリックは手にしていた書類を重ねていた。勧められるまま長椅子へ腰を下ろすと、セドリックも隣に座り、アルドへ顔を向ける。
「先日の返事をしたくて」
「うん」
「その前に、聞いてほしいことがあります」
アルドは、婚姻の話が出た時には姉に結婚を控えた相手がいたこと、自分が代わりに婚姻を引き受ければその結婚を守れ、王家に迎えてもらった恩も返せると考えていたことを順に話した。
セドリックは何度か頷きながら、途中で口を挟まずに聞いていた。
「役目を果たせれば、それでいいと思っていました。自分がどう暮らしたいかなんて、何も考えていなかった」
「この国に来るのは怖かった?」
アルドは少し迷ってから頷いた。
「……はい」
知らない国で、会ったこともない相手と暮らすことになる。それがどんなものなのか、来るまでは想像もできなかった。
けれど、初めてセドリックと会った時、思っていたような怖さはなかった。緊張している自分を急かすことなく話を聞き、答えれば、その考えまで知ろうとしてくれた。
「いつからか、それを待つようになりました。帰りが遅い日は気になったし、誘われなくなると寂しかった」
「君に無理をさせていると思ったんだ」
思いがけない言葉に顔を上げると、セドリックもこちらを見ていた。
「務めだと言われて、僕だけが一緒にいたいのかもしれないと思った。少し離れた方が、君は楽になれるんじゃないかって」
「違う」
考える間もなく否定していた。セドリックの目がわずかに見開かれる。
「会いたかった。でも、そう言えば時間を作らせることになる。親切にしてくれているだけなのに、それ以上を求めたら困らせると思ってた」
言い終えても、今度は言い直そうとは思わなかった。
セドリックはしばらく何も言わなかった。やがて、張っていたものがほどけるように小さく息を吐く。
「……僕も、君に会いたかったよ」
その一言で、ようやく分かった。
会いたかったのも、そばにいたかったのも、自分だけではなかった。
セドリックは少しだけ困ったように笑った。
「あの日、雨が降っていたね」
どの日のことかは、すぐに分かった。
「一緒にお茶を飲みたかった」
「言ってくれたら、すぐに用意したのに」
セドリックはそこまで言ってから、自分で苦笑する。
「僕から誘ってもよかったんだよね。話しかけてくれたのが嬉しかったのに、何か用があるんだと思い込んだ」
困らせたくなくて黙っていた。そのせいで、セドリックは自分だけが一緒にいたいのだと思っていた。
隣に座るセドリックが、少しだけ身体をこちらへ向けた。目が合ったまま、膝の上に置いていた手がゆっくり差し出される。
「今もそう思ってる?」
アルドはその掌を見下ろした。以前なら、どう答えるべきか迷っていたかもしれない。
今は迷わず、自分の手を重ねた。
「まだどこまで甘えていいのか分からない」
「僕にも分からないことはあるよ。君が嫌じゃないか迷うこともある。だから、その時は教えてほしい」
重ねた手をゆっくり握られ、アルドも離すつもりはないと伝えるように握り返した。セドリックが小さく息をつく。
「こうするのは?」
「……嬉しい」
口にした途端、顔が熱くなった。それでも今度は目を逸らさなかった。
姉の前でなら言えた。ここにいたい。離れたくない。けれど、本人に伝えなければ意味がない。
握られた手の温度を確かめるように、一度だけ指を動かす。
「ここにいたい。セドリックと一緒に暮らしていきたい」
セドリックは何も言わず、ただこちらを見ていた。
「役目だからじゃない。俺が、そうしたいんだ」
繋いだ手が少し強く握られる。
胸の奥が騒がしくなったが、今なら最後まで言える気がした。
「……好きだ」
セドリックが息を止めた。
返事がないことに不安になりかけたところで、繋いだ手を引き寄せられる。
「もう一度言ってもらってもいい?」
アルドは一瞬だけ迷い、それから今度は目を逸らさずに答えた。
「好きだ。セドリックが好きだ」
握られた手に、もう一度力がこもった。セドリックは何か言おうとして唇を開いたものの、すぐには声にならず、代わりに繋いだ手を少し引き寄せ、確かめるようにアルドを見た。
「……抱き締めてもいい?」
頷くより先に、アルドは繋いでいた手をほどき、自分からセドリックの背へ腕を回した。
セドリックの身体が一瞬だけ固まった。けれど次の瞬間には、思っていたより強い腕が背中へ回り、隙間を埋めるように抱き締められる。肩へ顔を寄せると、耳のすぐそばで長く息を吐く音がした。
こうして触れたいと思っていたのは、自分だけではなかった。
それが嬉しくて、アルドも腕に力を込める。背中に回った腕が離れる気配はなかった。
「今夜も一緒にいてくれる?」
「ああ」
「眠くなったら言って。前みたいに我慢しないで」
「眠くなっても……部屋へ戻りたくない時は?」
腕の中で顔を上げると、セドリックが少し目を見開いた。それから、どこか嬉しそうに目元を緩める。
「戻らなくていいよ」
頬へ触れた手のひらが温かい。親指がそっと肌を撫でると、急に互いの顔が近いことを意識した。
式の日にも口づけは交わした。でも今は、あの時とは何もかもが違う。好きだと伝えた相手に抱き締められ、自分も離れたくないと思っている。
「……こういうのは、慣れてない」
思わず口にすると、セドリックが小さく笑った。
「僕もだよ」
「そうは見えない」
「余裕があるように見せるのは得意みたいだから」
以前聞いた言葉を思い出し、アルドも少し笑う。そのまま目が合うと、セドリックの笑みが少し薄れた。
「口づけてもいい?」
アルドは頷き、今度は待つだけではなく自分から顔を寄せた。
触れた唇はすぐに離れた。ほんの短い口づけだったのに、離れた途端、もう少しこのままでいたいと思った。身体はまだ抱き寄せられたままで、セドリックも完全には距離を取っていない。気づけば、アルドはその服をつかんでいた。
「もう一度?」
聞かれて頷いたけれど、それだけでは足りない気がして、指先に力を込めた。
「……もう少し」
言ってから恥ずかしくなり、思わず顔を伏せそうになる。けれど頬にあった手が耳の後ろへ移り、今度はゆっくりと唇が重なった。
先ほどより長い口づけだった。角度を変えながら唇が重なるたび、アルドも背へ回した腕に力を込める。やがてセドリックが離れると、すぐ近くで互いの呼吸だけが重なった。
「大丈夫?」
「ああ」
答えながらも、アルドの腕はそのままだった。セドリックもそれに気づき、もう一度だけ額が触れそうなところまで顔を寄せる。
――もっと近くにいたい。
――触れてほしい。
少し前までなら、その気持ちを口にすることさえ怖かった。けれど、もう隠す理由はない。
アルドはセドリックから目を逸らさず、もう一度自分から距離を縮めた。
◇
その夜、アルドは約束通り居間へ行った。
いつもの長椅子に並んで座り、お茶を飲みながら話していた。これまでと変わらない時間のはずなのに、肩が触れるたびに昼間の口づけを思い出す。しばらく話しているうちに、最初の緊張も少しずつほどけていった。
「眠くない?」
「少し」
「そろそろ寝ようか」
セドリックが立ち上がり、差し出した手をアルドは迷わず取った。
以前なら、ここでそれぞれの寝室へ戻っていた。今夜は手を離さないままセドリックの寝室へ向かい、そのまま中へ入った。寝台の前まで来ると、セドリックが足を止める。
「さあ、寝ようか」
「……ここで寝てもいいのか?」
「帰さないよ」
返事があまりに早くて、アルドは思わず口元を緩めた。
寝支度を済ませて灯りを落とし、二人で寝台へ入る。今夜はただ眠るだけだと分かっているのに、すぐ隣にセドリックがいると思うと妙に身体へ力が入った。
暗がりの中でそっと指先を動かすと、すぐにセドリックの手へ触れた。
「手を繋いでもいいか」
「もちろん。もう聞かなくてもいいのに」
「教えてほしいと言ってくれただろう」
そう答えて指を絡めると、セドリックが小さく笑った。
「じゃあ僕も。もう少し近くにいてほしい」
アルドは繋いだ手を離さないまま身体を寄せた。肩が触れると、セドリックの腕が背中へ回った。そのまま胸元へ額を寄せると、髪を撫でる手がゆっくり動く。
「このままでいい?」
「ああ」
すぐそばにある体温も、聞こえる呼吸も心地よかった。好きだと言い合った後で、自分からここにいたいと選び、こうして抱き寄せられている。そのことが嬉しくて、アルドはもう少しだけ身体を寄せた。
「セドリック」
「うん?」
「……何でもない」
名前を呼びたかっただけだと気づき、少し恥ずかしくなる。セドリックは理由を尋ねず、繋いだ手を握り直し、アルドも同じだけ力を返した。
朝になっても、隣にいる。
そう思うと自然に身体の力が抜けた。アルドはセドリックの胸元へ額を寄せたまま目を閉じ、繋いだ手を離さずに眠りについた。




