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7. 君に聞いてほしい

 数日後、医師から短い散歩を許されたアルドを、セドリックは庭へ誘った。


 アルドの姿を見つけたニコが勢いよく駆け寄り、抱きつこうとしたところでトーマに襟をつかまれた。


「こら!アルド様は病み上がりだって言っただろ」

「えー!でもげんきそうだよ!アルド〜もう治った?」

「もう大丈夫だ」


 アルドが笑って答えると、ニコは安心したように何度も頷いた。休んでいた間に起きたことを一つ残らず話すつもりらしく、育った苗や新しく咲いた花を次々と指さしながら、途切れることなく話し続けた。


 庭に用意された椅子へ腰を下ろし、アルドは一つずつ相槌を返す。セドリックも隣でお茶を飲みながら話を聞いていたが、しばらくすると風が冷たくなってきたことに気づき、侍女に膝掛けを頼んでアルドへ差し出した。


「ありがとうございます。ですが……そこまでしていただかなくても」


 受け取りながら、アルドは少し困ったようにそう口にした。


 熱が下がってから、何度似たような言葉を聞いただろう。お茶を持っていけば、ありがとうございます、もう大丈夫です。読みかけの本を持っていけば、ありがとうございます、後は一人で平気です。差し出したものは受け取ってくれる。そのたびに、これ以上手をかけてもらうのは申し訳ないとでも言うように遠慮する。


 看病していた時は、セドリックの袖をつかみ、ここで読んでほしいとアルドのほうから言ってくれた。なのに元気になればなるほど、また少しずつ心が遠ざかっていくような気がした。


 セドリックはカップを置き、ニコと話すアルドの横顔を見つめる。


 これまでずっと、アルドの正直な気持ちを一度も聞かずにいた。疲れさせているのではないか。政略結婚の相手だから断れないのではないか。そばにいることも、触れることも、本当は望まれていないのではないか。そう考えた末に距離を置き、そのせいでアルドは離れていった。


 これ以上、相手の気持ちまで勝手に決めてはいけない。聞いてみなければ分からない。今度こそ、アルド自身に聞くしかなかった。


◇


 夕食を終えた後も私室には戻らず、二人は居間に残っていた。

 同じ長椅子に少し間を空けて座っていたが、手を伸ばせば触れられる距離だった。セドリックは覚悟を決めたように一度息を吐き、アルドへ顔を向けた。


「一つ、聞いてもいい?」

「はい」

「僕といると疲れる?」


 アルドが目を瞬いた。


「そのようなことはありません」

「本当に?」

「はい。どうして、そのようなことを」

「最近、僕が何かすると、すぐ『もう大丈夫』って言うでしょう」

「……殿下には十分よくしていただいております。ですが、これ以上お気遣いいただく必要はありません」

「気遣いだけでしてるわけじゃないよ」


 思ったより早く言葉が出た。アルドが驚いたようにこちらを見る。


「僕は君と過ごすのが好きだ。庭へ行くのも、一緒にお茶を飲むのも、仕事の話をするのも。だから時間を作ってる」


 アルドが膝の上で重ねていた手の指先が、わずかに動く。


「君の方はどうなのか、それを知りたい」


 返事を急かさず待つ。アルドはしばらく俯いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「私も……今の暮らしは大切に思っています」


 ここでの暮らしを嫌ってはいなかった。そのことにほっとした直後、予想していなかった言葉が続いた。


「ですが……私のことはお気になさらなくて構いません。もし今後、ほかに想う方ができた時は、どうかご遠慮なく仰ってください」

「……どういう意味?」

「離縁となれば、両国にも余計な憶測を招くでしょう。表向きは今のままで構いません。私はこの屋敷を出ます。その方とここで暮らしていただければ――」

「それ以上言わないで」


 自分でも驚くほど強い声が出て、アルドの言葉が止まった。


 こんなふうに遮ったことは一度もなかったが、最後まで聞くことはできなかった。


「君は、それで僕が喜ぶと思ってる?」


 思った以上に低い声が出た。


「喜ぶとは……」

「じゃあ、僕のためになると思ってる?」


 今度はさっきよりも静かな声だった。それでも、アルドは答えなかった。


「僕が誰と一緒にいたいのか、誰にそばにいてほしいのか。君は一度でも、僕に聞いたことがある?」

「私が出ていくだけなら、殿下にご迷惑は――」

「出て行かせるのも僕が決める。迷惑かどうかを決めるのも僕だよ」


 アルドが息を止めた。


 セドリックも一度口を閉じた。声を荒らげたいわけではない。けれど、今ここでまた曖昧にすれば、アルドは本当に自分だけがいなくなる道を選ぶ。


「君はいつもそうだ。僕が困らないように、僕のためにって。それで君は平気なの?」

「……平気かどうかは、関係ありません」

「ある」


 アルドが顔を上げる。


「君が嫌なのに我慢することも、寂しいのに平気なふりをすることも、僕には関係ある。僕のためだと言って、勝手にいなくなることも」

「ですが――」

「僕の幸せのために君がここを出ていくと言うなら、僕は君を逃がさない」


 その言葉に、アルドが黙った。


「体裁のために夫婦でいたいんじゃない。誰かがこの屋敷にいてくれればいいわけでもない。君がいなくなった場所を、別の誰かで埋めるつもりもない。それで僕が幸せになるなんて、勝手に決めないで」


 これまでなら、ここまで言う前に相手の様子を見て一度止まっていた。けれど、今は止まれなかった。


「僕が一緒にいたいのは君だよ」


 アルドが小さく息を呑んだ。


「結婚が決まった理由は分かってる。国同士のためだとも。君がどういうつもりで引き受けたのかも。でも、それと僕が君を好きになったことは別だ」

「……好き?」


 小さく聞き返され、今度はセドリックが言葉を失った。そこで初めて、まだ一度もはっきり伝えていなかったことに気づく。


「うん。好きだよ」


 小さく息を吐いてから、セドリックは続けた。


「式の日、ヴェールの下の君の目を見た時、一目惚れした。でも、それだけじゃない。一緒に暮らすうちに、もっと好きになった。だから毎日、短い時間でも会いたいと思うし、できるならずっとそばにいてほしい。君に触れたいとも思ってる。気遣ってるんじゃなくて、僕がそうしたいんだ」


 アルドの視線が、一瞬だけセドリックの手へ落ちた。


「君と話したいから時間を作った。庭へ行きたかったのも、帰ってきた時に顔を見たかったのも、全部僕がそうしたかったからだよ。君が好きだから、少しでも一緒にいたかった。気遣いだけで毎日あんなことをしてたと思う?」


 アルドの唇がわずかに動いた。何かを言おうとして、迷っている。


「……でも」

「うん」

「あの夜、護衛の方とは」

「護衛?」


 思いがけない言葉に、今度はセドリックが戸惑った。


 アルドは言ってしまったことを後悔したように目を伏せたが、しばらくして続きを口にした。


「書斎で、お話しされていた方です。以前から殿下の護衛をされている」

「ああ……」


 思い当たった。長く王城で自分の護衛についている騎士だ。あの夜は仕事の報告が終わった後、昔の失敗を蒸し返されて笑っていた。


「楽しそうに話しておられました」

「うん?」

「私といる時とは、違いました」


 セドリックは黙って続きを待った。


「殿下は、私といる時はいつも気を遣われます。疲れていないか、嫌ではないかと、何度も確認してくださる。ですが、あの方とはもっと気安く話しておられた」


 そこまで聞いて、ようやく意味が分かった。


「違うよ。あの人とはそういうんじゃない」


 考えるより先に、否定の言葉が口をついて出る。


「長く一緒に仕事をしてるから、気安く話せるだけだよ。君と同じように思ったことなんて一度もない」


 アルドがゆっくりと顔を上げる。


「もしかして、それで僕が君とは親しくなりたくないと思った?」


 返事の代わりに、アルドが小さく頷いた。


「彼は長く僕の護衛をしてくれてる人だよ。知り合ってから長いし、僕がどんなことで怒るかも、どこまで言っていいかも分かってる」

「……はい」

「君とは、まだ会ったばかりだったでしょう」


「何が嫌なのかも、どこまで近づいていいのかも分からなかった。だから確かめてたんだよ。それに……好きな人には、少しくらいいいところを見せたいでしょう」


 言いながら、さすがに少し恥ずかしくなった。


「君に嫌われたくなかったし、できれば僕のことも好きになってほしかった。君が喜ぶことはしてあげたかったし、大切にしたかった。だから余裕があるように見せて、急がないようにしてたんだよ」


 アルドが完全に言葉を失った。


「親しくなりたくなかったんじゃない。むしろ逆だよ。君ともっと親しくなりたかったから、格好つけてた」


 沈黙が続く。あの夜の自分の笑顔を、アルドはずっと別の意味に受け取っていた。セドリックも、アルドの「務めです」という一言をそのまま信じ、自分から距離を置いた。


 二人とも、同じように相手の気持ちを決めつけていた。


「……あの夜」

「うん?」

「殿下に見せようと思っていたものがありました」

「僕に?」

「ニコが見つけた、猫に似た石です」

「朝、見せてくれた石?」

「本当は前の晩にお見せするつもりでした。ですが……楽しそうに話しているところを見て、そのまま戻りました」

「あの後、居間で会った時も?」

「少し話したいと思っていました」


 セドリックも覚えている。何かを言いたそうにしていたが、自分が引き留めれば負担になると思って、声をかけなかった。


「僕も、あの時話したかった。君が何か言いたそうだったのは分かってた。でも、僕から引き留めたら、また断れないんじゃないかと思った」

「私は……殿下がお疲れだと思って」

「僕は、君が僕といるのは務めだと思って」


 二人ともそこで言葉を止めた。


「僕たち、話し合いが必要みたいだね」

「……そうですね」

「さっき言ったことは、全部本当だよ。君が好きだし、そばにいてほしい。今すぐ僕と同じ気持ちになってほしいとは言わない。ただ、今度は君がどう思ってるのかも、ちゃんと聞かせてほしい」


 アルドはしばらく黙っていた。


「……少し、考えさせてください」

「うん」


◇


 自室へ戻った後、アルドはすぐには眠れなかった。

 寝台へ入って目を閉じると、セドリックの言葉を何度も思い出す。


 式の日、初めて目を見た時に一目惚れした。一緒に暮らして、もっと好きになった。会いたい。そばにいたい。触れたい。


 そこまで言われても、それが本当に自分へ向けられた言葉なのだと、まだどこか信じきれなかった。


 自分はずっと、セドリックの優しさを気遣いだと思っていた。この国へ来た自分を困らせないため。政略結婚の相手と穏やかに暮らすため。だから庭へ誘い、帰りを待っていれば喜んでくれたのだと。


 けれど、セドリックは違うと言った。


 アルドは枕へ顔を向ける。


 あの護衛と話している姿を見た時、自分にもあんなふうに笑ってほしいと思った。ほかの相手に向けられているのが嫌だった。


 あれは、嫉妬だったのだろう。


 嫉妬だと認めれば、ほかの気持ちまで見ないふりはできなかった。帰りが遅ければ待っていたかった。姿が見えなければ寂しかった。そばにいてほしいと思った夜もある。


 いつからか、セドリックの目が自分へ向けられることを嬉しいと思うようになっていた。話を最後まで聞いてくれることも、笑えば嬉しそうにしてくれることも、答えを急かさず待ってくれることも。


 自分を見るその目が好きなのだと、初めて気づいた。


 好きだと言えば、今までと同じではいられない。もっと会いたい。もっとそばにいたい。触れてほしい。


 もう、そう思っているのかもしれない。


◇


 翌朝、食堂へ入ると、セドリックはすでに席についていた。アルドを見ると、いつもと変わらない様子で顔を上げた。


「おはよう。眠れた?」

「……はい」


 嘘ではない。眠りにつくまで少し時間がかかっただけだ。


 セドリックはそれ以上尋ねず、お茶を勧めた。好きだと言われた翌朝なのに、何も変わらなかった。


 朝食の途中、今日の予定を尋ねると、午前中は王城へ行き、昼には戻るという。


「お昼はこちらで?」

「うん。そのつもり」


 昼にはまた会える。


 そう思っただけで少し安心した自分に気づき、アルドはカップへ目を落とした。


◇


 それから数日、セドリックは返事を求めなかった。朝になれば同じ食卓につき、顔を合わせれば普通に話す。アルドが会いに行けば時間を作り、互いに仕事がある時は無理に引き留めることもない。


 変わったのは、アルドの方だった。カップを受け取る時に触れる指や、すれ違う時の距離を意識するようになった。病床ではあれほど自然に手を握ってもらっていたのに、好きだと言われた今は、触れたいと思うほど動けない。自分も同じ気持ちなのだと、少しずつ分かり始めていた。


 数日後の午後、アルドは書斎の扉を叩いた。朝食の時、今日は屋敷で仕事をすると聞いている。


「どうぞ」


 中へ入ると、セドリックが書類から顔を上げた。


「どうしたの?」

「よければ……お茶を召し上がりませんか」


 一瞬驚いたように目を見開いた後、セドリックの表情が緩む。


「うん。飲みたい」


 来てよかったと思いながら、アルドは勧められるまま書斎の長椅子へ移った。向かいに座ることもできたが、少し迷ってから空けられていた隣へ腰を下ろす。


 運ばれてきた菓子を見て、セドリックが一つ手に取った。


「これを出すと、ニコが先に中身だけ食べるんだ」

「存じております。残った方を渡されました」

「君にも?」


 顔を見合わせ、二人で笑った。以前なら、ほかの誰かに向けられた笑顔と比べていたかもしれない。

 今は、目の前で自分を見て笑ってくれている。


 しばらくニコの話をしながらお茶を飲んだ後、アルドは手にしていたカップを置いた。


「セドリック」


 名前が口から出た瞬間、自分でも驚いた。セドリックもわずかに目を見開いたものの、何も言わず続きを待っている。


「うん?」


 青灰色の目が真っ直ぐこちらへ向く。今なら言えるかもしれないと思ったのに、言葉は喉の奥で止まった。


「……お茶を、もう少しいただいてもいいですか」

「もちろん」


 セドリックがポットへ手を伸ばすのと同時に、アルドの指も持ち手へ触れた。指先が重なり、二人とも動きを止めた。


 アルドはすぐには手を引かなかった。セドリックも避けようとはせず、ほんのわずかな時間、触れたままでいた。病床で手を握られていた時よりも、今の方がその温度を強く意識した。


 好きだと伝えて、この手を取ればいい。そう思いながらも、自分からその手を取るところまではまだ踏み出せなかった。


「アルド」


 呼ばれて顔を上げる。


「無理に何か言わなくていいよ。今すぐ答えなくていいって言ったでしょう」

「……はい」

「それに、君が誘ってくれただけで嬉しい」


 そんなことを言われると、帰るのが惜しくなった。


 お茶を飲み終え、仕事の邪魔をしてはいけないと席を立つと、セドリックも一緒に立ち上がり、扉まで送ってくれた。


「来てくれてありがとう。また一緒に飲もう」

「……はい」


 廊下へ出て数歩進んだところで、アルドは足を止めた。まだ話したい。そう思って振り返ると、閉まりかけていた扉の向こうでセドリックもこちらを見ていた。


 戻ろうと思えば、ほんの数歩で戻れる。名前を呼んだ時のように、もう一度だけ勇気を出せばいいのに、そこから先へは踏み出せなかった。


 アルドは小さく会釈して前を向き、そのまま歩き出した。

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